そして敷島公園に着きました。こちらには萩原朔太郎
生家の土蔵・離れ座敷・書斎が移築されています。解説を転記しましょう。
土蔵
萩原家の敷地の南東の位置にあり、表通りからもはっきりと見えた。鬼瓦の下の「萩」の文字が萩原家の所有を物語っている。朔太郎の妹、津久井幸子さんの回想によると、明治三十四年(1901)もしくは三十五年(1902)ころ建てられた。昭和二十年(1945)の前橋空襲の際、この土蔵が延焼を食い止めた。ここに保存されていたノート、原稿など数多くの朔太郎資料が、今日残ったのもこの土蔵があったればこそである。
離れ座敷
母屋と接続する渡り廊下で結ばれた萩原家の客間である。朔太郎の父密蔵が明治二十五年(1892)ころ建てたもので、八畳の部屋と床の間、円窓のある水屋がある。この部屋からは築山をあしらった立派な庭園が眺められた。北原白秋、若山牧水、室生犀星などがこの部屋で歓談した。土蔵と離れ座敷および池の位置は往事のまま復元されている。
書斎
生家の裏庭にあった味噌蔵を改造したもので、大正二年(1913)秋に工事をはじめ約三ヶ月を要して完成した。内部はすべてセセッション式統一され二重カーテンレールが施され、カーテンは東京三越から取り寄せた。机、椅子も朔太郎の考案による特注品をあてた。『月に吠える』『青猫』などの作品はこの書斎で書かれたのである。またマンドリンのレッスンにも使われ、「音楽室」とも呼ばれた。北原白秋、室生犀星も来訪した。
そうか、私の大好きな「軍隊」という詩もこの書斎でつくられたのか。
いま日中を通行する
黝鐵の凄く油ぎつた
巨重の逞ましい機械をみよ
この兇逞な機械の踏み行くところ
どこでも風景は褪色し
空氣は黄ばみ
意志は重たく壓倒される。
づしり、づしり、づたり、づたり
づしり、どたり、ばたり、ばたり。
お一、二、お一、二。
軍隊のもつ非人間性と凶暴性をこれだけ見事に表現した詩は稀有のものだと思います。こういう組織を軽々しく弄んではいけませんよ、安倍伍長。
本日の一枚です。