乱の後、後鳥羽上皇と子の土御門(つちみかど)上皇並びに順徳(じゅんとく)上皇は、北条氏によってそれぞれ隠岐(おき)、土佐(とさ)、佐渡(さど)へと流されました。上皇(天皇)が武士によって処罰を受けるのは初めてのことであり、朝廷は大きな衝撃(しょうげき)を受けました。また順徳上皇の子で当時4歳の仲恭(ちゅうきょう)天皇がご即位後わずか78日で退位させられ、新たに後堀河(ごほりかわ)天皇が即位されました。
ちなみに、在位期間の短かった仲恭天皇はご即位が認められず、長らく「九条廃帝(くじょうはいてい)」と呼ばれました。仲恭天皇と追号(ついごう)されたのは明治になってからのことです。
また、後堀河天皇はご即位時に10歳と若かったため、父で出家されていた行助法親王(ぎょうじょほうしんのう)が還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)されて上皇となられ、院政を行われましたが、天皇ご即位の経験のない上皇は前代未聞のことでした。なお、上皇は崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)後に後高倉院(ごたかくらいん)と追号されています。
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