1158年、後白河天皇は子の二条(にじょう)天皇に譲位され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった、信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激しくなりました。
一方、保元の乱の戦功によって、平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、中国の宋(そう)とのいわゆる「日宋貿易」を行って経済的実力が高まった清盛に対して、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれていたのです。
義朝は信西に不満を持っていた藤原信頼に協力して、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁したほか、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって、後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると、形勢は一気に逆転しました。清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡中に襲われて死亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、最期には処刑されてしまいました。この戦いは、当時の年号から「平治(へいじ)の乱」と呼ばれています。
※下記の映像は12月31日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
なんと言うか・・
今回のお話を聞いただけでも
人間というのはこれ程までに残酷に
なれるのものなのか・・という思いを抱きましたね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時、処刑は「ケガレ仕事」ということで、武士に任されていました。
義朝は、父親の処刑を他人にさせるよりも、せめて自分の手で行いたかったのか、あるいは御上からの指示でやらされたのか、いずれにせよ残酷ではありますね。
なんと言うか・・
今回のお話を聞いただけでも
人間というのはこれ程までに残酷に
なれるのものなのか・・という思いを抱きましたね・・
義朝は、父親の処刑を他人にさせるよりも、せめて自分の手で行いたかったのか、あるいは御上からの指示でやらされたのか、いずれにせよ残酷ではありますね。