先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものは、いずれは必ず「返す」ことになりますよね。
だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還し奉る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの「討幕の密勅」がその根拠を失うという概念も成立させてしまいました。
さらには、徳川家がほぼ無傷で生き残ったことで、来るべき新政権の中心的存在として、そのまま政治の実権を握り続けるという可能性をも秘めるようになったのです。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤(いきどお)った薩長両藩や公家の岩倉具視らの討幕派は、慶応3(1867)年旧暦12月9日に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを「王政復古の大号令」といいます。
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ぴーち こんばんは!
敵もさる者引っ掻く者・・
さすが幕府もなかなかですね^^
薩摩藩の行動はどう出たのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ここまで来ると、まさに「キツネとタヌキの化かし合い」ですね。
薩長が考えた奥の手とは…。
敵もさる者引っ掻く者・・
さすが幕府もなかなかですね^^
薩摩藩の行動はどう出たのでしょうか・・
薩長が考えた奥の手とは…。