もっとも、西郷のような政府の重鎮が国交のない国に出かけて万が一のことがあれば、朝鮮とはそのまま戦争状態となってしまうのは明らかでした。留守政府は西郷の朝鮮への派遣(はけん)を一度は閣議(かくぎ)で内定したのですが、一報(いっぽう)を聞いてあわてて帰国した使節団の岩倉具視や大久保利通・木戸孝允らが猛反対(もうはんたい)しました。
西洋の発展(はってん)を直接目にしたいわゆる「外遊組(がいゆうぐみ)」にとっては、富国強兵や殖産興業(しょくさんこうぎょう)を一刻(いっこく)も早く行い、列強からの侵略を受けないようにすることこそが最重要課題であり、朝鮮半島に深く関わりを持つ時間的あるいは経済的余裕はないという立場でした。
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでしたし、彼らには朝鮮との外交問題を通じて、それまで活躍の場をなくしていた士族を救済(きゅうさい)したいという思惑(おもわく)もあったのです。
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青田です。 黒田先生
青田です。
昔、高校の歴史の授業で、歴史の教師は、『韓国』では、
『西郷隆盛』、『島津斉彬』が嫌われている
と話していました。
もちろん、西郷隆盛を『征韓論者』として
捉えていたからです。
では、なぜ、西郷隆盛が『征韓論者』になったかと私なりに考えてみると
やはり、朝鮮半島の人の島津家(薩摩)への恐怖感があったような気がします。
秀吉の朝鮮派兵の時、朝鮮の英雄の李舜臣将軍を殺したのは、島津義弘でした。
(もっとも、休戦協定を破って、攻撃してきたのは、朝鮮側だったのですが)
この島津軍を朝鮮では、鬼シマーズと呼び、
『死を恐れない軍団』『日本の南に住んでいる一族で、裁判所はあるが刑務所はない。(切腹、蟄居を自らする)』と李氏朝鮮の記録に残っていました。
つまり、韓国からすると、島津(薩摩藩)は、朝鮮の英雄を倒した憎くて、恐ろしい集団というイメージを持っていたからです。
そのイメージ(先入観)で、西郷隆盛、島津斉彬を観ると
『異韓論』が『征韓論』に摩り替った気がします。
ただ、日本の歴史教育で、韓国側にそこまで配慮した内容をするのも、??と思いますが。。
今、考えると、かなり、歪んだ歴史授業ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、歴史観も見方によってはずいぶん変わってくるという見本のようですね。
いずれにせよ、歪んだ内容は願い下げではありますが。
青田です。
昔、高校の歴史の授業で、歴史の教師は、『韓国』では、
『西郷隆盛』、『島津斉彬』が嫌われている
と話していました。
もちろん、西郷隆盛を『征韓論者』として
捉えていたからです。
では、なぜ、西郷隆盛が『征韓論者』になったかと私なりに考えてみると
やはり、朝鮮半島の人の島津家(薩摩)への恐怖感があったような気がします。
秀吉の朝鮮派兵の時、朝鮮の英雄の李舜臣将軍を殺したのは、島津義弘でした。
(もっとも、休戦協定を破って、攻撃してきたのは、朝鮮側だったのですが)
この島津軍を朝鮮では、鬼シマーズと呼び、
『死を恐れない軍団』『日本の南に住んでいる一族で、裁判所はあるが刑務所はない。(切腹、蟄居を自らする)』と李氏朝鮮の記録に残っていました。
つまり、韓国からすると、島津(薩摩藩)は、朝鮮の英雄を倒した憎くて、恐ろしい集団というイメージを持っていたからです。
そのイメージ(先入観)で、西郷隆盛、島津斉彬を観ると
『異韓論』が『征韓論』に摩り替った気がします。
ただ、日本の歴史教育で、韓国側にそこまで配慮した内容をするのも、??と思いますが。。
今、考えると、かなり、歪んだ歴史授業ですね。
いずれにせよ、歪んだ内容は願い下げではありますが。