松方財政が原因と考えられる全国的な不況によって、支持者であった地主や農民が経営難から脱落する者が多くなったことで、自由民権運動は資金面で大きな影響を受けました。
一方、政府は明治15(1882)年に集会条例を改正して取り締まりを強化したり、同年に暴漢に襲われた自由党の板垣退助(いたがきたいすけ)を外遊させたりするなど、自由民権運動を側面から切り崩そうとしました。なお、板垣は暴漢に襲われた際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことが知られています。
板垣らの外遊については政府が政商の三井を通じて資金援助していましたが、これについては自由党の内部からも批判の声が多く、また政府の資金援助を受けたことに対して立憲改進党が自由党を攻撃すると、逆に自由党が立憲改進党と政商の三菱との密接な関係を攻撃するなど、自由民権運動の指導部が混乱状態になってしまいました。
行きづまりを見せた自由民権運動に対して、追いつめられた熱心な運動家の中には急進的な考えから直接行動に訴える者も現われました。いわゆる「激化事件」の始まりです。
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