船長は神戸の領事裁判所で裁判を受けましたが、同じイギリス人の判事は無罪の判決を言い渡しました。多くの日本国民はこの判決に激怒し、政府も船長を殺人罪で告訴して横浜領事裁判所で再び裁判が行われましたが、船長に下された判決はわずかに禁錮(きんこ、監獄に閉じ込める刑罰のこと)3か月であり、被害者への賠償は一切行われませんでした。
我が国で罪を犯した外国人に対して、同じ外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判が行われることが不可能であることを嫌というほど思い知らされた国民の間から、領事裁判権の撤廃を求める声が日増しに高くなっていきましたが、そんな折に外国人判事を認める井上の改正案が発覚したものですから、国民の怒りが頂点に達してしまったのです。
結局、井上の改正案は見送られ、条約改正の交渉を中止するとともに、井上は混乱の責任を取って外務大臣を辞任しました。
なお、井上による一連の条約改正交渉に失望した民権派によって先述した「三大事件建白運動」が始まり、自由民権運動が再び活発化しました。また、同じ紀州沖でこれより4年後の明治23(1890)年に再び起きた不幸な遭難(そうなん)事故(=エルトゥールル号事件)が、我が国とトルコとの厚い友情のきっかけとなりました。
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我が国において外国人を被告とする裁判に対して、半数以上の外国人の判事(=裁判官)を採用するという条件が付いていたのです。もしこれが実現した場合には、仮に領事裁判権が撤廃されたとしても、過半数の外国人判事が存在することで、我が国で罪を犯した外国人に有利な判決が出る可能性が高いことは明白でした。
井上の改正案は政府内からも批判が多く、我が国のフランス人顧問で法学者のボアソナードが反対したほか、農商務大臣の谷干城(たにたてき)が抗議の辞任をしました。
やがて改正案の内容が一般の国民の知るところとなると、井上によるそれまでの極端な欧化政策に反発していた民衆が前年に起きていた「ある事件」に対する不満もあって激高し、収拾がつかなくなってしまいました。
では、その「ある事件」とは何だったのでしょうか。
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井上は、条約改正を有利に進めるためには欧米列強の制度や風俗あるいは習慣や生活様式などを我が国でも積極的に導入すべきであると考え、明治16(1883)年に洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)を東京・日比谷に建設して、国際的な社交場としました。
鹿鳴館では連日のように舞踏会が行われ、我が国の要人も夫人に洋装させてダンスを踊り続けました。井上によるこれらの手法は「欧化政策」(または「欧化主義」)と呼ばれていますが、条約改正のためには格式にこだわってはいられないという明治の要人たちの必死の思いと気概(きがい)を感じさせるエピソードでもあります。
こうした努力が実ったのか、明治20(1887)年には外国人の内地雑居(ないちざっきょ、外国人に我が国への自由な居住を認めること)を認める代わりに領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を盛り込んだ改正案を列強が了承しました。
しかし、領事裁判権の撤廃には「ある条件」があり、またその条件と深くかかわった「ある事件」が起きていたことによって、井上は政府の内外で大きな非難を受けてしまったのです。
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寺島はアメリカとの間で関税自主権回復の同意を得ることができましたが、当時アジアに対して大きな利権を持っていたイギリスやドイツが反対したことで、交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げてしまいました。
また、寺島が条約改正の交渉をしていた頃の明治10(1877)年にイギリス商人のハートレーが我が国にアヘンを密輸入して捕まりながら、イギリス人の裁判によって無罪となったという「ハートレー事件」が起きました。
さらに明治12(1879)年に西日本を中心にコレラが流行した際に、神戸に停泊していたドイツ船のヘスペリア号が我が国からの検疫(けんえき)命令を無視して横浜入港を強行したことで、結果として関東地方でもコレラによる被害が拡大し、全国で10万人を超える多数の死者を出してしまったという「ヘスペリア号事件」が起きました。
こうした流れを受けて寺島は外務卿を辞任し、条約改正に向けての交渉も失敗に終わりました。そして、ハートレー事件やヘスペリア号事件のような出来事を繰り返させないためにも、政府は領事裁判権の撤廃を優先して交渉を続けることになりました。
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第二次伊藤内閣も第四議会で民党と対立しましたが、明治26(1893)年2月に明治天皇から「和衷協同(わちゅうきょうどう、心を合わせて互いに協力して行動すること)の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)」が出されました。
和衷協同の詔の主な内容は、天皇お自らが宮廷費を6年間節約されて毎年30万円を下付(かふ、下げ渡すこと)され、また文武官の俸給(ほうきゅう)を10分の1出させることによって軍艦の建造費に充(あ)てるので、議会も政府に協力するようにというものでした。民党は詔に従って政争を中止し、その年の予算案も修正して成立させました。
ただし、その後も条約改正交渉の進展などをめぐって議会が政府を攻撃したこともあり、政府と衆議院との対立は明治27(1894)年の日清戦争直前の第六議会まで続きました。なお、第一議会から第六議会までを総称して「初期議会」と呼ばれています。
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民党の仕打ちに激怒した海軍大臣の樺山資紀(かばやますけのり)は、議会の演説で「今日の我が国が安寧(あんねい)を保っているのは誰の功績か分かっているのか!」とぶち上げました。
樺山海相のいわゆる「蛮勇(ばんゆう)演説」に対して民党が猛反発したことで議会は大混乱となり、進退窮(きわ)まった第一次松方内閣は同年12月25日に衆議院を解散し、翌明治25(1892)年2月に総選挙が行われることになりました。
この総選挙の際に内務大臣の品川弥二郎(しながわやじろう)を中心に大規模な「選挙干渉」が行われ、選挙中の死者が25名、負傷者が388名を数える惨事となってしまいました。
政府による干渉にもかかわらず、民党は過半数こそ達しなかったものの優勢での勝利となり、品川内相は引責辞任して政府を支持する議員をまとめた国民協会を結成しました。なお、第一次松方内閣は第三議会終了後に退陣しています。
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いわば国益を最優先させた山県首相の演説に対して当時の民党が一斉に反発し、行政費を節約して地租の軽減や地価の修正を行うべきだと主張しました。これを「政費節減・民力休養」といいます。
山県内閣(第一次)は民党からの激しい攻撃を受けたものの、立憲自由党の議員を切り崩して何とか当初の予算案を一部修正して成立させましたが、山県首相は翌明治24(1891)年5月に辞職しました。
山県は明治31(1898)年にもう一度内閣を組織すると、その後も元老(げんろう)として我が国の政治に大きな影響を及ぼしましたが、大正11(1922)年に85歳で死去しました。我が国を守るためとはいえ、ひたすら軍事力の増強を訴え続けた山県に対して当時の国民は冷たく、日比谷公園で行われた彼の国葬の参加者も大変少なかったそうですが、歴史の現実としては予算案の通過からわずか3年後に日清戦争が起きており(詳細はいずれ後述します)、山県の判断が結果として正しかったことが証明されています。
山県有朋の遺(のこ)した実績を振り返ったとき、たとえ国民的な人気を得られなかったとしても、国益のために命がけで取り組んだ「本物の政治家」の生き様を私たちは目にすることができるかもしれませんね。
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選挙の結果、定数300に対して旧自由党を母体として結成された立憲自由党が131議席、立憲改進党が41議席を得て、両党だけで過半数を占(し)めることになりました。なお当時は両党のように政府と対立する傾向にあった政党は「民党」と、また政府寄りの政党は「吏党(りとう)」と呼ばれました。
この結果を受け、政府は大日本帝国憲法(=明治憲法)発布当時の首相であった黒田清隆(くろだきよたか)が主張した超然主義をそのまま引き継ぎ、民党との対立姿勢を明らかにしました。
超然主義とは「政府が行う政策は政党の動向に左右されることは一切なく、超然として不偏不党(ふへんふとう)の姿勢を貫く」という意味であり、19世紀末の帝国主義の世界情勢の中で、我が国が欧米列強からの侵略を受けて植民地と化してしまうことのないように、政府の主導によって国難に正面から立ち向かっていくという強い意思表示でもありました。
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次に、条約改正の目的もあって民法と商法の編纂が進められ、明治23(1890)年に民法・商法・民事訴訟法や刑事訴訟法が新たに公布され、法治国家としての体裁が整いました。
ところが、民法の概要が当時のフランス法的な個人の尊厳を重視する一方で、我が国古来の家族に関する慣習を無視したものであったため、制定前後から様々な意見が飛び交いました。これを「民法典論争」といいます。
論争において、憲法学者の穂積八束(ほづみやつか)が自らの論文で「民法出(い)デテ忠孝亡ブ」と書いて厳しく批判した一方で、梅謙次郎(うめけんじろう)は民法をそのまま導入すべきと主張しましたが、最終的には民法の施行(しこう)が延期され、大幅な修正が加えられたうえで明治31(1898)年に新民法が公布されました。
新民法はドイツ民法を参考として我が国の家制度の維持を重視しており、家長たる戸主(こしゅ)に家族の統括者という地位を与えて、戸主の地位をその権利義務一切を含め、原則として長男のみに一括して相続させるという家督(かとく)相続の制度を採用しました。
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国会は「帝国議会」と呼ばれ、対等の権限をもつ貴族院と衆議院からなる二院制が採用されました。なお、両院は対等ではあったものの、予算の編成は衆議院に先議権がありました。
このほか、憲法において国務大臣は各自がそれぞれ天皇を補佐する責任を持つとされましたが、実は大日本帝国憲法には「内閣総理大臣」や「内閣」の文字はありませんでした。これは、憲法に内閣の文字を入れることで、総理大臣すなわち首相がかつての江戸幕府の将軍のように力を持ち、天皇を軽んじる可能性があることを、幕府と命がけで戦った経験を持つ伊藤博文が恐れたからだという説があります。
なお、憲法公布と同時に、皇位の継承やいわゆる摂政の制度などを定めた皇室典範(こうしつてんぱん)や、貴族院令あるいは衆議院議員選挙法も公布されました。
このうち貴族院は皇族や先の華族令で規定した華族のほか、国家の功労者や学識者などから天皇により任命される議員や、各府県から一人ずつ選出された多額納税者議員から構成されました。なお、衆議院議員選挙法の詳細については次回(初期議会)で改めて紹介します。
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