一方、当時の第二次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣や参謀本部は、自分たちに対して何の連絡もせずに勝手に兵を動かした関東軍の行動を牽制(けんせい)して「不拡大方針」を発表したものの、関東軍はこれを無視して攻撃を続け、事変から半年以内で満州全土を統一しました。
当時の日本国民世論は、関東軍の独断専行が満州の権益を、すなわち我が国の権益を守るものとしてこぞって支持し、そのあおりを受けて昭和6(1931)年12月に第二次若槻内閣が総辞職すると、代わって立憲政友会総裁の犬養毅(いぬかいつよし)内閣が成立しました。
満州事変によって中国の対日感情は極端に悪化し、翌昭和7(1932)年には日本人僧侶(そうりょ)が上海(シャンハイ)で殺害された事件をきっかけとして、我が国の海軍陸戦隊がチャイナの軍隊と衝突しました。これを「第一次上海事変」といいます。
第一次上海事変はイギリスなど列強の調停によって5月には停戦協定が結ばれ、日本軍はただちに撤退しました。これを上海停戦協定といいますが、この間4月29日の天長節(後の天皇誕生日→昭和の日)祝賀会の際に朝鮮人によって爆弾が投げられ、列席していた上海派遣軍司令官が死亡したほか、重光葵(しげみつまもる)公使が片足を失う重傷を負っています。
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