例えば、夏目漱石は大正3(1914)年に発表した小説「こゝろ」の中で「其時(そのとき)私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終わつたやうな気がしました」と書き、また森鴎外も乃木大将の自刃に際して歴史小説「興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書」を書き上げました。
また、陛下の崩御直後から、世界の新聞では明治天皇の治世を絶賛する記事が見られるようになり、英米などを中心に「偉人中の偉人であった」「世界の最大君主と同列に立つことを得たりし聖帝(せいてい)、いやそれ以上であった」と明治天皇を称(たた)えています。
明治天皇は我が国のみならず、世界史的スケールにおいて、どの君主にも勝る稀代(きだい)の英雄として世界中から仰(あお)がれていたのです。
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翌々日の7月20日には陛下のご不例(ふれい、この場合は天皇のご病気のこと)が国民に公表され、日本国内は憂色(ゆうしょく)に包まれました。多くの国民が陛下のご平癒(へいゆ)を願って続々と皇居に集まったほか、全国の神社や仏閣でもご病気平癒の祈願が行われました。
しかし、明治天皇のご病状は悪化する一方で、ご持病であった糖尿病に加えて26日には尿毒症(にょうどくしょう)を併発され、容易ならぬご重態となられました。
多くの国民の祈りもむなしく、明治天皇は同年7月30日午前0時43分に61歳(満年齢59歳)で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。陛下の崩御を受けて、皇太子嘉仁親王(よしひとしんのう)が直ちに践祚(せんそ、皇位の継承のこと)されて第123代天皇(=大正天皇)となられ、元号も「大正」に改まりました。
明治天皇の大喪(たいそう)の儀は大正元(1912)年9月13日に東京で行われ、ご霊柩(れいきゅう)は翌14日に京都へ列車にて移送され、降りしきる雨の中を伏見の桃山御陵(ももやまごりょう)にご埋葬されました。なお、大喪の儀が行われた同じ日に、明治天皇のご信任が厚かった陸軍大将の乃木希典(のぎまれすけ)が、天皇の後を追うように夫妻ともに自刃(じじん)して、国民に大きな衝撃を与えました。
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自然科学(特に医学)の発達によって、明治期には我が国でも近代的な病院がつくられるようになり、明治25(1892)年には北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)によって伝染病研究所が設立され、伝染病の予防と治療の施設が初めてつくられました。
また、佐野常民(さのつねたみ)らによって設立された博愛社(はくあいしゃ)は、明治20(1887)年には日本赤十字社と改称され、明治45(1912)年には明治天皇の皇后であられる昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が国際赤十字に資金を寄付されました。
この資金は「昭憲皇太后基金」として、今でも世界各国の医療活動に幅広く活用されています。また現在の日本赤十字社の名誉総裁は皇后陛下であらせられます。
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「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合がございますのでご留意ください。
①会場入り口に備え付けてある『消毒用アルコール』で手指を消毒してください。
②受講中は『マスク』着用を必須とします。
③『咳エチケット』をお守りください。
④風邪症状がある場合等は受講を慎重にご判断ください。咳・発熱などの一般的な風邪症状がある場合には、受講をお控えいただくようお願いいたします。
オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりますので、ご参照ください。また、準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは3日前(9月24日)の正午(午後0時)までとなりますのでご注意ください。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。
江戸時代を5度にわたって振り返る2回目は「元禄時代」と題して、4代将軍の徳川家綱や5代将軍の徳川綱吉の時代を中心に、江戸初期の内政および外交や諸産業の発達、世界初の「庶民から生まれた文化」である元禄文化など幅広い内容について、いつもの黒田節で分かりやすく解説します。
(クリックで拡大されます)
第80回黒田裕樹の歴史講座
「江戸時代その2 ~元禄時代~」
主催:株式会社スペック・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和2年9月27日(日) 午後2時より
会場:シアターSPEC(株式会社スペック)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
※会場は「太融寺」交差点角の太融寺の隣、茶色いレンガ模様の9階建てのビルの8階です。1階に大阪商工信用金庫があります。ホワイティうめだの「泉の広場」M14出口を左側から出て、扇町通沿いに真っ直ぐ歩いてください。
参加費:金2,000円(高校生以下は無料、その他学生割引あり)
※オンライン式講習会のお申し込みにおいて、レジュメを事前に郵送でご希望の場合は金2,500円(税込)になります
オンライン式講習会のお申し込み締め切り:9月24日の正午(午後0時)まで
※対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です
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①まずはこちらのURLから「お申し込み」をクリックしてください。
https://rekishidojo.com/
②講座申込フォームに必要事項を記載のうえ、送信してください。折り返し、ご指定のメールアドレスに事務局からの案内メールが届きますので、それをご参照のうえ、24時間以内にPayPalまたは銀行振込で参加費をお支払いください。
③講座当日に使用するレジュメは、ご入金確認後にレジュメデータ(PDF)をメールにてお送りさせていただきます。なお、ご入金の確認が取れない方につきましては、キャンセル扱いとなりますのでご注意ください。
<当日ご準備いただくもの>
①カメラ&マイク機能搭載のパソコン
※スマートフォンのアプリからもご使用いただけますが、画質・音質に不具合が生じる可能性があります。スマートフォン以外のパソコンを使用されることを推奨いたします。
②歴史講座レジュメ
※レジュメにつきましては、ご入金後にメールにてレジュメデータ(PDF)をお送りさせていただきます。なお、レジュメの事前の郵送も承りますが、先述のとおり参加費が金500円追加となります。
<ZOOMの招待状について>
ZOOMでご参加いただくためには、事務局よりお送りさせていただく『招待状』よりご入室していただく必要があります。招待状につきましては、講座前日の午後4時以降にお送りします。
その他、ご不明な点がございましたら、ご遠慮なく下記の事務局にまでお問合せください。
<お問い合わせ先>
〒530-0051
大阪府大阪市北区太融寺町5-15梅田イーストビル8階
電話:050-3530-8995
メール:theaterspec@specgroup.jp
黒田裕樹の歴史講座事務局(株式会社スペック内)
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我が国初の官立公共図書館となった書籍館は、明治30(1897)年には帝国図書館となり、現在の国立国会図書館のルーツとなりました。またこの他にも全国で公開図書館が次々と設立され、国民に広く利用されました。
書籍館が開かれた同じ明治5(1872)年に、湯島聖堂の大成殿(たいせいでん)で博覧会が行われたほか、翌明治6(1873)年にウィーン万国博覧会が開かれたのをきっかけとして、内務省系の博物館(現在の東京国立博物館)と文部省系の博物館(現在の国立科学博物館)が設立されました。また、その後に全国各地で博覧会が開かれたことで、地方においても博物館が建てられました。
なお、当時の帝国図書館や内務省系・文部省系の博物館は、いずれも上野公園にありましたが、これは寛永寺(かんえいじ)の境内地(けいだいち)を公園化したものであり、現在の東京の芝公園や浅草公園も、それぞれ増上寺(ぞうじょうじ)や浅草寺(せんそうじ)の境内地がその由来であるなど、我が国で広大な敷地を持つ公園の多くは、大名屋敷の庭や大寺院あるいは神社の境内地を利用したものです。
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その後、明治20(1887)年に伊沢修二(いざわしゅうじ)を校長として東京音楽学校が設立され、本格的な音楽教育が始まりました。なお、東京音楽学校は現在の東京芸術大学音楽学部の前身にあたります。
やがて、日本人からも滝廉太郎(たきれんたろう)のような優れた音楽家が現れ、彼が作曲した「荒城の月」「箱根八里」「花」などは、現代に至るまで広く歌い継がれています。
また、日清戦争の頃には軍歌が流行したほか、学校の校歌や寮歌(りょうか)も愛唱されました。早稲田大学の校歌である「都の西北(せいほく)」や、旧制第一高等学校の寮歌である「嗚呼(ああ)玉杯(ぎょくはい)に花うけて」などが有名です。
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新派劇では、川上音二郎(かわかみおとじろう)によるオッペケペ―節が大流行したほか、新聞小説や流行小説から題材をとるようになり、ますます発展しました。
日露戦争後には、坪内逍遥らが文芸協会を設立したり、あるいは小山内薫(おさないかおる)と二代目市川左団次らが自由劇場を発足させたりして、新劇(しんげき)と呼ばれた西洋の近代劇を上演しました。
なお、文芸協会の解散後には、島村抱月(しまむらほうげつ)や松井須磨子(まついすまこ)らが芸術座を結成しています。
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また、明治の中期頃までには九代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)や五代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次(いちかわさだんじ)らの名優が出て、歌舞伎は「団菊左(だんきくさ)時代」と呼ばれる全盛期を迎えました。
こういった背景には、文明開化や欧化主義といった極端な西洋化に反発するかたちでの伝統保存への気運や、演劇改良運動による歌舞伎の社会的地位の向上がありました。なお、明治22(1889)年には歌舞伎座が建てられています。
その後、歌舞伎は西洋演劇の手法が取り入れられ、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)による史劇「桐一葉(きりひとは)」などがつくられました。
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その後、明治29(1896)年に東京美術学校に洋画科が新設されたほか、同年にはフランス印象派の画風を学んだ「読書」や「湖畔(こはん)」で有名な黒田清輝(くろだせいき)が白馬会(はくばかい)を創立しました。
彫刻では、フランスのロダンに学んだ荻原守衛(おぎわらもりえ)が「女(おんな)」などの西洋風の彫塑(ちょうそ)を発達させた一方で、高村光雲(たかむらこううん)は「老猿(ろうえん)」などの伝統的な木彫(もくちょう)による作品を残しました。また、建築では優れた洋風建築が建てられましたが、なかでもイギリス人コンドルの「ニコライ堂」や、辰野金吾(たつのきんご)による「日本銀行本店」が有名です。
以上のように、明治期には伝統美術と西洋美術とがそれぞれ発展しましたが、両者の共栄共存を考えた文部省は、第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の文部大臣であった牧野伸顕(まきののぶあき)の尽力もあって、明治40(1907)年に文部省美術展覧会(=文展)を設けました。
なお、文展はその後大正8(1919)年には帝国美術院展覧会(=帝展)へと引き継がれ、現在の日本美術展覧会(=日展)につながっています。
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一方、哲学のアメリカ人教師として来日した「お雇い外国人」のフェノロサは、我が国の伝統芸術を高く評価してその保存を訴え、助手の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、明治20(1887)年に開設された東京美術学校の設立に尽力しました。
このように、政府と民間とが一体となって伝統芸術を支えたことにより、狩野芳崖(かのうほうがい)の「悲母観音(ひぼかんのん)」や橋本雅邦(はしもとがほう)の「竜虎図(りゅうこず)」などの優れた日本画が描かれたほか、明治31(1898)年には日本美術院が設立されました。
日本美術の再評価の気運が高まったことで、政府は明治30(1897)年に古社寺(こしゃじ)保存法を制定し、いわゆる国宝の指定や保護に関する法的な根拠が定められました。なお、東京美術学校は、現在の東京芸術大学の前身にあたります。
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