ソ連によるこうした動きは、それまで同国の支配下に置かれてきた東ヨーロッパ諸国において、共産主義体制の過酷な抑圧からの解放を求める声が高まる流れをもたらしました。
例えば、スターリン批判が行われた同じ1956(昭和31)年には、ハンガリーで政治的自由化を求める改革運動が起こりましたが、東欧諸国の自由化の波が拡大することを恐れたソ連が軍事介入を行って弾圧しました。これを「ハンガリー動乱」といいます。
また1968(昭和43)年には、チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)で政治や経済の自由化への改革が行われましたが(これを「プラハの春」といいます)、ソ連などのワルシャワ条約機構軍が軍事介入を行って強引に鎮圧しました。
これら一連の事件は、いわゆる「スターリン批判」後も、ソ連による共産主義に基づく東欧の支配が軍事力による一方的かつ抑圧的なものであることを世界中に認識させるとともに、国際的な非難を浴びたソ連の影響力を次第に低下させる流れをもたらしました。
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その後、1954(昭和29)年のジュネーブ国際会議で「インドシナ休戦協定(=ジュネーブ協定)」が結ばれ、フランス軍がベトナムから撤退しましたが、北ベトナムは1949(昭和24)年に誕生したベトナム共和国(=南ベトナム)と北緯17度線を境界に分離されました。
一方、冷戦が続く中において連帯を強めたアジア・アフリカの新興独立諸国を中心として、1955(昭和30)年にインドネシアのバンドンで「アジア=アフリカ会議(=バンドン会議)」が開かれ、我が国など29か国が参加しました。
史上初の有色人種だけによる国際会議となったアジア=アフリカ会議では、反植民地主義や平和共存などの「平和十原則」が採択され、全世界に「第三勢力」としてのアジア・アフリカ諸国の存在と結束とを印象づけることとなりました。
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しかしその一方で、1955(昭和30)年にアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の各首脳がスイスのジュネーブで集まり、軍縮やヨーロッパの安全保障あるいは東西間の交流の拡大などを協議した「ジュネーブ四巨頭会談」が行われました。
ジュネーブ四巨頭会談そのものは具体的な成果に乏しかったものの、米ソによるこうした流れは両国間の緊張緩和への期待を高めることになりました。なお、これらの動きは今日では「雪どけ」と呼ばれています。
米ソの「雪どけ」を受けて、東アジアでも緊張緩和の動きが進みました。1954(昭和29)年には中華人民共和国の周恩来(しゅうおんらい)首相がインドのネール首相と会談を行い、主権尊重・相互不可侵・内政不干渉・平等互恵・平和共存の「平和五原則」を確認しました。
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昭和27(1952)年には石川県で「内灘(うちなだ)事件」が、昭和30(1955)年には東京都立川市で「砂川事件」が発生していますが、事件の背景には地元民の反発のみならず、日本共産党や総評あるいは全日本学生自治会総連合(=全学連)の支援があったとされています。
また、1954(昭和29)年にアメリカがビキニ環礁(かんしょう)で水爆実験を行った際に、我が国の漁船である第五福竜丸が放射性物質(=死の灰)を浴びて死亡者が出た事件(これを「第五福竜丸事件」といいます)をきっかけに「原水爆禁止運動」が広がり、翌昭和30(1955)年には第一回原水爆禁止世界大会が広島で行われました。
なお、第五福竜丸事件で乗組員が死亡したのは、放射能による被曝(ひばく)ではなく、売血輸血による肝炎ウイルス感染であったという説もあります。
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後に「血のメーデー事件」と呼ばれたこの出来事をきっかけとして、暴力主義的破壊活動を行った団体を公安調査庁に取り締まらせるため、第三次吉田茂内閣が「破壊活動防止法」を制定しました。
この他、教育の分野では昭和29(1954)年にいわゆる「教育二法」が公布され、公立学校の教員による政治活動や偏向した政治教育が禁止されました。
その後、昭和31(1956)年には「新教育委員会法」が公布され、それまでは公選だった教育委員が各地方自治体の首長による任命制となりましたが、法案の制定に日教組(=日本教職員組合)が強く反発し、国会での採決時に警察官が出動するという騒ぎとなりました。
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海上の警備機関たる「海上警備隊」が独立回復と時を同じくして誕生すると、同年8月には「保安庁」が設置され、それまでの警察予備隊が「保安隊」に改称されたほか、海上警備隊も「警備隊」と改められました。
その後、昭和29(1954)年3月に「日米相互防衛援助協定(=MSA協定)」が結ばれると、アメリカからの兵器や農産物などの援助と引き換えに防衛力の増強が求められたことから、政府は同年7月1日に「防衛庁」を新設したほか、保安隊や警備隊を統合し、新たに陸上・海上・航空の3隊からなる「自衛隊」を発足させました。
この他、同じ昭和29(1954)年には「新警察法」が制定され、それまでの自治体警察を廃止して都道府県警察を設置し、警察庁に統轄させることで組織の中央集権化が図られました。
なお、防衛庁は総理府(のち内閣府)の外局という立場でしたが、平成19(2007)年に「防衛省」へ移行され、内閣の統括の下に独立した行政機関である省の一つとなっています。また、平成26(2014)年7月1日に自衛隊は発足以来60年を迎えましたが、同じ日に第二次安倍晋三(あべしんぞう)内閣によって、我が国の安全保障政策を大きく転換させる「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定されました。
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その後、戦争終結によって働き手が増えたことや、生産技術の向上などによってコメの生産が史上空前の豊作を繰り返したことで、昭和30(1955)年頃までにはコメの自給が可能となり、食糧難はようやく克服されました。
また、特需景気によって我が国が経済面での国際社会の復帰を果たしたこともあって、国民の個人所得が増加して消費水準も向上し、物価も安定したほか、公営住宅の供給が進んだことで住宅事情も改善され始めました。
昭和31(1956)年度に発行された我が国の経済白書において、政府が「もはや戦後ではない」と宣言し、当時の国民にも同じような意識が広がったことで、昭和30(1955)年から同32(1957)年にかけて「神武(じんむ)天皇以来」とうたわれた「神武景気」を迎えたのです。
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IMFや世界銀行は「世界金融の公正かつ円滑な運営」を目的として設立されたほか、GATTは加盟国間の公平な貿易を実現するために、輸入制限や関税の障壁(しょうへき)を取り除くことで「自由で平等な国際貿易を促進する」ことが主な目的でした。
これらは、1930年代から40年代にかけてアメリカやイギリスなどで行われた「ブロック経済」などによって、資源を持たない我が国などが経済的に追いつめられ、第二次世界大戦や大東亜戦争を引き起こす原因の一つとなったことを反省して設立されたものでした。
IMFや世界銀行、あるいはGATTの加盟によって、我が国は経済的な面での国際社会復帰を実現させるとともに、自由主義経済の世界的な一員となったことで、貿易上の問題で戦争が起きることを未然に防ぐという抑止力を手に入れることとなったのです。
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道民 毎日読んで勉強しています。
ところで本日(9月24日)の記事アップなないのでしょうか
黒田裕樹です。Re: 今日の記事アップは
黒田裕樹 > 毎日読んで勉強しています。
> ところで本日(9月24日)の記事アップなないのでしょうか
いつも有難うございます。
当方の手違いで、本日分のUPができていませんでした。
たった今UPしましたのでご確認ください。
申し訳ございませんでした。
佐藤栄作内閣以降の歴代首相の功罪や(というよりも「罪」の方が多いのですが)、ソ連崩壊までの歴史の流れやその後の我が国における左翼勢力の拡大などについて、参加者の皆様の血圧を上げながら(?)、あっという間の2時間半でした。
次回(9月22日)は大阪講演を行います。多数の皆様にお越しいただけることを心より願っております。
第68回黒田裕樹の歴史講座 【大阪講演】
「戦後史検討 その3 ~昭和から平成へ」
主催:一般社団法人正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:平成30年9月22日(土) 午後2時より
場所:大阪市立総合生涯学習センター 第1研修室
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
資料代:金1,500円(高校生以下は無料)
※大阪講演と東京講演の両方に参加された場合、大阪講演の資料代は無料とします。
参加をご希望の方は、ブログ右下の「メールフォーム」を活用のうえ事前にご連絡くだされば幸いです。当日の飛び入り参加も歓迎いたします。
また、講座終了後に近辺の居酒屋で懇親会(会費金3,500円~4,000円程度)を行いますので、よろしければこちらにもご参加くださるようお願いします。
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しかし、もし当時の我が国の工業力などが不足していれば、アメリカ軍を中心とした巨額な発注を到底受けいれることはできなかったでしょう。逆に言えば、戦争という悲劇を経験してもなお高い水準を保っていた我が国の生産力が、特需景気を支えるとともに我が国の経済を復興させたとも言えるのです。
この他、当時の吉田茂首相がアメリカのダレスからの再軍備の要請を断ったことも、戦争によって生産を支える人手を失ったり、あるいは経済に多大な負担を強いる軍備によって復興が遅れたりすることを防いだとも考えられますし、また朝鮮戦争そのものは昭和28(1953)年に休戦となりましたが、アメリカの沖縄基地建設に関する需要などによって、特需景気はその後も長期間にわたって続いています。
いずれにせよ、敗戦後の混乱の中で国際競争力に乏(とぼ)しかった我が国の産業に対して、特需景気が巨大な外需をもたらし、日本経済の発展を促(うなが)す基盤(きばん)となったことは間違いないでしょう。
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