このため、幕府はカトリックを禁教にするとともに信仰する諸国とのを国交断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士である清や李氏朝鮮など、限られた国との間でしか貿易を行いませんでした。
つまり、江戸幕府はカトリックを我が国に広めさせないとともに、貿易の利益を幕府で独占するために、極端な「制限貿易」を行ったのです。
制限貿易にはこうした事情があったうえに、カトリックの信仰国との国交断絶という強硬な手段が可能だったのは、戦国時代からまだ時間が経っておらず、全国で数十万の武士や、それと数を同じくする大量の鉄砲が存在していたという、強大な武力があったからこそでした。
しかし、我が国で平和が長年続くうちに、制限貿易の意味が履(は)き違えられて、諸外国との交渉を一切行わないという「鎖国」が「国是(こくぜ)」であるという考えが、いつの間にか我が国の常識と化してしまいました。
※下記の映像は11月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに260年もの間、鎖国されていれば
同じ家に生まれたとしても、10代先まで
人が変わる訳ですので、本来の意味合いが
違う意味で伝達されてしまうのは仕方のないこと
かも知れませんよね(^_^;)
それと私の理解不足かも知れませんが、
鎖国や平和が保たれる背景には、それ以前に蓄えられた軍事力の備蓄があってこそ・・と言う事なのでしょうか。
そう考えると、現代の様に丸腰状態で平和を保とうとする事はある意味、無茶な構想であることを示唆しているのでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、いわゆる「伝言ゲーム」状態が続いたことで、本来の目的とは全く異なることもあるかもしれませんが、国家の安全保障がこれでは…という気がします。
> 鎖国や平和が保たれる背景には、それ以前に蓄えられた軍事力の備蓄があってこそ・・と言う事なのでしょうか。
> そう考えると、現代の様に丸腰状態で平和を保とうとする事はある意味、無茶な構想であることを示唆しているのでしょうかね?
まさしくそのとおりです。我が国の現代の平和は自衛隊とアメリカ軍の存在のお陰であり、決して憲法9条がもたらしたものではありません。
例えば、相手側と交渉をまとめようとするのであれば、まずは自分自身が相手に負けないくらいの立派な存在となることが重要であり、そのためにも不断の努力が欠かせないということが良く分かります。
一方で、その真逆(まぎゃく)として、開国に向けて何の準備もしておらず、諸外国の言われるままに不平等条約を結ばされた、江戸幕府の体(てい)たらくぶりも、私たちは「反面教師」としてしっかり学ぶべきではないでしょうか。
ここからは、なぜ江戸幕府が諸外国と不平等条約を結ばなければならなかったのかという歴史的事実を、幕府成立当時の世界情勢から紹介していきたいと思います。
実は、幕府は当初から「鎖国」をしていたわけではなかったのです。
※下記の映像は11月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
そう言われてみれば、私も鎖国への経緯を
十分に理解して居たわけでは無かったなと改めて
思いました。是非、続きを教えていただければと
思いますm(__)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 開国に至った経緯は、単なる幕末だけでなく、幕府成立以前の歴史から振り返らなければなりません。
次回以降の更新をぜひご覧ください。
約1年かけたイギリスとの交渉が実って、明治27(1894)年7月16日に両国は日英通商航海条約を結び、領事裁判権の撤廃や、最恵国待遇の相互平等および関税自主権の一部回復などに成功しました。
イギリスとの成功を受けて、陸奥は他の欧米列強とも同様の内容の条約を結び、それらはすべて明治32(1899)年に同時に施行(しこう)されました。そして、最後まで残った関税自主権の完全回復も、先の条約が期限を迎えた明治44(1911)年に、当時の外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)によって達成されました。
かくして、我が国は安政の五ヵ国条約を結ばされてから半世紀以上もの時間をかけて、ようやく欧米列強から、条約上において対等な国家として承認を受けることができたのです。
その背景には、憲法などの諸法典を整備するとともに、日清戦争や日露戦争に勝利して、我が国が世界に誇れる一等国として君臨(くんりん)するまでに成長したという、大きな歴史の流れがありました。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに日本の先人達のこれまでの必死な苦労が
今の日本という国をここまでに高めてくれたことは
感謝したいと思います。
この先の日本を担う私達は、今後、どうしたいのか・・
どのような方向性に向かうのかは、分かりませんが
先人たちのこうした苦労に報いる様な
生き方を選んで行きたいものです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
先人の方々のご努力を無駄にしないためにも、次代へとしっかりつなげるような生き方をしないといけませんね。
当事者のロシアも、判決当初は「いかなる事態になるか分からない」と不服であったものの、明治天皇をはじめとする我が国側からの迅速(じんそく)な謝罪があったことや、イギリスやアメリカなどが上記の理由で我が国を高く評価したこともあって、賠償請求などの報復を一切行いませんでした。
大津事件は我が国にとって滅亡の危機をもたらしかねない大事件でしたが、事後の処置を誤らなかったことで、結果として我が国の国際的な地位を高めるとともに、その後の条約改正にも有利に働くことになったのです。
ただし、青木周蔵はロシアの在日公使に対して津田の死刑を密約しており、事件の責任を取って外務大臣を辞職したため、条約改正の交渉はまたしても延期となり、青木の後を継いだ榎本武揚(えのもとたけあき)も、具体的な交渉ができないまま外務大臣を辞任しています。
なお、司法権の独立を守った児島惟謙ですが、大津事件より前の明治19(1886)年に大阪で開校した関西法律学校(現在の関西大学)の創設者の一人としても知られています。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
自分が良かれと思った事を何がなんでも
死守しようとする思いはやはり大切であり、
守りぬいた事が結果、成功への道へつながるものであるという事を今日のお話から教えていただいた
気がしました^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 本当にそうですよね。
明治期の人々の気概が伝わるようなエピソードだと思います。
しかし、大逆罪はそもそも日本の皇族を想定してつくられており、同じ皇族といえども外国人にまで適用させるのは無理がありました。また、戒厳令のような非常の手段で死刑にしたとしても、「法に規定が存在しないのに無理やり死刑にした」ことに変わりはなく、近代的な法治国家をめざす我が国がとるべき手段ではありませんでした。
加えて、いくら国際問題に発展しかねないからといえ、政府が裁判所に刑罰を強要するという行為は、司法権の独立を揺るがす大問題であり、近代国家として許されるものでないことは明らかでした。
結局、当時の大審院長(現在の最高裁判所長官)であった児島惟謙(こじまいけん、または「こじまこれかた」)は政府の要求をはねつけ、犯人の津田に刑法の規定どおり無期徒刑の判決を下しました。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
国内だけの問題ならば、死刑を唱える程の大罪では
無かったのでしょうけれど、相手が外国からの国賓級の人物となれば、話は違って来てしまうのは当然の事かも知れませんが、当時は我先に外国との交流分野のみが
先走ってしまい、法の改定が後手に回ってしまっていたのですね。
いづれにせよ、同じ国の民族同士であっても何か1つ問題が起これば
収めるのが難しいのに、外国との関わりとなると更に
難易度が高まり、厄介なのは今も昔も変わりは無いようですね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大変厄介ですよね。
だからこそ、近代法治国家として、法に基づいた判断が求められるのです。
さて、来る10月26日(日)に大阪府吹田市にて、下記のとおり私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。よろしければぜひご参加ください。
第18回楽しく学べる日本の歴史
(大阪府吹田市)
「藤原道長と摂関政治」
日時:10月26日(日) 14:00~16:00
場所:千里市民センター 8階多目的ルーム
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます。なお、会場は阪急南千里駅改札口を出てすぐの、左側の白い建物です)
資料代:金500円
ちなみに、今後(平成26年11月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様もぜひご参加ください(詳細は後日お知らせします)。
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そんな折の5月11日、琵琶湖を観光したニコライを乗せた人力車に対して、滋賀の大津で警備を担当していた巡査の津田三蔵(つださんぞう)が、突然ニコライに襲いかかりました。これを大津事件といいます。
ニコライは負傷したものの、生命に別条はありませんでしたが、大国ロシアの皇太子がよりによって警備中の巡査に襲われるという想定外の出来事に、国内は大パニックになりました。何しろ相手は大国ロシアであり、これを口実に攻めてこられれば、我が国は滅亡するしか道はありません。
事の重大さに対し、明治天皇は直ちに列車で京都へ向かわれ、療養中のニコライをお見舞いされました。また、国民の中には「ロシアの皇太子様に申し訳ない」と京都府庁前で自害する女性まで現われました。
政府首脳も当然のように大混乱となり、ロシアの機嫌を損ねないためにも、犯人の津田を直ちに死刑に処すべきであるという意見でほぼ一致しましたが、それはできない相談でした。なぜなら、津田の犯した罪は「謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)」であり、当時の最高刑は無期徒刑(むきとけい、現在の無期懲役=むきちょうえき)だったからです。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
そうですか。
こうして伺っていると
人間とは色々な考え方がありますね・・
片方では、暗殺を目論んでみたり
また片方では、他人の事であるにも関わらず
まるで自分の身内にでも起こった出来事の様に
解釈する心優しい人も居るんですものね。
それにしても、それ以前には
死刑に匹敵する程の犯罪は日本には
存在しなかったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
当時の我が国は存亡の危機を迎えた大パニックでしたが、そんな中でこそさまざまな人間模様があったと思われます。
死刑の制度は明治にも存在していました。ただ、この場合の最高刑が無期懲役だったことが大きな問題となったのです。
ロシアがシベリア鉄道を計画し、明治24(1891)年までに建設を始めると、ロシアの東アジアへの本格的な進出に対して、利害関係にあるイギリスが危機感を持ち始めました。
東アジアにおける権益を守るためには、日本が持つ軍事力を利用したほうが、自国に都合が良いと判断したイギリスは、それまで条約改正交渉において対立関係にあった我が国に対して好意的になり、またこの頃までに大日本帝国憲法(=明治憲法)その他の諸法典が我が国で相次(あいつ)いで成立したこともあって、条約改正に応じる態度を見せるようになりました。
イギリスの軟化を受けて、外務大臣の青木周蔵(あおきしゅうぞう)が条約改正の交渉を進め、領事裁判権の撤廃を含めた我が国の改正案に、イギリスが同意するまでこぎつけました。
ところが、そのような大事な時期に、我が国の今後を揺るがしかねない大事件が起きてしまったのです。
※下記の映像は10月29日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
イギリスと言う国もなかなかの曲者ですねぇ・・・
利用するだけ利用してやろうと目論む策略があるがゆえに日本の条件を受け入れるとは・・
日本からすれば、余り喜ばしい事では有りませんが、そうでもしなければ、条約が通らなかったというのなら、情けないながらも仕方が無いですね。
なんとなく、腑に落ちませんが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに情けない話ではありますが、相手の弱点を突いて我が国に有利に導くのも外交の常套手段ですからね。
ところが、今回は思わぬかたちから大きな事件が起きることになってしまうのです。
しかし、条約改正案の内容がイギリスの新聞であるロンドン・タイムズにすっぱ抜かれると、井上と同じように政府の内外で強い反対論が起きました。
なぜなら、大隈の改正案には「大審院(だいしんいん、現在の最高裁判所)に限って外国人判事を任用する」と書かれていたからです。いくら大審院に限定であっても、下級裁判所で外国人が判決を不服として上訴すれば、最後には大審院で裁かれることになり、井上案と同じ結果になるのは目に見えていました。
大隈の改正案を受けいれるかどうか政府内で様々な議論が続けられましたが、そんな折の明治22年10月18日、大隈が閣議からの帰途(きと)で馬車に乗っていた際に、政治団体の玄洋社(げんようしゃ)の来島恒喜(くるしまつねき)が大隈めがけて爆弾を投げつけました。
爆弾によって大隈が右足を切断するという重傷を負うと、これを機に条約改正の交渉は再び中断し、大隈も外務大臣を辞職しました。なお、大隈を傷つけた来島は、爆弾の炸裂(さくれつ)と同時に自決しています。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
何処の国でもそうなのでしょうけれど、外国人にその国の政権を担って貰うと言うことは、
外国に魂を売った事と何ら変わりはない気がします。
大げさに言えば、侵略されたと思っても良いくらいだと思えてなりません。
ですので、
何が何でもそれだけは死守して行きたいと思う考えとのせめぎ合いが
起こっても仕方が無かったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国が成長していく過程において、時には生命を賭けたせめぎあいが起きることもあるかもしれません。
船長は神戸の領事裁判所で裁判を受けましたが、同じイギリス人の判事は無罪の判決を言い渡しました。多くの日本国民はこの判決に激怒し、政府も船長を殺人罪で告訴して横浜領事裁判所で再び裁判が行われましたが、船長に下された判決はわずかに禁錮(きんこ、監獄に閉じ込める刑罰のこと)3ヵ月であり、被害者への賠償は一切行われませんでした。
我が国で罪を犯した外国人に対して、同じ外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判が行われることが不可能であることを嫌(いや)というほど思い知らされた国民の間から、領事裁判権の撤廃を求める声が日増しに高くなっていきましたが、そんな折に外国人判事を認める井上の改正案が発覚したものですから、国民の怒りが頂点に達してしまったのです。
結局、井上の改正案は見送られ、条約改正の交渉を中止するとともに、井上は混乱の責任を取って外務大臣を辞任しました。
なお、井上による一連の条約改正交渉に失望した民権派によって三大事件建白運動が始まり、自由民権運動が再び活発化しました。また、同じ紀州沖でこれより4年後の明治23(1890)年に再び起きた不幸な遭難(そうなん)事故(=エルトゥールル号事件)が、我が国とトルコとの厚い友情のきっかけとなりました。
※下記の映像は10月24日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
この時代、日本という国は
これ程までに見くびられていた訳ですね。
白人至上主義の最たるもの・・ですね・・
その後のトルコとのお話は、黒田さんの所で
以前勉強させていただいた記憶がありますが、
その記憶が少し曖昧になってしまったので、
再確認させていただきます♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、白人は有色人種など人間扱いしていなかったのです。そんな排他主義が招いた悲劇でもありました。
我が国とトルコの関係については、第13回歴史講座で紹介しました。
下記のURLをご参考ください。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-category-25.html