欧米列強(おうべいれっきょう)の諸国(しょこく)に対抗(たいこう)するためには鉄製の様々な武器などを必要としましたが、当時の我が国の製鉄技術は、西欧のそれと比べて遅(おく)れていました。このため、西欧風の製鉄を行うために反射炉(はんしゃろ)の建設が急がれたのですが、斉彬はいち早く本拠地(ほんきょち)の鹿児島に反射炉を築造(ちくぞう)しました。
斉彬は他にも造船所やガラス製造所を次々と建設し、また砲術(ほうじゅつ)などの洋式の軍事訓練を行って軍事力の強化にも努(つと)めました。ちなみに我が国の国旗(こっき)である「日の丸」は、幕末に諸外国との条約を結んだことで、外国船と区別するための標識(ひょうしき)として考案されたものでもありますが、その際(さい)に日の丸を提案した者のひとりとして斉彬の名が伝えられています。
斉彬は身分に関係なく有能な人材を登用(とうよう)しましたが、その中のひとりに西郷がいました。西郷の優秀さを愛した斉彬は、彼を江戸屋敷(えどやしき)の庭方役(にわかたやく)に任命し、秘書役(ひしょやく)として諸藩(しょはん)への使いとし、水戸藩(みとはん)の藤田東湖(ふじたとうこ)や福井藩(ふくいはん)の橋本左内(はしもとさない)などに面会することで、尊王攘夷(そんのうじょうい)など彼らの思想に大いに共鳴(きょうめい)するようになりました。
しかし、そんな西郷に悲劇(ひげき)が訪れました。安政(あんせい)5年(=1858年)7月に藩主の斉彬が急死してしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
幕末に現在の日の丸が考案されたというのは、
恥ずかしながら、初めて知りました!
現代でも時々外国などでは、国旗のデザインや色を変更する動きのあるところもあるようですが、
日本はいつまでも、白地に赤い日の丸であり続けて貰いたいですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 他国との区別が国旗の目的のひとつと考えれば自然ではありますが、こういった歴史も教えて当然のはずですよね。
仰るとおり、シンプルかつ素晴らしいデザインである日章旗をいつまでも大切にしなければなりません。
島津斉彬の影響力
- 黒田先生
青田です。
島津斉彬の思想が明治の国家観に影響を与えたのは、間違いないですね。
まず、島津斉彬が富国強兵に力を注いだのは
倒幕の目的ではなく、ロシアの南下政策にたいする危機感であったこと。
さらに、
島津斉彬は、江戸育ちで、非常に合理主義者であると同時に、熱心な日蓮宗に帰依していたので、慈愛の心も持っていたこと。
これは、西郷隆盛の思想に影響を与えたと思います。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、斉彬公が我が国に与えた影響は極めて大きいと思います。
それだけに急死が悔やまれますが、西郷の今後の成長を考えると何とも言えないところではありますね。