なぜなら、本気で政府を倒そうと思えば、政府軍の援軍(えんぐん)が到着(とうちゃく)する前に海路(かいろ)を利用して本州(ほんしゅう)へ攻め上(のぼ)った方が遥(はる)かに得策(とくさく)だからです。しかし、西郷軍はあくまで目の前の熊本城の攻略(こうりゃく)にこだわり続けました。
戦いは「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂(たばるざか)」と後に歌われた田原坂を中心に激しいものとなりましたが、西郷軍が時間を費(つい)やす間に政府軍に取り囲まれるという失態(しったい)を犯(おか)し、いつしか形勢(けいせい)が逆転して追いつめられるようになりました。
なぜ西郷軍は熊本城攻略にこだわったのでしょうか。私たちはそこに「闘戦経」から浮(う)かび上がる西郷の「死生観(しせいかん)」とその覚悟をうかがい知ることができるのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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- 黒田先生
青田です。
政府軍も、かなり、つらかったと思います。
山縣有朋は、直属の部下でした。
大山巌は、西郷の従兄弟、
川路利良は、西郷の推薦で、警視総監になりました。
この後、大山巌、黒田清隆は、二度と薩摩に帰らない決意をし、生涯薩摩にも帰らなかったそうです。
まさに、骨肉の争いになってしまいました。
これは、推測ですが、本州に攻めず、熊本城の攻略に固執したのは、政府にいる薩摩の同士との躊躇をあった気がします。
田原坂の戦いでも、政府の会津抜刀隊と薩摩兵がまともに戦っただけですから。。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりの側面は確かにあったと思われます。
ただ、西郷さんは身内同士としての戦いよりもさらに大きなところで行動されていたのではないかとも考えられます。
ぴーち こんばんは!
本当に何故に熊本城に拘ったのでしょうか?
明日の記事にそのお応えが用意されているのでしょうか?楽しみです。^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 本当に何故に熊本城に拘ったのでしょうか?
> 明日の記事にそのお応えが用意されているのでしょうか?楽しみです。^^
次回と次々回でその理由を明らかにする予定です。
ご期待いただければと思います。
西郷の怒りは、自身がもはや私学校の生徒たちの勢いを止められないという悲しみでもありました。事実、政府が放(はな)った密偵の一人が逮捕(たいほ)されて「西郷の刺殺(しさつ)計画」を自供(じきょう)したこともあって、決起(けっき)以外に手段がないところまで追いつめられてしまったのです。
西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに明治10年2月に政府に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)しました。世にいう「西南戦争」のはじまりです。ただし、西南戦争自体はもちろん単純な「不平士族の反乱」だったのではなく、急進的な近代化にこだわるあまり、日本の伝統を粗末(そまつ)に扱(あつか)おうとした当時の明治政府への日本精神からの異議申し立てという面も含まれていました(これに関しては後で詳しく紹介します)。
ちなみに有名なハリウッド映画「ラストサムライ」は、このような面までアメリカが日本を研究し尽くしていることによって制作することができたともいえます。
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-
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ハリウッドが日本の映画を作る場合は、わが国よりもよっぽど時代考証などがしっかりしていることが多いです。
世の中の雰囲気に流されないという映画人の矜持がそうさせているのかもしれませんが、ラストサムライなどは二重の意味でおすすめと言えるかもしれませんね。
避けられない宿命
- 黒田先生
青田です。
明治2年に亡くなった大村益次郎は、
必ず、薩摩で反乱が起こると、
武器を大阪に移していました。
それは、その当時の薩摩武士(薩摩隼人)の気風を
大村益次郎は、わかっていたからだと思います。
ただ、この時の大村益次郎も、西郷隆盛がその反乱の旗頭になるとは、予想できなかったと思います。
そう考えると、薩摩で反乱が起きるのは仕方ないとしても西郷隆盛は、日本のためにも旗頭になって欲しくなかったです。
それは、西郷隆盛だけが優秀というだけでなく、
村田新八のように、これからの日本に必要な人材が西郷隆盛の周りに多くいたからです。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに宿命だったのかもしれませんね。
あたら有益な人災を多く失ったことは残念の一言ではありますが、どうしようもなかったとも言えそうです。
鹿児島のタク ハリウッド映画「ラストサムライ」の主人公(渡辺謙さん)は、明らかに西郷隆盛だと感じました。
それに対して、徴兵令による近代軍隊を作ろうとしていたのは、大村益次郎ですね。
それにしても「ラストサムライ」は、私の中でもとても印象に残っている映画です。
西郷ドンがどのような考えで、西南戦争を起こしたか(担がれたか)難しいところですが、鹿児島には勝海舟による次のような和歌の碑文が私の知るところ2か所にあります。
「濡れぎぬを 干そうともせず 子どもらが なすがままに 果てし君かな」…この場合の「子どもら」がには、桐野利秋らが含まれていると考えてよいのかはよく分かりませんが、薩摩士族(若者)…私学校の生徒たちを表していると思います。
それにしても、勝海舟という人物は、西郷ドンのよき理解者だったと言えると思います。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 「ラストサムライ」は素晴らしい映画だと思います。なぜあれだけの作品を我が国が作れないのでしょうか。
勝海舟は西郷さんとお互いが国家のために命がけで腹を割って話した人物同士ですから、理解できるところも大きかったと思われます。
彼らを指導あるいは統制(とうせい)しなければ道を誤るかもしれないとの考えから、明治7(1874)年に鹿児島に私学校(しがっこう)がつくられましたが、人材育成がその主目的だったはずが、いつしか西郷を中心とする私兵養成所の様相(ようそう)を呈(てい)するようになりました。
私学校の影響はいつしか県下の行政組織や警察網(けいさつもう)にまで及び、鹿児島県が政府に租税(そぜい)も納(おさ)めなくなったことから、やがては鹿児島全体が独立国のように感じられ始めました。
時あたかも明治9(1876)年に廃刀令(はいとうれい)や秩禄処分(ちつろくしょぶん)が出され、武士としての誇(ほこ)りや経済的な拠(よ)り所(どころ)が政府によって失われたことをきっかけとして、九州を中心に士族の反乱が相次(あいつ)いで起きていました。
西郷の動きを警戒(けいかい)した政府は、大警視(だいけいし、現在の警視総監=けいしそうかん)の川路利良(かわじとしよし)に命じて密偵団(みっていだん)を組織して鹿児島に派遣し、彼らの動静(どうせい)を探(さぐ)ろうとしましたが、そんな折の明治10(1877)年1月下旬(げじゅん)に、陸軍が鹿児島に貯蔵していた武器弾薬(ぶきだんやく)を運ぼうとしていたところに血気盛(けっきさか)んな私学校の生徒たちが襲撃(しゅうげき)して奪い去るという事件が発生してしまったのです。
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ぴーち こんばんは!
何と表現するべきか存じませんが、
西郷さんの意思とは別に、周りの人間が
西郷さんの名を借りて、自分たちの
野望を果たそうする勢いが旺盛であったように
思います
西郷さんのカリスマ性を利用して
世の中を変えてやろうという
思いが大きく膨張し、既にその勢いは
誰にも止められないという状況が思い浮かべられました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、西郷さんのカリスマ性があまりにも高いゆえに、私学生の生徒が「西郷先生ならこう考えるに違いない」と勝手に解釈して暴走したとも言えますね。何という皮肉でしょうか…。
大久保利通と川路利良
鹿児島のタク 黒田先生へ
以前は、島津久光⇒大久保利通⇒川路利良は、鹿児島ではあまり好かれていませんでした。
今でも、年配の方は「西郷さん」と呼びますが、大久保さんに対しては「大久保」…と呼び捨てにする方も多いです。
しかし、時代は流れ、いろいろな歴史研究もあり、今では、大久保利通も西郷ドンに並ぶ郷土の偉人と認識している人が多くなってきました。
川路利良については、西南戦争勃発の直接的な原因を作った人ですが、現在では県庁前広場に、川路大警視の銅像が建てられています。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 時代も変化しつつあるんですね。
お互いが国を思っての結果ですので、再評価を受けることは良いことだと思います。
明治天皇はご身辺の大変化に見事に順応(じゅんのう)され、毎日のように乗馬を楽しまれるなどたくましく成長されたそうです。また、西郷は明治天皇が陸軍の演習や地方へのご巡幸(じゅんこう、天皇が各地をまわられること)にお出かけになられた際には天皇のそばにずっと付き従いました。
陸軍の演習が行われた後、夜になると天皇は他の兵士たちと同じようにテントで野営(やえい)されましたが、生憎(あいにく)の荒天(こうてん)でテントから雨水が漏(も)れるということがありました。
しかし、「戦場の兵士たちが現地でどのような境遇(きょうぐう)にあるのかを身を以(も)って知っていただくことも必要である」と考えた西郷はそのまま明治天皇にご休息(きゅうそく)いただき、自らは万が一のために寝ずの番をしていたそうです。
これらのように明治天皇への忠誠心が篤かった西郷でしたから、彼が下野して政府を去らねばならなかったときの陛下(へいか)のお気持ちは拝察(はいさつ)するに余(あま)りあります。
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ぴーち こんにちは!
私個人的な見解で恐縮ですが、
私も女手一つで子供達を幼い頃から
育てて参りましたが、子供達は
確かに女親の元で育てられたほうが、
愛情豊かに育つとは言えども、
やはり特に男の子は、力強い男親の
背中を見て育てた方が、逞しさや
広い視野にたったものの見方が
養われるものだと思います。
私自身、子供の考え方や行動を見ていて最近
つくづく感じることがあります。
父親の背中というのは、子供の成長には
必要不可欠なものなのだと改めて
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 父親の背中というのは、子供の成長には
> 必要不可欠なものなのだと改めて
> 思いました。
ご体験からの貴重なご意見ありがとうございます。
ぴーちさんのご見解からすれば、西郷の存在が明治天皇にとってどれだけ大きいものであられたかがよく分かりますね。
こうしたいわゆる「征韓論争」は、西郷らが一方的に引き下がることで一応の決着を見ましたが、西郷ほどの実力者であれば、政府内部でクーデターを起こして政権を乗っ取り、実力で自己の政策を押し切ることも十分可能でした。
しかし、西郷は権力を私物化するのみならず、国益をないがしろにするような行為をなす考えは毛頭(もうとう)ありませんでした。このあたりにも武士道精神を重んじる「闘戦経」の考えを垣間見ることができます。
なお、西郷が下野して政府を去ったのを何よりも惜しまれたのが明治天皇でいらっしゃいました。西郷は政府に出仕してすぐに宮中(きゅうちゅう)の大改革に乗り出し、天皇ご自身に君主として相応(ふさわ)しい力量をお持ちになってほしいという願いを込めるとともに、まだお若かった明治天皇を全力で支え続けました。
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ぴーち こんにちは!
こうして伺っていると、明治天皇は
西郷さんはじめ、乃木将軍など
優れた人物との交流が深かったのですね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。明治天皇は素晴らしい人物と接することで成長され、歴史に残る君主になられたことが理解できます。
西郷ドンと明治大帝!
鹿児島のタク 黒田先生へ
明治大帝は、それまで女官に育てられ、教育を受けていた天皇とは違い、西郷ドンの計らいで山岡鉄舟、その他の豪傑に、育てられていますからねえ。
時代は、欧米列強の植民地支配の時代…それが必要だったのでしょう。
西郷ドンは、後で西南戦争を結果的に引き起こし「国賊」の汚名を着せられるのですが、西郷ドンの「国賊」の汚名を晴らし、その罪が許されたのは、明治大帝がそのことに積極的だったからとの著作物を読んだことがあります。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明治天皇にとって西郷さんの存在は大きかったと拝察できます。
それだけに賊軍として西郷さんが死んでいったことを、陛下は悔やまれたのではないでしょうか。
さて、来る2月22日(土)に大阪市中央区にて、私こと黒田裕樹の講演を行います。また翌2月23日(日)には大阪市浪速区で対談イベントに参加しますので、ブログをご覧の皆様にもご案内いたします。よろしければぜひご参加ください。
関西防衛を支える会
第47回歴史勉強会「中島サロン」
(大阪市中央区)
「名将・乃木希典将軍の真実」
日時:2月22日(土) 16:00~
場所:錦城閣(大阪キャッスルホテル7F)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
会費:金5,000円(含む飲食代)
(※40歳未満は金3,000円、学生は金2,000円。いずれも飲食代を含む)
討論Bar“シチズン”対談イベント
(大阪市浪速区)
黒田裕樹×西岡正士(討論Bar“シチズン”マスター )
「憲法から占う日本の未来」
愛国の論戦バトル~左右討論
日時:2月23日(日) 15:00~17:00
(※講演終了後、会場参加者を交えた意見交換会を経て18:00より懇親会を行います)
場所:討論Bar“シチズン”
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
参加費:対談イベント金1,000円(+ワンドリンクオーダー)、懇親会金2,000円(フリードリンク)
(※食べ物は持ち込み歓迎。店内にも軽食あります)
※詳しくはこちらのリンク先をご参照ください。
ちなみに、今後(平成26年3月~)も引き続き私こと黒田裕樹の講演を行いますので、ブログをご覧の皆様もよろしければぜひご参加ください(詳細はいずれご紹介します)。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
昨日から今日と2日間連続の講座、お疲れ様でございますm(__)m
昨日もさぞ多くの方のご参加で熱気ある講座と
なられたことでしょうね^^
今日の講座も是非、ご成功されることをお祈り致しております。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
お蔭様で昨日(22日)の講演は大盛況でした。今日(23日)は対談形式での講演となりますが、皆様のご期待に添えるよう努めたいと思います。
もっとも、西郷のような政府の重鎮が国交のない国に出かけて万が一のことがあれば、朝鮮とはそのまま戦争状態となってしまうのは明らかでした。留守政府は西郷の朝鮮への派遣(はけん)を一度は閣議(かくぎ)で内定したのですが、一報(いっぽう)を聞いてあわてて帰国した使節団の岩倉具視や大久保利通・木戸孝允らが猛反対(もうはんたい)しました。
西洋の発展(はってん)を直接目にしたいわゆる「外遊組(がいゆうぐみ)」にとっては、富国強兵や殖産興業(しょくさんこうぎょう)を一刻(いっこく)も早く行い、列強からの侵略を受けないようにすることこそが最重要課題であり、朝鮮半島に深く関わりを持つ時間的あるいは経済的余裕はないという立場でした。
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでしたし、彼らには朝鮮との外交問題を通じて、それまで活躍の場をなくしていた士族を救済(きゅうさい)したいという思惑(おもわく)もあったのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田です。 黒田先生
青田です。
昔、高校の歴史の授業で、歴史の教師は、『韓国』では、
『西郷隆盛』、『島津斉彬』が嫌われている
と話していました。
もちろん、西郷隆盛を『征韓論者』として
捉えていたからです。
では、なぜ、西郷隆盛が『征韓論者』になったかと私なりに考えてみると
やはり、朝鮮半島の人の島津家(薩摩)への恐怖感があったような気がします。
秀吉の朝鮮派兵の時、朝鮮の英雄の李舜臣将軍を殺したのは、島津義弘でした。
(もっとも、休戦協定を破って、攻撃してきたのは、朝鮮側だったのですが)
この島津軍を朝鮮では、鬼シマーズと呼び、
『死を恐れない軍団』『日本の南に住んでいる一族で、裁判所はあるが刑務所はない。(切腹、蟄居を自らする)』と李氏朝鮮の記録に残っていました。
つまり、韓国からすると、島津(薩摩藩)は、朝鮮の英雄を倒した憎くて、恐ろしい集団というイメージを持っていたからです。
そのイメージ(先入観)で、西郷隆盛、島津斉彬を観ると
『異韓論』が『征韓論』に摩り替った気がします。
ただ、日本の歴史教育で、韓国側にそこまで配慮した内容をするのも、??と思いますが。。
今、考えると、かなり、歪んだ歴史授業ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、歴史観も見方によってはずいぶん変わってくるという見本のようですね。
いずれにせよ、歪んだ内容は願い下げではありますが。
当時の我が国は、江戸幕府が押し付けられた不平等条約の改正とともに、欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということも重要な外交問題でしたが、そんな我が国の安全保障(あんぜんほしょう)のカギを握っていたのが朝鮮半島(ちょうせんはんとう)でした。
そこで、明治政府は当時の李氏朝鮮(りしちょうせん)に近代化を進めるように働きかけました。朝鮮半島が開国して近代化し、確固(かっこ)たる独立国が誕生すれば、朝鮮の人々のためになると同時に我が国の安全度も増すと判断したからです。
政府は早速(さっそく)、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、国王は文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇」や「勅(ちょく)」の文字が含(ふく)まれていたからです。当時の朝鮮は中国の清(しん)の属国(ぞっこく)であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清と同様に支配下に置こうとしている」と判断したのでした。
もちろん、我が国にそんな意図(いと)はありません。我が国が天皇中心の新たな中央集権国家に生まれ変わったという意味で、形式的に「皇」や「勅」の字を使用したに過ぎなかったのです。我が国は朝鮮に対して理解を求め、新たに「皇」や「勅」の字を使用しない外交文書を送るなど懸命(けんめい)の努力を重ねましたが、態度(たいど)を硬化(こうか)させた朝鮮は首を縦(たて)に振(ふ)りませんでした。
このように朝鮮が排他的(はいたてき)な外交態度を示していた当時、我が国では先述(せんじゅつ)のとおり政府首脳(しゅのう)が海外へ視察中(しさつちゅう)でしたが、やがて留守政府の中から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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- 黒田先生
青田です。
私が学んだ高校の歴史では、日本政府は、強硬すぎると教わりました。
但し、これには、大きな見落としがあると思います。
島津斉彬がロシアの南下政策にたいして、アジア(まずは、韓国)
と提携して、ロシアの南下政策に備えようと考えていました。
西郷自身もそれを熟知していました。
現代と違い日本も韓国も国力が小さく、ロシアがとてつもなく巨大でした。
その前提で、考えないと当時の留守政府の強硬論は、理解で無いと思います。
ぴーち こんばんは!
外国との交渉がいかに難しいかが判りました。
日本人には通用する言葉使いでも、外国には
微妙なニュアンスが伝わらなかったり、誤解を招いてしまう場合も。
外国との交渉は慎重に慎重を極めないと、
誤解を与えたまま、最悪、国同士の争いにも発展にもなり兼ねませんね。
信頼関係をじっくり深める事が出来れば良いのでしょうけれど。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国内の歴史だけで完結しようといて、世界の歴史の大きな流れを見ていないからそのような誤解が生じるのです。もっとも、わざとやっているのかもしれませんが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 外国との交渉はお互いの国柄が出ますから確かに難しいですね。
誤解を招かないようにすることも重要ですが、誤解と分かった際に態度を改める柔軟さも求められると思います。
東夷という考え方
- 黒田先生
青田です。
シナ(この当時は、清)では、日本のことを
東夷と呼んで、
東の僻地の野蛮人という考えがあり、
韓国もその考えを踏襲していたようですね。
そう韓国が、思うのは、勝手ですが
この当時の国際状況を宗主国の清の状況を観て
(アヘン戦争)
危機感を持たなかったのが不思議です。
逆に日本のほうが、アヘン戦争に負けた清を観て、危機感を持っていた日本人のほうが、
国際感覚が高かったようですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、過去にとらわれすぎて当時の国際感覚がマヒしていた感がありますね。
中華思想というのはある意味恐ろしいものなのかもしれません。
西郷は大久保や木戸孝允らと協力して、懸案(けんあん)だった廃藩置県(はいはんちけん)を断行(だんこう)しました。廃藩置県によって各藩主が持っていた領地への支配権が没収(ぼっしゅう)されるとともに、多くの士族(しぞく)が失業するという荒療治(あらりょうじ)でしたが、西郷は薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵(ごしんぺい、政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固めたうえで、これをわずか一日で実現してしまったのです。
通常ならば激(はげ)しい軍事的抵抗があってもおかしくなかったはずでしたが、廃藩置県は目立った混乱もなく平和的に実現し、政府による中央集権体制(ちゅうおうしゅうけんたいせい)が名実ともに整(ととの)うことになりましたが、こうした劇的(げきてき)な効果をもたらしたのは約1万人の御親兵という抑止力(よくしりょく)もあったでしょうが、指揮をとった西郷の人柄(ひとがら)に周囲(しゅうい)が納得(なっとく)したという心理的影響も大きかったのではないでしょうか。
廃藩置県の実施後(じっしご)、大久保や木戸、岩倉らは条約改正を目指(めざ)して欧米へ向かいましたが、我が国に残った西郷らは留守政府(るすせいふ)として、身分に関係なく満20歳に達した成年男子全員が3年間の兵役義務(へいえきぎむ)を負うという徴兵令(ちょうへいれい)のほか、学制(がくせい)の発布(はっぷ)や太陽暦の採用、国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)の公布(こうふ)、キリスト教の解禁(かいきん)、地租改正(ちそかいせい)など矢継(やつ)ぎ早(ばや)に次々と改革を実行しました。
後に福沢諭吉(ふくざわゆきち)が「西郷の施政(しせい)の間は言論も自由で一揆(いっき)や反政府運動も減っていた」と高く評価(ひょうか)した留守政府の政策(せいさく)ぶりでしたが、外交問題が発生したことで西郷は洋行(ようこう)した大久保らと激しく対立することになってしまうのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
わずか一日とは、素晴らしいですね!
やはり最終的に人を動かせるものは、
お金ではなく、人物そのものなのだという事なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人間は感情で動く以上は精神面での充実を望みます。その意味でも西郷さんという「心の支え」の存在は大きかったと思われます。
西郷内閣のあげた成果!
鹿児島のタク 岩倉具視を団長とする「遣欧使節団」が約2年間ほど海外へ行っている間は、事実上の「西郷内閣」と書いてある著作も多くありますね。
この2年間は、本当に多くの、後の近代国家へ生まれ変わる事業を成し遂げているのは、間違いないでしょうね。
西郷ドン自身は、具体的な明治国家の青写真をどのくらい持っていたのかは未知数ですが…。
それにしても、西郷ドンにとっては「廃藩置県」は、苦しいものがあったと思われます。主筋の島津家(藩)を「取り潰す…これは言い過ぎか」…ことになりますから…。でも、これをやらないと近代国家は生まれてこない。…西郷ドン、国父と言われた島津久光とは、もともとうまく関係がいっていませんが、辛い部分もあったのではと想像します。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 西郷さんは軍事だけでなく内政面でも素晴らしい成果を挙げていることは意外にも知られていません。
廃藩置県は武士の失業を意味していましたから相当辛かったと思います。とはいえ、本文にもあるように西郷さんだからこそ成し得たことだったでしょう。
そこで、今から約900年前の大江家(おおえけ)があらわした兵法書が日本人本来の精神的な崇高(すうこう)さや美徳を重視した闘戦経であり、武士道精神を守るとともに、孫子ばかりに頼って国を誤(あやま)ることのない様にと伝えられたものとされています。
なお、孫子と闘戦経とを表裏(ひょうり)で学んだ天才的な武人としては、あらゆる戦術(せんじゅつ)を完璧(かんぺき)にこなして類稀(たぐいまれ)なる立派(りっぱ)な戦例を残しながら、最期には君命(くんめい)に従って湊川(みなとがわ)で壮絶(そうぜつ)な戦死を遂げた楠木正成(くすのきまさしげ)の名が挙(あ)げられます。
鑑(かんが)みれば、西郷隆盛のこれまでの姿勢は時として幕府を挑発して戊辰戦争を起こさせるなど「孫子の兵法」が見られる一方で、山岡鉄舟の説得を受けいれたり、自ら降伏した庄内藩に寛大な処置を行ったりと「武士道精神」の神髄(しんずい)が見受けられるのも、西郷自身が闘戦経の体現者(たいげんしゃ)である証拠(しょうこ)だとはいえないでしょうか。
なお、闘戦経に基づく武士道精神は、その後の彼の人生に幾度(いくど)も垣間見(かいまみ)えるようになります。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、外国で説かれたどんなに優れた教えであっても、そっくりそのまま、私達が真似をしていこうとしても、成功できるとは限りませんし、逆に失敗に終わる恐れもあるという事ですね。
外国の憲法をそのまま日本に採用しようとしても、
全部が全部、日本に有利に働かないのと同じように。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
我が国では外国の文化を取り入れながらも、それらを日本風に上手にアレンジして独自のものをつくりあげてきたという輝かしい歴史があります。
そう考えれば、アメリカがつくった憲法を後生大事に守っていく必要性は薄いでしょうね。