一部の小説などでは「無能な乃木に代わった名将児玉の指導によって初めて二〇三高地は占領できた」と記されているようですが、史実は全く異なります。
児玉が旅順に来た本当の理由は、旅順を軽視し入念な準備を怠り、わずかな戦力しか乃木に与えなかった参謀本部の責任を深く痛感していたからであり、もし自分の旅順行きが成功しなければ生きて帰らぬ覚悟をもって、遺書(いしょ)まで書いて出てきたのです。また、児玉は第三軍の作戦や指揮について大きな指導をしておらず、二〇三高地の陥落と児玉の旅順来訪とは全く無関係であることも忘れてはいけません。
さて、その後の戦いは12月5日に第三軍が最後の攻撃を仕掛(しか)けると、困難の末に山頂の西南部と東北部一帯を占領し、翌6日にはついに二〇三高地の完全占領に成功しました。第三軍は直(ただ)ちに観測所を設けて旅順港内に向かって砲撃を行い、太平洋艦隊を全滅(ぜんめつ)させました。
かくして第三軍はバルチック艦隊と太平洋艦隊との合流を阻止(そし)して海軍の要請に応(こた)えるかたちとなりましたが、まだ旅順要塞の攻略を成し遂げたわけではなく、さらなる苦難が第三軍を待ち受けると同時に、乃木が最愛の息子を失うという悲劇(ひげき)が訪れていたのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
誰かの捏造だとしても、どうして
乃木将軍ばかり悪者扱いされなければいけなかったのでしょうね?
やはりそこには、人間関係において
乃木将軍を良く思っていなかった人物が
居たと言う事ですよね?
勿論、これだけの偉業を成し遂げた軍人ですので、その功績を妬むものも多く居たことでしょうが。。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 乃木将軍が悪者扱いされたのは旅順攻略戦に時間がかかったことが悪影響しているのかもしれませんが、有名になった小説においてここまで叩かれる理由が私にも解せません。
小説の作者の意図はどこにあったのでしょうか…。
白襷隊の任務は夜陰(やいん)に乗じて刀や銃剣(じゅうけん)をもって敵陣(てきじん)に攻め込む奇襲であり、まさに命がけでした。乃木は白襷隊に訓示をした際、一人ひとりに「死んでくれ、死んでくれ」と滂沱(ぼうだ)の涙を流しなから声をかけました。
白襷隊は26日の夜間に敵陣を奇襲し、攻撃は激烈(げきれつ)を極めましたが約2,000人の死傷者を出した末(すえ)に敗れてしまいました。しかし、いかにも無謀(むぼう)と思われたこの奇襲は、ロシア軍に大きな恐怖(きょうふ)と精神的な衝撃(しょうげき)を与え、軍の士気に少なからぬ影響を与えたのです。
必勝を期したにもかかわらず三度目の東北正面からの攻撃に失敗した乃木は、翌27日に攻撃を中止すると、攻撃目標を西正面の二〇三高地に切り替えました。なお、この時の乃木の決断が「遅すぎる」という意見がありますが、それは結果論しか見ていない早計(そうけい)であると言わざるを得ません。
そもそも東北正面への攻撃は乃木の独断ではなく、満州軍総司令部の総意でもありました。また失敗したとはいえ三度にわたる総攻撃は白襷隊の奮闘を含めてロシア軍に尋常(じんじょう)ならざる衝撃を与えると共に、陸海軍による矢のような催促、加えて勅語を下されたほどの明治天皇のお苦しみを察しての、まさにギリギリのタイミングでの方針転換だったのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
白袴隊ですか・・
これは後の太平洋戦争時の特攻部隊のルーツの様なお話ですねぇ・・。
乃木将軍のお考えを否定する訳ではありませんし、乃木将軍のこの時の
断腸の思いは
よく分かりましたが、日本人の捨て身の攻撃というのは、人命尊厳を無視した攻撃ではないかと思ったりします。
日本人は今でこそ、人命第一と一にも二にも
人の命をいかにも大事にしているかのように叫ぶけれど、戦争中のこういった一連の考え方を鑑みた時に、例えば、アメリカならば、兵士には戦いの後は休息を与え、次の戦闘に万全の体制で送り込むといいます。勿論、それは物資、経済ともに豊かであることが大前提なのだと思いますが、基本的にアメリカ人の考えの方が、日本人が声を大にして叫んでいるよりも、よほど人命を大切に考えているのではないかと思います。
それが日本の体質なのか
分かりませんが、戦争こそしなくても、大企業はお構いなしに人材切りを断行したりますが、考え方は同じであるように思います。
人間一人切り捨てる事など痛くもかゆくも無い
という考え方。
戦争という切羽詰まった特殊な環境だからこそ、生まれた作戦ならまだしも、どうも基本的な考え方は解せない気がします。
それと確かに後から論評はいくらでも書けますし、物事はメリット、デメリットどちらも存在するものですので、悪いほうへ考えたら切がありませんものね。
何でもそうですが、最初にそのアイディアを思いついた人。行動を起こした人には、敵いませんし、その場の酷な環境下で実際に同じように考えられるかというと、出来ないものだと思います。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお気持ちも理解できないことはありませんが、戦争などの非常時の行動はその場での判断が大きく影響しますからね。
白襷隊の行動は傍目には無謀としか思えませんが、この後の戦いにおいてロシア側の甚大な影響を与えることになりますし、こういった物事は総合的に判断することがベターであると思われます。
ぴーち 確かに仰るとおり、
人間にとって何が一番恐ろしいものであると言えば、
死をも恐れない堂々たる態度であり、その気迫ある態度を見て、相手は怯み恐れ戦くことだと思います。
切り札とありましたが、まさに
最後の切り札がこの方法だったのでしょうし、
それだけ、乃木将軍はこの時は、四面楚歌な状態で、相当追い詰められていたと言う証拠なのでしょうね。
まさに「勝利」に固執する姿は軍人としては
天晴れであったのかも知れません。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 当時の我が国には「ロシアとの戦いで負ければ終わり」という並々ならぬ危機感がありました。
その危機感が鬼神ともいえる働きをひとりひとりにさせるとともに、指揮官たる乃木将軍の覚悟にもつながったと考えられますね。
しかし、二〇三高地を占領したとしても旅順要塞の攻略には直結しないことから、満州軍総司令部の大山巌総司令官は要請を拒否(きょひ)しました。これに対し、参謀総長の山県有朋は御前会議における決議まで行って総司令部に翻意(ほんい)させようとしましたが、結果は同じでした。
現場の状況を理解していたゆえに乃木の苦衷(くちゅう)を察した総司令部は、あくまで正攻法による旅順要塞の攻略を目指(めざ)していたのです。
そんな乃木に対して、明治天皇は11月22日に勅語(ちょくご、天皇が直接に国民に下賜するという形で発した意思表示のこと)を下されました。勅語を賜(たまわ)るという栄誉(えいよ)に感激した乃木は覚悟を決め、今度こその思いを秘(ひ)めて11月26日に第三次総攻撃を開始しましたが、永久要塞とうたわれた旅順の攻略は今回も困難(こんなん)を極めました。
各師団の攻撃がことごとく失敗に終わったことを知った乃木は、切り札であった「特別部隊」を投入する決断を迫(せま)られたのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
その人が乗り越えられない程の苦難を天は与えはしないと言われていますが、乃木将軍は、明治天皇という最大にして、最強な存在を味方になってくれたのだから、これほどに心強いものはありませんし、怖気づく理由は全くありませんね!
明治天皇の存在が、乃木将軍にとって大きなバックボーンだったのでしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
明治天皇の乃木将軍に対するご親愛が将軍とともに我が国を救うことになる。
まさに歴史のロマンです。
海軍の攻撃要請の遅れや陸海軍の情報力不足、さらには戦力や弾薬不足など、旅順攻略が進まないことに対して、乃木一人にすべての責任をかぶせるにはあまりにも酷(こく)な条件がそろい過ぎていました。しかし、乃木は一切言い訳(わけ)をせず、多くの犠牲者を出しながら旅順を落とせない責任を一人で被(かぶ)る決意をしていました。
そんな乃木の悲壮(ひそう)な覚悟が、第三軍の士気に影響しないはずがありません。「乃木将軍は多数の犠牲者が出たことに苦しんでおられるのみならず、我々のことを本当に心配しなさっておられる。将軍のためにも我々が頑張(がんば)らなくてどうするというのだ」。
明治天皇のご慧眼(けいがん、物事の本質や裏面を見抜く鋭い洞察力のこと)どおり、第三軍は「乃木なればこそ」苦しい戦いをいとわず一丸となって奮戦し、また「乃木なればこそ」最終的に勝利をつかむことが可能となったのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
人は失敗しない人は居ませんが、
失敗した時にどのような思いを抱き、
どのような行動を起こすかによって
その人物の本当の姿が浮かび上がるものと思います。
ある者は、他人に責任を転嫁することで
自分の保身を保とうと必死になったり、
ある者は、開き直り自分は悪くないと維持でも
自分のミスを認めようとしなかったり・・
そこで何をさておいても、謝罪の意思が
最初からあるのならば、すばやく、潔く
自分の非を認め、まずは回りに迷惑を
かけたことに対しての思いを表すことが肝心ですよね。
乃木将軍は自分の事はさておき、周りの人間に対してしっかり配慮出来た事が、結果的に身近な周りの人間から助けられたことに繋がったのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
責任逃れに懸命な人間が多いなかで、乃木将軍の姿勢は実に立派でした。
上司がしっかりしていれば、部下の士気も上がって最終的な成功へと導くのは当然のことですよね。
10月13日(日)に多摩川浅間神社(たまがわせんげんじんじゃ)で行われた歌手・山口采希(やまぐちあやき)さんのLIVE「御国唄紡(みくにうたつむ)ぎ in 多摩川浅間神社」は、多数の皆様にご参加いただいて盛況となりました。
山口采希さんが戦時歌謡から「大切な宝物」まで数多くの歌を華麗に歌われたほか、ゲストとして私こと黒田裕樹も「紅葉」「蛍の光」の2曲を解説を交えて熱唱させていただきました。
当日の様子はYouTube(またはニコニコ動画)の映像でお楽しみいただけます。まずは山口采希さんの1曲目「愛国行進曲」です(このほか、歌ごとに映像が分けられています=合計11曲)。
こちらは私が歌った「紅葉」と「蛍の光」の映像です。
LIVEは終始和(なご)やかな雰囲気(ふんいき)で行われました。こちらは終了後の記念撮影です。全国の采希さんのファンの皆様に怒られそうですが(笑)。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(1) |
ぴーち こんにちは!
山口さんの元気溢れるお歌と黒田さんの朗々とした歌声を拝聴させていただきましたよ^^
山口さんのお歌を聞かせていただく前の印象は、
声楽家さんのようなクラシック系のジャンルの方だと思いましたが、歌謡曲系のノリの良い曲調で、若さ溢れるはつらつとした歌声に和やかな雰囲気が広がりますねぇ^^
ご自分で作詞、作曲などされるのでしょうか?
ご自分自身の思いを歌に託され
こうして観衆の前で歌われていくことは、素晴らしい事だと思います。どうぞ
これからも頑張ってくださいね!
黒田さん、素敵な歌声でしたよ^^
それと、最後のお写真も決まっていますね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
山口采希さんは歌声はもちろん、しっかりとした考えをお持ちの歌手で今後のご活躍が益々期待されますし、下記の歌は自分で作詞作曲もされてます。
「こんなに」(平成24年)
http://www.youtube.com/watch?v=DZx9APfp9Ug
私の歌も聞いていただいて有難うございます。
蛍の光は最後の方は声が裏返ってしまいましたけど(^^ゞ
最後の写真は采希ちゃんの心づくしですね(^ω^)
オバrev 山口さんの歌、(・∀・)イイ!!ですね。
何か元気をもらえそうです・・・黒田先生の歌はまだ聞いてないですけど・・・またいつか、きっと聞こうと思ってます^_^;
これから歴史講座のゲストとしてお願いしてもいいんじゃないでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 山口さんの歌、(・∀・)イイ!!ですね。
> 何か元気をもらえそうです
彼女の歌は勇気づけられますよね。彼女の素質はもちろん、曲の素晴らしさも大きいと思います。
> ・・・黒田先生の歌はまだ聞いてないですけど・・・またいつか、きっと聞こうと思ってます^_^;
YouTubeの映像が記事にありますので、いつでもご覧ください(^ω^)
> これから歴史講座のゲストとしてお願いしてもいいんじゃないでしょうか?
そうなれば良いですね。いつの日か実現させたいです。
オバrev 追伸ですが、山口さんと写っている写真・・・どう見ても娘の晴れ舞台を見に来た父にしか見えませんけど^_^;
オバrevさんへ その2
黒田裕樹 > 追伸ですが、山口さんと写っている写真・・・どう見ても娘の晴れ舞台を見に来た父にしか見えませんけど^_^;
私は独身なんですが…(´・ω・`)
まぁ年齢も20歳以上違うし、むしろ光栄に思うべきですね。
第三軍に対する非難はついに「乃木更迭論(こうてつろん)」にまで達しました。しかし、天皇ご自身が選ばれた親任官であった乃木を辞めさせるには、明治天皇のご裁可(さいか)が必要でした。
このため、陸軍参謀総長の山県有朋(やまがたありとも)は御前会議(ごぜんかいぎ)において第三軍司令官を交代(こうたい)させるべく明治天皇にお伺(うかが)いを立てましたが、陛下はただ一言仰られたのみでした。
「乃木を替えれば、乃木は生きてはおらぬぞ」。
第三軍の苦戦が続く最中(さなか)であっても、明治天皇の乃木へのご信任はいささかも揺(ゆ)るぐことはなかったのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
そうですよね。乃木将軍の責任感の強さを十分承知している立場上、もしもこの任務から降ろせば、自害してしまうかもしれない危うさは自ずと推測出来ますものね。
それから、例え周りに自分にとって何万の敵がいようが、一番信頼している人物に信頼を得ている事は、乃木将軍にとっては、この上なく有り難い事であったのでは無いでしょうか。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、明治天皇のご親任の深さが拝察できるエピソードですね。
裏を返せば乃木将軍の優秀さもうかがえると思います。
オバrev 現場の実態を知らない人間の雑言はよくありますね┐(´д`)┌ヤレヤレ
しかしお互いに100%信じることができる関係というのは素晴らしいし、幸せなことです。
最近の政治の世界は、その逆ばかりですけど(^^ゞ
現場を知らないと
- 黒田先生
青田です。
いつの時代でも、現場を知らない人間は、
表面的な結果論だけで、物事を判断しますよね。
歴史のifとして、もし、乃木を更迭して
別の司令官が着任しても、この状況では、
どうなっていたか、想像するだけでも恐ろしいです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、両者の素晴らしい信頼関係が我が国を救ったといえそうです。
現代の権謀術数ばかりを重視する政治の世界とはエライ違いですね…。
青田さんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。
もし乃木を更迭させていれば、我が国の勝利は有り得なかったことでしょう。
第二次総攻撃において第三軍は複数の堡塁の占領には成功したものの、最後には砲弾不足で攻撃を中止せざるを得ませんでした。またしても日本軍の敗北となったのです。
しかし、第二次総攻撃における日本軍の死傷者が約3,800人で全体の1割を切ったのに対して、ロシア軍のそれは約4,500人と日本軍を上回ったほか、全体の割合も14%に達していました。
失敗したとはいえ死傷者の数や割合が明らかに低下した裏(うら)には、乃木による正攻法への転換(てんかん)がありました。彼の判断は決して間違(まちが)っていなかったのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
一口に戦争に勝利した負けたと言っても、
その戦い方や詳細な内容を見てみると
明らかに圧勝だった場合もあれば、辛うじて勝利した場合もあるわけですね。
勝利したものは、どちらかというと
勝利の美酒を味わうことに酔ってしまい、
本当の勝因を見極めることが出来なくなる可能性はあるものの、負けた方は何が敗因だったのかという事を深く反省する機会を与えられるので、
しっかりとその時に原因探求できれば、何か次に起こった時の指針になるものなのだと思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、勝敗が時の運である以上は負けてしまうこともあります。
むしろ負けてからが本当の勝負であり、次回の勝利につなぐために何をなすべきかということを真剣に考えかつ実行することが重要と言えますね。
訓練の賜物
- 黒田先生
青田です。
単純に事実だけを観るとこの凄さが実感できませんが、
当時の写真を観ると
日露戦争時の日本とロシアの装備の違い、
それと
白兵戦の格闘になった時の、当時の
小柄な日本兵と大柄なロシア人との違いで、
これだけの成果を出せたこと自体、賞賛に値します。
それだけ、日頃の訓練がしっかりしていたということですね。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
日頃の訓練と精神面の鍛錬が重要であると痛感します。
すなわち敵の各堡塁に向かって塹壕(ざんごう、戦場にて歩兵が敵弾を避けるために作る防御施設のこと)を掘り進み、安全な攻撃路をつくって堡塁の手前に突撃陣地(とつげきじんち)を構築(こうちく)することで、攻撃距離(きょり)を短くしようとしたのです。第一次総攻撃の尊(とうと)い犠牲を決して無駄(むだ)にはしない、乃木ならではの柔軟(じゅうなん)な決断でした。
工事がある程度(ていど)進んだ9月19日からは局地的(きょくちてき)攻撃を行い、約4,800人の死傷者を出しながらも重要な堡塁を占領するなど、第三軍は着実な成果を挙げると共に旅順攻略に向けて自信を深めました。
かくして10月26日から第三軍は第二次総攻撃を開始したのですが、その際にまたしても不利な条件で戦わねばならなかったのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
なるほど!
成功する人の共通する考え方に、柔軟性というのが存在するのですね^^
そういえば、○パネット高田の社長も、前日まで
一押し商品を翌日のCMに採り上げようと予定していても、その翌日の天候次第で
急遽、その内容を変更して、違う商品の宣伝に切り替える事で商品売り上げを伸ばしているという話を伺った事があります。
臨機応変に対応していく能力も、また豊富な経験知識の賜物なのでしょうね^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、固定観念にとらわれていては進歩は有り得ません。
臨機応変に対処できる能力がリーダーには必須ということですね。
つまり、第三軍に今少しの兵力とあと数日分の砲弾があれば、旅順はこの時に陥落した可能性が高かったのです。第一次総攻撃自体は確かに第三軍の敗北に終わりましたが、その一方でロシア軍に精神的なものを含(ふく)めた大きな打撃を確実に与えていたことを私たちは忘(わす)れてはならないでしょう。
また、第一次総攻撃において第三軍は約3割の死傷者を出しましたが、これだけの犠牲を出せば通常であれば全軍が意気消沈(いきしょうちん)し、壊滅しても決しておかしくはありません。しかし、軍の将兵は「次こそはきっと勝てる」と大敗北を喫(きっ)したにも関わらず意気軒昂でした。
最悪の環境(かんきょう)や不利な条件の下でも決して希望を失わず、敗れてなお闘志を燃やし続けた第三軍を支えたのが、乃木という「腹を括(くく)った」司令官の存在であったことは言うまでもありません。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
これまで色々と日本の戦いぶりを拝見していると、日本の戦い方というのは、日本人独特な要素が随所に見られますね。最終的に相手を追い詰めても、最後の一撃は加えない。それ以上執拗に追い詰めない。武士の情けという武士道精神がそれを許さないのかも知れませんが、確かに戦争というのは、徹底的に相手国にダメージを加え、二度と立ち上がれない程に追い詰めなければいけないのでしょうけれど、人道的な思いと戦争である現実の狭間で戦争とは自分を先に殺さないと、相手を殺害することが出来ない惨いものだと感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国の戦争には仰る一面が確かにありますね。
史実の日本軍の健闘ぶりや武士道精神を鑑みれば、大東亜戦争の頃の残虐行為とされるものがいかに「眉唾物」であるか理解できるというものです。
さて、先述のとおり旅順の早期攻略を要請されていた第三軍は、旅順要塞の総攻撃にあたり強襲法(きょうしゅうほう)を採用し、8月19日から総攻撃を開始しました。
しかし、永久要塞を自称(じしょう)する旅順要塞の堅固さは、第三軍の度重(たびかさ)なる砲撃(ほうげき)にびくともせず、ロシア軍の守兵もほぼ無傷(むきず)でした。第三軍は圧倒的なロシア軍の攻勢に苦しみながらも健闘(けんとう)を重ね、一時は重要な堡塁(ほうるい、土塁や石塁などを巡らした堅固な砦のこと)を2つ占領(せんりょう)するなどの戦果を挙げましたが、無念にも砲弾(ほうだん)が尽(つ)きてしまい、同月24日に乃木は攻撃を中止せざるを得ませんでした。
後に第一次総攻撃と呼ばれたこの戦いは敗北に終わり、第三軍は総兵力約50,000人のうち約16,000人という3割以上の膨大(ぼうだい)な死傷者を出してしまいました。
さて、後年になって第一次総攻撃の失敗は乃木の無能な突撃(とつげき)によるものとして非難(ひなん)されることが多いようですが、そもそも海軍の遅すぎた攻撃要請がロシア軍による旅順の永久要塞化をもたらしたという事実があるうえに、事前に情報入手を怠(おこた)った陸軍参謀本部にこそ主因(しゅいん)があるのではないでしょうか。
ましてや第三軍の兵力がロシア軍とほぼ同数であるという絶対的な兵力不足や、一時は堡塁を占領するなど奮戦(ふんせん)していながら攻撃を中止せざるを得なかったという砲弾不足もありましたし、さらに付け加えれば、当時の日本軍は知る由(よし)もなかったのですが、第一次総攻撃でロシア軍が受けた打撃も決して少なくなかったのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
任命されたのなら、成功するのが当たり前
だと認識されてしまうのは、きついですね(^^ゞ
少しでも失敗が生じれば、全責任を主導者が
請け負わなければいけなくなるのも、腑に落ちないこととは言え、それも人間である以上、一番犯しやすい罪なのかも知れませんね。人のせいにすれば、気が楽ですから(^^ゞ
それにしても、戦争で圧勝すれば、敵を多く作ることにも繋がる事ですし、これはあくまで個人的な意見ですが、国の為には何も圧勝出来なくても良いのでは
無いかと思うんですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、様々な原因が重なっての失敗を、現場だけの責任で済ませるのはあまりにも無責任です。
なお、いわゆるパーフェクトゲームに関しては確かに恨みなどが残りそうですが、中途半端で済ませてしまうと後々息を吹き返す原因ともなりかねませんし、難しいですね。