令和3(2021)年のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公であり、また令和6(2024)年から新たに発行される一万円札の肖像画として採用された渋沢栄一(しぶさわえいいち)について、皆様はどの程度ご存知でいらっしゃるしょうか。
渋沢栄一と言えば、その生涯で約500社ともいわれる会社の設立に関与するなど「日本資本主義の父」と呼ばれたことで有名ですが、彼の人生そのものについては大河ドラマで初めて具体的に知った人も多いかもしれませんね。
栄一を語る際に、もっとも知られている肩書は「実業家」ですが、その半生には「過激な尊王攘夷派(そんのうじょういは)」「幕臣」「明治政府の官僚」など様々な経験を積んでおり、それらがすべて90年を超える彼の人生に大きな足跡を残しているのです。
今回は、渋沢栄一の生涯の全般を振り返るとともに、幕末における我が国の大きな歴史の流れを同時に紹介していきたいと思います。
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栄一の実家は養蚕(ようさん)や藍玉(あいだま)の製造を手掛ける豪農であり、裕福な家庭で生まれた栄一は幼い頃から学問に励み、やがて7歳になると、10歳年上の従兄である尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとで「四書五経」や「日本外史(にほんがいし)」などを学び始めました。
学問に大いなる興味を持った栄一は読書に夢中となり、12歳の正月のあいさつ回りの際には本を読みながら歩いていて溝に落ちてしまい、晴れ着を汚して母親に叱られたというエピソードが残っています。
栄一は読書の他にも剣術や習字などの稽古に励みましたが、14歳~15歳の頃には父親から「そろそろ農業や商売にも身を入れなさい」と言われたこともあり、畑仕事や藍葉の仕入れに没頭し始めました。
すると、栄一は自分一人で藍の買い付けに出かけるようになり、その際に肥料が少なかったりして藍の出来が良くないことなどをことごとく指摘して、相手方を大いに驚かせたそうです。
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栄一は「私は代理人としてきたので、今日は金額のみを聞いて帰り、正式な回答は後日連絡します」と述べて即答を避けましたが、代官は栄一に対してすぐに承知するよう、口汚い言葉で強要しました。
何とかその場を逃れた栄一でしたが、父親の判断で結局は御用金を受けることになりました。しかし、栄一は「代官の横っ面を張り倒してやりたいほど腹が立った」と後々まで家族の前で語るほど悔しい思いをしたそうです。
代官の一方的な物言いは「良い血筋にさえ生まれれば、それこそ無能や無学な者でも一定の地位に就くことができる」ということに他ならず、封建制度による厳格な身分の壁への憤りを感じたこの時の経験が、栄一のその後の人生に決定的な影響を与えるようになるのです。
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いわゆる「激動の幕末」が始まったわけですが、この流れを理解することは、若き日の栄一がなぜ尊王攘夷の思想を強く持つようになったかを知るうえで非常に重要ですので、詳しく紹介します。
我が国とアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」を皮切りに、我が国はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を結びましたが(これを「安政の五か国条約」といいます)、その内容は「相手国に領事裁判権を認めること」や「我が国に関税自主権が認められない」など、著しく不平等なものでした。
まず領事裁判権は別名を「治外(ちがい)法権」ともいいますが、これは、外国人が在留する現地の国民に危害を加えた場合に、その外国の領事が自国の法によって裁判をする権利のことです。
例えば、アメリカと日本のうち、アメリカのみが領事裁判権を認められた場合、アメリカの国民が日本で罪を犯しても、アメリカの領事が自国の法によって裁判を行いました。しかしその一方で、日本の国民がアメリカで罪を犯せば、アメリカの法で裁かれてしまうため、日本にとって極めて不利となったのです。
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例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円での販売となれば、十分対抗できることになります。
このためには関税自主権が必要となるのですが、日米修好通商条約によって我が国には認められませんでした。このため、外国の安い商品が低い関税で輸入されることで、国内の産業が大きな打撃を受けるとともに、関税による収入も見込めないことで、我が国は二重の苦しみを味わうことになりました。
さらには、この条約に基づいて始まった貿易によって、準備不足だった我が国は大きな混乱状態に陥ってしまうのです。
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貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追いつかず、国内で品不足となったことで物価を押し上げた一方で、外国製の安価な綿織物の大量輸入は、農村における綿作(めんさく)や綿織物業を圧迫することになりました。
これらのことは、もし開国あるいは貿易に向けて何年も前から入念な準備を行っていれば、そもそも発生しない問題だったのです。
事態が起きてから対策を練るという、いわゆる後手に回ったことで対応に苦悩していた幕府をさらに困らせたのが「我が国と外国との金銀の比価の違い」でした。
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しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解されず、また幕府の外交技術や経済観念の乏(とぼ)しさもあり、アメリカ総領事のハリスが主張した「銀の価値による交換」が強引に行われることになってしまいました。
すなわち、メキシコドル4枚を日本で一分銀12枚という「価値」を基準に交換し、それを日本国内において金3両で両替すると、小判を海外に持ち帰ってメキシコドル12枚という「海外の金銀相場」で交換したのです。
日本を経由するだけで手持ちの資産が3倍になるという、錬金術師(れんきんじゅつし)顔負けのカラクリによって、銀貨を日本に持ち込んで小判を安く手に入れる外国人が続出し、その結果として我が国の金貨が大量に海外に流出してしまいました。その被害は10万両以上ともいわれています。
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貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量を下げたのであればまだしも、貿易による値上がりで景気が悪化していた時期に貨幣を改鋳してしまったことから、物価がますます上昇して悪質なインフレーションとなり、庶民の暮らしは大きな打撃を受けるようになってしまいました。
貿易開始に伴う庶民の生活の困窮(こんきゅう)ぶりに拍車をかけたのが、相次ぐ天災の発生や疫病(えきびょう)の流行でした。日米和親条約が結ばれた嘉永7(1854)年から安政年間(1850年代後半)にかけて、我が国では大地震が連発しました。いわゆる「安政の大地震」です。
特に、安政2年旧暦10月2日(1855年11月11日)夜に発生したマグニチュード6.9~7.4と推定される「安政江戸地震」では約1万人が犠牲になったとされ、水戸藩の学者であった藤田東湖(ふじたとうこ)が倒壊した自宅の下敷きとなって圧死しました。
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なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。
こうした流れを受けて、庶民の怒りはそのまま外国に対する反感となり、貿易を行っていた商人や我が国に在留する外国人が襲われるようになると、これがそのまま攘夷運動の激化につながりました。
また、世相(せそう)の不安が農村では百姓一揆の、都市では打ちこわしの多発を招き、これらに対応しきれない幕府の権威はますます下がっていきました。
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そして、翌安政7年旧暦3月3日(西暦1860年3月24日)、春にしては珍しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門へと差し掛かった直弼の行列に対して、水戸藩を脱藩した大勢の浪士らが襲いかかり、直弼を暗殺しました。
この「桜田門外の変」によって、最高権力者である大老が江戸城外で襲われ、しかも殺されるという大失態を演じてしまった幕府の威信がますます低下するとともに、自分の意見と対立する人間への「血の粛清(しゅくせい)」が半ば常識化してしまいました。
かくして、1860年代前半には日本全国において「尊王攘夷運動」が盛んとなり、その流れが栄一の周囲にまで及ぶようになるのです。
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