信長は1580年に大坂(現在の大阪)・石山の本願寺を攻略した後、重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)や林通勝(はやしみちかつ)を、不行跡(ふぎょうせき)によって領地没収のうえ追放処分にしました。追放の真の理由ははっきりしていませんが、この頃までに「独裁者」ともいえる実力を持っていた信長に対して、否応(いやおう)なしに恐怖感を認識した事件でもありました。
今は大した失敗はしていないから自己の地位は安泰だが、いつ信長様の逆鱗(げきりん)に触れるか分からないところが恐ろしい―。光秀の中で、恐怖心とともに「ついていけない」という不信感が芽生えた瞬間でもありました。
1581年に、京都において第106代の正親町天皇(おおぎまちてんのう)ご臨席のもとで、一種の軍事パレードともいうべき「馬揃え」(うまぞろえ)が行われました。信長が自分の力を周囲に誇示するために行われたというのが通説ですが、その一方で朝廷に対する圧力もあったとされています。
信長は豊富な資金力で朝廷を手厚く保護する一方で、朝廷の力を利用して自己の天下統一を有利に進めていました。例えば先述の石山本願寺の攻略も、正親町天皇の命令で本願寺側が石山を退去することで決着しています。
「金は出すが口も出す」。朝廷に対する信長の態度はいつしか尊大になり、やがては正親町天皇と対立するようになった信長は天皇に譲位を迫り、反対された天皇に対して威嚇(いかく)の意味を込めてわざわざ馬揃えをしたという説もあるのです。
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。
いつも有難うございます。
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悠 講座の動画みました
歴史ってやっぱりおもしろいですねー
頑張って勉強します!
安眠癒しグマ 講座の記事ありがとうございます。
じっくり勉強します。
ぽち♪
悠さんへ
黒田裕樹 > 歴史ってやっぱりおもしろいですねー
> 頑張って勉強します!
そう思っていただければ有難いです。
勉強頑張りましょう!(^o^)丿
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 こちらこそコメント&ぽち有難うございます!
次回以降の講座には是非お越し下さい(^_^)v
自滅の種
オバrev この尊大さが自民党敗北、特に大物議員が小選挙区で負けた原因の一つだったように思います。
道半ばで天下統一を逃した信長ですが、その原因となる自滅の種を、しっかり自分で蒔いてたんでしょうね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 自己の築き上げた強大な権力の座。そのイスの座り心地に慣れてくると、自分の力が無限大に思えてくるようですね。
それ自体の是非はともかく、信長の見せた「暴走ぶり」は、確かに先日の衆院選に通じるところがあると思います。
ただ、殺されてしまった信長はともかく、自民党にはまだやり直す機会が残っているとは思いますが、ここ数日の動きを見ると、何も申し上げられませんね…。
お蔭様で、今回の記事が通算で200回目となります。いつも応援下さいまして、本当に有難うございます!
光秀は早くから朝廷と通じ、交渉役として奔走(ほんそう)してきましたが、信長の朝廷に対する態度は、そんな自分の今までの血のにじむような努力を無にしてしまいかねない、とんでもないものに見えました。光秀に朝廷に対する尊敬の思いがあったかどうかはっきりしませんが、少なくとも自己の努力を否定しかねない信長の行動に対しては「ついていけない」と不信感を抱いたことでしょう。
また、これは光秀に限りませんが、皇室に対する不敬な態度や、足利将軍家に対する追放という仕打ちなどが、当時の日本人からすれば「異常」に見えました。来たるべき新しい時代に向けての信長なりの秩序が、光秀には受けいれられなかったのです。こうして信長に対する不信感が募(つの)っていく中で、光秀の心の中に「爆弾」がつくられていきました。
しかし、これらの「ついていけない」思いだけで、光秀が信長への謀反を決意したとしても、すぐに行動を移したとは考えにくいのが現実です。不信感は確かに爆弾やその導火線と化していきましたが、肝心の「導火線に火がつく」までには至っていませんでした。では、その「火がつく」きっかけとは何だったのでしょうか?
ところで、事件が起こった後に実行犯を捜索(そうさく)する際の名言に「事件後に一番得をした者を疑え」というものがあります。この格言を「本能寺の変」に当てはめれば、誰が一番得をしたのでしょうか?
羽柴秀吉の名前が浮かびそうですが、彼はむしろ「被害者」になりかけています。光秀の毛利家に対する使者が秀吉側に捕まったことによって、秀吉は信長が暗殺されたことを初めて知りました。その後、急いで毛利家と講和して引き返しましたが、もし毛利家が信長暗殺を先に知っていれば、秀吉は中国地方に釘付けになっていたことでしょう。そんなリスクのあることを、秀吉が行うとは考えられません。
ではいったい誰が一番得をしたのでしょうか?
※上記は今回までの内容に関連する映像ですが、収録後に記事の文章を一部変更しております。また、講座のすべてに関する映像も配信しております。
いつも有難うございます。
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紗那 朝廷にどうしたという話は聞いたことありますねー。
何で読んだのか忘れましたけどww
誰が一番得したかですか。
漠然と秀吉さんなきがしてましたが、確かにいわれてみれば得してないですね。
家康さん?でも、光秀から逃れるために必死で逃げてたはずですし・・・
誰だろう・・・ 期待してます(ぇ
紗那さんへ
黒田裕樹 > 朝廷にどうしたという話は聞いたことありますねー。
> 何で読んだのか忘れましたけどww
聞かれたことがあるんですか。朝廷に歯向かうだけの資金力や権力を持っていましたからね。それだけに、本能寺の変には朝廷が黒幕の説もありますが、私の見解は…。
> 誰が一番得したかですか。
> 漠然と秀吉さんなきがしてましたが、確かにいわれてみれば得してないですね。
> 家康さん?でも、光秀から逃れるために必死で逃げてたはずですし・・・
秀吉については記事のとおりです。家康も、仰るとおり命がけで逃げ回りましたからねぇ。いくら狸親父でも、あれが芝居だとは思えません。
> 誰だろう・・・ 期待してます(ぇ
新しい記事に答えを書きましたが、ご期待どおりでしたでしょうか?(^^ゞ
韓非子の言葉
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
織田信長は、家臣を信じるのに家臣に裏切れています。
・ 浅井長政、荒木村重、松永久秀、明智光秀、
なぜ、織田信長は、家臣を見抜く力がなかったのかと思っていたのですが
中国の秦の始皇帝に韓非子が言った言葉を思いだました。
「上、三年にして下を知り 下、三日にして上を知る」
上の人間は、下を知るのに、3年掛る。
しかし、下(家臣)は、上司にイイように観られてたいから、3日あれば、上司を知ることができる。
織田信長は、後半生で、独裁病になると、まさに
この状態でしたね。
家臣は、信長が恐ろしいがゆえに、信長の前で
ええ顔をしようとする。
逆に独裁病になると家臣の本音が見えないくなる。
青田さんへ
黒田裕樹 なるほど、確かに韓非子の言うとおりですね。
独裁病はまさに「病、膏肓に入る」といったところでしょうか。