水野はかつての享保(きょうほう)・寛政の両改革を手本とし、衰えつつあった江戸幕府の権力強化を目指して改革を行ったのですが、その手法は先の両改革よりも過激なものであり、結果として庶民の暮らしが大きな打撃を受けることになりました。
まず水野は将軍や大奥も含めた非常に厳しい倹約令を出し、ぜいたく品や華美な衣服を禁じました。ここまでは前の改革とはそれほど大きな差はありませんが、問題なのはその「陰湿さ」でした。
幕府の意を受けた南町奉行所では、町に密偵を放って幕府の政治に対する悪口を言わせ、それに乗ってきた庶民を「幕府を批判した」と言って捕まえたり、倹約令によって禁止されていた絹の着物を着ている疑いがあるとして、往来の真ん中で女性を無理やり裸にしたりしたと伝えられています。
これらを指揮した人物こそが、先の「蛮社の獄」を取り締まった南町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)であり、また当時の北町奉行は時代劇の「遠山の金さん」で有名な遠山景元(とおやまかげもと)でした。遠山はやがて水野や鳥居と対立することになります。
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また、農村を離れて江戸へ出稼ぎに来た農民や、貧困のために江戸に流入した貧民に対して帰郷を強制させる「人返(ひとがえ)しの法」を出し、天保の大飢饉で荒廃(こうはい)した農村を復興させようとしました。
しかし、これは寛政の改革の「旧里帰農令(きゅうりきのうれい)」と同様に、農村へ強制的に返すことはあっても、その後の対策が十分になされていなかったこともあり、大きな効果は得られませんでした。
加えて、人返しの法によって無宿者(むしゅくもの)あるいは牢人(ろうにん、別名を「浪人」)らも農民同様に江戸を追われたことで、江戸周辺の農村の治安悪化をも引き起こす原因となってしまったのです。
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財政の支出を抑えるために政府が倹約することは決して間違っていませんが、それを一般庶民にまで強要してしまえば、消費が冷え込んで景気が悪化するばかりでなく、精神面でも余裕がなくなることで文化が衰退し、世の中全体が殺伐(さつばつ)とした雰囲気となってしまうのが目に見えていたからです。そしてそれは、改革の実施によって現実のものとなってしまいました。
ところで、天保の改革が始まった頃には、江戸をはじめとする大都市を中心に物価が値上がりしており、庶民の暮らしに大きな影響を与えていましたが、これらの主な原因は、人口の増加に伴って消費量が拡大した都会に対する生産地からの物資の供給不足にありました。
需要が増えているのに供給が不足すれば、物価が上がるのは当たり前ですから、江戸や大坂などの大都市への供給量を増やして物価を下げる政策を行えば良かったのですが、水野が実際に考えた対策は、経済の原則を無視したとんでもないものでした。
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水野は、諸物価の値上がりは当時の流通システムを仕切っていた商人による株仲間に原因があるとして、北町奉行の遠山らの反対を押し切って天保12(1841)年に彼らの解散を命じましたが、これはとんでもない誤解でした。
なぜなら、先述のとおり物価の値上がりの原因は別に存在していましたし、何よりも株仲間を解散するということは、長年にわたる物資の流通システムを壊してしまうことを意味していたからです。
株仲間の解散の結果として流通網が混乱したことで、遠山らが心配したとおり、物価がさらに上昇するという完全な逆効果をもたらしてしまいましたが、水野らは明確な責任を取ることもなく、さらなる改革を強引に推し進めていきました。
なお、株仲間は10年後の嘉永4(1851)年に再興されています。
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これらによって旗本や御家人の暮らしは一息ついたものの、商人は大きな打撃を受けることになり、また厳しい倹約令によって不景気が続いたことで、庶民の不満が次第に高まっていきました。
こうした中で、水野は財政の改善や対外防備を強化するとともに、幕藩体制の強化を目的として、天保14(1843)年に江戸・大坂周辺の約50万石を幕府の直轄地とする上知令(じょうちれい、または「あげちれい」)を出しました。
しかし、上知令は対象となった領地を所有していた譜代大名や旗本らの反発を招くと同時に、これをきっかけとして水野本人への非難が激しくなったこともあり、上知令が中止になっただけでなく、水野自身も老中を辞めさせられる結果となりました。
約2年という短い期間で天保の改革が失敗に終わったことは、幕府の政権能力の減退を意味しており、この後わずか10年余りで激動の幕末を迎えてしまうのです。
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天保11(1840)年、幕府は当時相模(さがみ、現在の神奈川県)の海岸警備を担当していた武蔵(むさし、ここでは埼玉県川越市付近のこと)の川越(かわごえ)藩への財政援助を目的として、川越藩が財政豊かな出羽(でわ、ここでは山形県)の庄内(しょうない)藩へ、庄内藩が越後の長岡(ながおか)藩へ、長岡藩が川越藩へ移るという、いわゆる「三方領知替(さんぽうりょうちが)え」を命じました。
しかし、藩主の転封(てんぽう)を知った庄内藩の領民が後に「天保義民事件」と呼ばれた大規模な反対運動を展開して抵抗したり、諸大名の間からも不満の声が高まったりしたため、領知替えは翌天保12(1841)年に12代将軍の家慶によって撤回されました。
幕府が大名の転封を一度は決定しながらその命令を最終的に撤回させられたことは、幕府が他藩に対してそれまで強制してきた幕藩体制を動揺させる結果となりました。なお、水野は三方領知替え以前の天保10(1839)年から老中首座となっています。
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