1776年にアメリカがイギリスとの戦争を勝ち抜いて独立すると、19世紀には太平洋を目指して西部へと開拓し始めました。また、1789年にフランス革命が起きると、やがてナポレオンが登場して急速に勢力を拡大し、イギリスやロシアと激しい戦いを繰(く)り広げました。
一方、そんなイギリスやロシアはアジアへの進出をもくろみ、特にロシアはシベリアを植民地とした17世紀以降に南下を進め、18世紀末にはしきりに我が国の近海に出没するようになりました。ロシアの思惑(おもわく)に気付いた老中の田沼意次は、前回(第81回)の歴史講座で紹介したように蝦夷地の開発を試みるとともにロシアとの交易も視野に入れました。
もしこれが実現していれば、我が国は通史より半世紀以上も早く自主的に開国する可能性があったのですが、その後に意次が失脚したことによって夢に終わり、後を受けた松平定信の消極策によって、我が国は再び門戸(もんこ)を固く閉ざすようになってしまったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ラクスマンの要求は、応対した松前(まつまえ)藩を通じて幕府に伝えられましたが、老中の松平定信は漂流民こそ受け取ったものの、通商に関しては鎖国を理由に聞く耳を持たず、どうしても通商を求めたいのであれば長崎へ行くようにと命令したうえで、長崎への入港許可証を与えました。
ラクスマンは許可証を受け取りましたが、長崎へは向かわずそのまま帰国しました。一方、ラクスマンの来航の事実を重く見た幕府は、蝦夷地や江戸湾の海防の強化を諸藩に命じたほか、定信の失脚後の寛政10(1798)年には近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)や最上徳内に択捉島(えとろふとう)などを調査させるとともに、翌寛政11(1799)年には東蝦夷地を幕府の直轄地としました。
なお、我が国に帰還した大黒屋光太夫に関するエピソードは、作家の井上靖(いのうえやすし)によって「おろしや国酔夢譚(こくすいむたん)」という長編小説に書き上げられ、映画化もされています。また、近藤や最上らは択捉島などを調査した際、択捉島に「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を立て、日本領であることをアピールしています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
幕府の冷酷な対応に態度を硬化させたロシアは、文化3(1806)年から文化4(1807)年にかけて樺太(からふと)や択捉島を攻撃しました。
ロシアの強硬な態度に驚いた幕府は、文化4(1807)年に蝦夷地をすべて直轄地として松前奉行に支配させ、東北の各藩にも沿岸の警備を命じました。
また、文化5(1808)年には間宮林蔵(まみやりんぞう)に樺太やその沿岸を探検させましたが、間宮は調査の結果、樺太が島であることを発見しました。我が国では間宮の功績を称(たた)える意味で、樺太とロシアの沿海州(えんかいしゅう)との間にある海峡(かいきょう)を「間宮海峡」と名付けています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これに対し、ロシアは報復として翌文化9(1812)年に日本船を拿捕し、淡路島(あわじしま)の商人であった高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)らを抑留しました。
まさに「人質合戦」と化したことによって両国間の関係はさらに悪化しかけましたが、当時のロシアはヨーロッパでの戦争が続いていたことから、我が国を侵略するまでの意図がなかったこともあり、ゴローウニンと高田屋嘉兵衛とが捕虜(ほりょ)交換の形でそれぞれ帰国しました。
これら一連の流れは「ゴローウニン事件」と呼ばれていますが、この後の日露関係は修復へと向かい、幕府の直轄地となっていた蝦夷地も文政4(1821)年には松前藩に返還され、松前奉行は廃止されました。なお、高田屋嘉兵衛に関するエピソードは作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)によって「菜の花の沖」という名で小説化され、テレビドラマ化もされています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
そんな中、文化5(1808)年にオランダの国旗を掲(かか)げた船が長崎の出島に入港しました。関係者と思い込んだオランダ商館員が船に乗り込んで出迎えようとすると、彼らが捕えられて船に連行されると同時にオランダ国旗が降ろされ、代わりにイギリス国旗が誇らしげに掲げられました。
実は、この船はイギリスのフェートン号が化けていたものだったのです。フェートン号は人質を盾(たて)に長崎港内でのオランダ船の捜索を行うとともに、燃料や食糧を我が国に求め、要求が通らない場合には港内の日本船を焼き払うと通告してきました。
イギリスによる余りもの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)ぶりに長崎奉行の松平康英(まつだいらやすひで)は激怒しましたが、どうすることもできませんでした。なぜなら、泰平の世が長く続いたことによって、幕府や警備を担当していた肥前(ひぜん)藩による長崎における兵力が激減しており、戦える状態ではなかったからです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
この出来事は「フェートン号事件」と呼ばれていますが、この後もイギリス船が何度も我が国の近海に出没したため、業(ごう)を煮やした幕府は文政8(1825)年に「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい、別名を無二念打払令=むにねんうちはらいれい)」を出し、清国とオランダ以外のすべての外国船を撃退するように命じました。
確かにフェートン号の所業は許せないものがありましたが、だからと言って問答無用で外国船を打ち払うというのは余りにも極端な対応と言わざるを得ません。結局、このような幕府の場当たり的な対応がさらなる悲劇を呼んでしまうのです。
ところで、事件の後に幕府から叱責を受けた肥前藩は、汚名返上を目指して軍備を整えていきました。嘉永(かえい)6(1853)年には「からくり儀右衛門(ぎえもん)」と呼ばれた発明家の田中久重(たなかひさしげ)を精錬方(せいれんがた)として迎えて蒸気機関の研究をさせると、やがて久重は当時の世界最新鋭の大砲であった「アームストロング砲」の開発に成功しました。
薩摩(さつま)藩や長州(ちょうしゅう)藩よりもずっと前から攘夷の不可能を理解していた肥前藩だったからこそ、後に維新の元勲として君臨するという歴史の流れがもたらされたのです。なお、久重が晩年に設立した「田中製造所」は、我が国が世界に誇る大手電機メーカーである「東芝」のルーツとなっています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ところが、幕府は異国船打払令の規定どおりに問答無用で砲撃を行い、あわや撃沈(げきちん)されそうになったモリソン号は辛うじて脱出しました。この出来事を「モリソン号事件」といいます。
幕府による無茶な対外政策に対して、尚歯会(しょうしかい)に所属していた蘭学者の渡辺崋山が「慎機論(しんきろん)」を、高野長英(たかのちょうえい)が「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」をそれぞれ書いて批判しました。
しかし、両名らは天保10(1839)年に幕府によって処罰されました。この事件を「蛮社の獄」といいます。また、蛮社の獄を指揮した主な人物に、後に南町奉行となって天保の改革で暗躍する鳥居耀蔵(とりいようぞう)がいました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。