その後、これらのインフラが元禄時代までに一段落すると、年を追うごとに年貢率は低下していきました。年貢率の低下は生活の余裕をもたらし、それまで食べるのに精一杯だった人々が、やがて暮らしの中に遊びを求めるようになりました。
人々が遊びを求めれば、それだけ貨幣の動きが活発になることから、結果として経済が目覚ましく発展しました。経済の発展は遊びのさらなる進化をもたらし、武士や有力町民のみならず、庶民の間にまで高い水準の多彩な文化が発達することになったのです。
かくして、17世紀後半から末頃にかけ、世界に先駆けて生まれた一般庶民を中心とする当時の文化は、元禄時代を中心に栄えたことから「元禄文化」と呼ばれており、その特色としては、現世(げんせ)を「浮き世」と、すなわち人間社会の現実を肯定的(こうていてき)にとらえて実利を重んじる町人の思いが込められると同時に、この時代に奨励(しょうれい)された儒学(じゅがく)と政治との結びつきや、実証主義による古典研究や自然科学の学問の発達などといった様々な側面が見られます。
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歴代将軍の中でも特に学問を好んだ5代将軍の徳川綱吉は、元禄3(1690)年に湯島聖堂(ゆしませいどう)を建てて、林羅山の孫にあたる林鳳岡(はやしほうこう、別名を林信篤=はやしのぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任じました。
こうした幕府の姿勢は諸大名にも反映され、多くの藩主が綱吉にならって儒者を顧問(こもん)に迎えて学問に励むと同時に、藩政の向上を目指しました。なかでも岡山の池田光政(いけだみつまさ)や会津の保科正之、加賀の前田綱紀(まえだつなのり)や水戸の徳川光圀(とくがわみつくに)らが知られています。
なお、徳川光圀は有名なテレビ時代劇の「水戸黄門(みとこうもん)」のモデルとしても有名ですね。
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このほかの朱子学派としては、戦国時代に活躍した南村梅軒(みなみむらばいけん)を祖とする南学(なんがく)があり、土佐の谷時中(たにじちゅう)に受け継がれた後には野中兼山(のなかけんざん)や山崎闇斎(やまざきあんさい)らが出ました。
山崎闇斎は僧侶(そうりょ)から儒者となり、我が国古来の神道を朱子学的に解釈した垂加神道(すいかしんとう)を説き、大義名分から皇室を尊敬することを教え、後の尊王論の基礎となりました。なお、この門流は崎門(きもん)学派と呼ばれました。
朱子学以外の儒学としては、チャイナの明の王陽明(おうようめい)を始祖とする陽明学(ようめいがく)を中江藤樹(なかえとうじゅ)や熊沢蕃山(くまざわばんざん)らが学び、知行合一(ちこうごういつ、本当の知は実践を伴わなければならないということ)による実践主義を重視して、理論に偏(かたよ)りがちな朱子学を批判したことや、その革新的な内容が幕府に警戒されました。
なお、山崎闇斎は保科正之に、熊沢蕃山は池田光政にそれぞれ招かれて学問を教えています。また、後の天保(てんぽう)8(1837)年に反乱を起こした大塩平八郎(おおしおへいはちろう)も陽明学者として有名です。
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古学派のうち、山鹿素行(やまがそこう)は古代の聖賢(せいけん)に立ち戻ることを主張して、礼に基づく武士道を確立するとともに朱子学を激しく批判しました。また伊藤仁斎(いとうじんさい)・伊藤東涯(いとうとうがい)の父子は京都で古義堂(こぎどう)を開いて、仁(じん)を理想とする古義学(こぎがく)を唱えました。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)は徳川綱吉の側近であった柳沢吉保に仕え、晩年には8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)にも仕えました。徂徠は古代チャイナの古典を読み解く方法論である古文辞学(こぶんじがく)を確立したほか、知行地(ちぎょうち)における武士の土着などの統治の具体策である経世論(けいせいろん)を説きました。
また、徂徠の門人であった太宰春台(だざいしゅんだい)は徂徠の経世論を発展させた「経済録(けいざいろく)」を刊行して、武士も商業を行うほか、藩が専売制度を行って利益をあげる必要性を主張しました。
なお、朱子学を批判したことで幕府の怒りを買った山鹿素行は赤穂藩に流され、藩士たちに学問を教えました。赤穂藩の門下生の中には若き日の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)がおり、大石が後に主君の敵(かたき)として他の元家臣らとともに吉良上野介を討ち果たすと、その裁定に悩む幕府に大石らの切腹を主張し、最終的に認めさせたのが荻生徂徠です。
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一方、水戸藩の徳川光圀は藩の総力を挙げて紀伝体(きでんたい、人物や国ごとの業績を中心に記述していく方法)の「大日本史(だいにほんし)」の編纂を始めました。大日本史における全体的な内容は朱子学に基づく大義名分論が主流であり、後には水戸学と呼ばれた尊王思想に発展し、幕末の思想に大きな影響を与えました。
このほか、山鹿素行は「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を著して、儒学の流行による中華思想を批判し、日本人にとっては日本こそが中華であるという立場を明らかにしました。また、新井白石は古代史を研究して「古史通(こしつう)」や「読史余論(とくしよろん)」を著しました。
ちなみに、大日本史は全397巻にのぼる大作であり、着手以来約250年の歳月をかけて明治39(1906)年にようやく完成しました。また、中朝事実は明治の軍人であった乃木希典(のぎまれすけ)が、明治天皇の崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)を受けて殉死する直前に、若き日の裕仁親王(ひろひとしんのう、後の昭和天皇)に献上したことで有名です。
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茂睡の説は万葉集などの研究を続けた僧の契沖(けいちゅう)によってその正しさが認められ、契沖は従来までの和歌の道徳的な解釈を批判した「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」を著しました。
また、源氏物語や枕草子などを研究した北村季吟(きたむらきぎん)は「源氏物語湖月抄(げんじものがたりこげつしょう)」や「枕草子春曙抄(まくらのそうししゅんしょしょう)」などの注釈書を著しました。
これらの古典研究はやがて古代精神への探究へと進化して、後には「国学(こくがく)」という新しい学問の基礎となりました。
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天文学や暦学(れきがく)では、渋川春海(しぶかわはるみ、または「しゅんかい」、別名を安井算哲=やすいさんてつ)が、それまでの暦(こよみ)の誤差を観測によって修正し、我が国独自の貞享暦(じょうきょうれき)をつくりました。なお、この功績によって渋川は幕府の天文方(てんもんかた)に任じられています。
江戸時代初期には様々な治山(ちさん)・治水や都市整備などの事業が行われましたが、その際に精密な測量が必要だったことや、あるいは商業取引の際に重要だったことから和算(わさん)が発達しました。関孝和(せきたかかず)は筆算代数式(ひっさんだいすうしき)とその計算法や円周率の計算などで優れた業績を残しています。
薬草の研究から始まった本草学(ほんぞうがく)は、貝原益軒(かいばらえきけん)が「大和本草(やまとほんぞう)」を、稲生若水(いのうじゃくすい)が「庶物類纂(しょぶつるいさん)」をそれぞれ著しました。なお、本草とは薬効(やっこう)のある植物や動物・鉱物のことです。本草学は農業や医療の改善にも貢献し、先述した宮崎安貞の「農業全書」のような農書の普及ももたらしました。
また、地理学の分野では西川如見(にしかわじょけん)が「華夷通商考(かいつうしょうこう)」を著して海外事情を紹介したほか、新井白石が我が国に潜入して捕えられたイタリア人宣教師のシドッチを尋問(じんもん、取り調べとして口頭で質問すること)した内容をまとめた「西洋紀聞(せいようきぶん)」を著しました。
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俳諧では、西山宗因(にしやまそういん)による奇抜な趣向をねらった談林(だんりん)俳諧に対して、伊賀出身の松尾芭蕉(まつおばしょう)が格調高い芸術による蕉風(しょうふう、または「正風=しょうふう」)俳諧を確立しました。全国を旅しながら俳諧を広めた芭蕉は「奥の細道」などの紀行文を残しました。
武士出身の近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は「国性(姓)爺合戦(こくせんやかっせん)」などの歴史的な事柄を扱った時代物(じだいもの)や「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」などの当時の世相に題材をとった世話物(せわもの)を、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)や歌舞伎(かぶき)の脚本として書き上げました。
近松の作品は義理と人情の板挟みに苦しむ人々の姿を美しく描いたものであり、大坂の竹本義太夫(たけもとぎだゆう)らによって語られ、義太夫節(ぎだゆうぶし)として広く知れ渡りました。
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当時の有名な歌舞伎役者としては、江戸の市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)が荒事(あらごと)と呼ばれた勇壮で力強い演技で人気を集め、上方では和事(わごと)と呼ばれた恋愛劇で若い色男を演じた坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)や女形(おやま)の芳沢(よしざわ)あやめらがいます。
美術面では、上方の有力な町人を中心に洗練された作品が生まれました。絵画では大和絵(やまとえ)の流れをくむ土佐派の土佐光起(とさみつおき)が朝廷の絵師となり、また土佐派から分かれた住吉如慶(すみよしじょけい)は住吉派を興(おこ)して、子の住吉具慶(すみよしぐけい)は幕府の御用絵師となりました。
京都の尾形光琳(おがたこうりん)は俵屋宗達の画法を取り入れて「紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)」や「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」などの大胆な構図できらびやかな装飾画(そうしょくが)を大成し、琳派(りんぱ)を興しました。
また江戸では菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が美人や役者・相撲など都市の風俗を描いた浮世絵の版画を始め、大量印刷によって安価で入手できる浮世絵が庶民の人気を集めました。高額で取引される切手の一つである「見返り美人図」は菱川師宣の作品です。
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絵画で有名な尾形光琳は「八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)」などの優れた作品も残していますが、その弟である尾形乾山(おがたけんざん)も装飾的で高雅(こうが)な陶器(とうき)や蒔絵(まきえ)を残しました。光琳との合作である「寿老図六角皿(じゅろうずろっかくざら)」が有名です。
染物(そめもの)では、宮崎友禅(みやざきゆうぜん)が始めた花鳥山水を模様とする友禅染(ゆうぜんぞめ)が、衣服の華やかさを競った町人の間で流行しました。
また彫刻では、僧の円空(えんくう)が全国を行脚(あんぎゃ、諸国を渡り歩くこと)して、円空仏(えんくうぶつ)と呼ばれた独特の作風を持った仏像を残しました。(続く)
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