我が国は江戸幕府初期の17世紀初め頃には世界有数の金銀産出国となり、また鉱山における最新の技術や優れた道具は、そのまま治水(ちすい)や溜池(ためいけ)用水路などの開削(かいさく)に関する技術に転用されました。
これらによって河川敷(かせんじき)や海岸部において大規模な耕地化が可能となり、また平和な世の中となったことで人口が急増したことによる必要性から、全国で新田開発が積極的に行われたため、我が国の耕地面積は江戸時代初期の164万町歩(ちょうぶ、1町歩は約1ヘクタール)から、およそ100年後には297万町歩にまで増加しました。
なお、新田開発は当初は幕府や藩の主導で行われましたが、17世紀末頃からは有力な商人などの町人が資金を提供した町人請負新田が増えていきました。代表的な町人請負新田としては、現在も地名として残っている大坂の鴻池(こうのいけ)新田などがあります。
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肥料はそれまでの刈敷(かりしき)や下肥(しもごえ)のほかに、イワシを干して乾燥させた干鰯(ほしか)や、アブラナなどの農作物から油を搾(しぼ)り取った残渣(ざんさ、残りかすのこと)である油粕(あぶらかす)などが用いられ、これらの新しい肥料は農家がお金を出して購入したことから「金肥(きんぴ)」と呼ばれました。
この時代には農学も発達して、17世紀末に著(あらわ)された宮崎安貞(みやざきやすさだ)の「農業全書」など農書(のうしょ)が広く読まれました。
作物としては、米などの他に全国各地で「商品作物」が盛んに栽培(さいばい)され、農民の重要な副収入となりました。桑(くわ)・漆(うるし)・茶・楮(こうぞ)の「四木(しぼく)」や、麻(あさ)・藍(あい)・紅花(べにばな)の「三草(さんそう)」が代表的な商品作物です。
この他、それまでは輸入に頼っていた木綿(もめん)が国内で栽培されるようになったり、養蚕業(ようさんぎょう)が広がって生糸(きいと)の生産が盛んとなったりしました。特に生糸は幕末における重要な輸出品となるまでに発達しました。
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江戸時代の初期から土佐(とさ)や紀伊(きい)を中心に網(あみ)や銛(もり)を使用した捕鯨(ほげい)が行われ、捕れたクジラからつくられた鯨油(げいゆ)は灯油のほか害虫の駆除(くじょ)に使用されました。また中期以降には土佐で鰹漁(かつおりょう)が発達しました。
蝦夷地では昆布の漁獲量が増加したほか、イリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)・ホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)・フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)を俵につめた俵物(たわらもの)が生産されました。俵物は清国の高級料理に使用され、宮廷の宴席(えんせき)に出されたため、17世紀末以降の長崎貿易において清国への主要な輸出品となりました。
製塩業では播磨(はりま)の赤穂(あこう)などの瀬戸内地方を中心に、高度な土木技術を必要とする入浜塩田(いりはまえんでん)が発達し、生産量が増大しました。
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鉱山業では、江戸時代初期には佐渡(さど)金山や生野(いくの)銀山・石見(いわみ)銀山などからの金銀の生産が最盛期を迎えましたが、17世紀後半になると産出量が激減し、やがて銅が採掘(さいくつ)の中心となりました。
銅は幕府が管轄する足尾(あしお)銅山や、大坂の町人である泉屋(いずみや)が経営した別子(べっし)銅山などで採掘され、長崎貿易における輸出品や、急増する貨幣の鋳造(ちゅうぞう)に用いられました。なお、泉屋は現代の住友(すみとも)につながっています。
この他、砂鉄(さてつ)を採集して足踏(あしぶ)み式の送風装置(そうち)を持つ炉(ろ)を使用した「たたら製鉄」が中国地方や東北地方を中心に行われ、生産された玉鋼(たまはがね)は商品として全国に普及し、農具や工具に加工されました。
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和紙の生産も、楮(こうぞ)を主原料とした流漉(ながしすき)の技術が普及したことで全国に拡大し、紙が安価で大量に入手できるようになったことで、学問や文化の発達に貢献しました。また紙の生産地の多くは藩の専売制となり、財政を助けました。
陶磁器では、肥前有田で有田焼と呼ばれた磁器が佐賀藩の保護のもとで生産され、長崎貿易における輸出品になったほか、尾張の瀬戸(せと)や美濃(みの)の多治見(たじみ)などでも生産されたことで、安価な陶磁器が量産されるようになりました。
醸造業(じょうぞうぎょう)では伏見(ふしみ)・灘(なだ)の酒や野田(のだ)・銚子(ちょうし)の醤油(しょうゆ)が有名となり、この他にも全国各地で作られた商品は、それぞれの地域に由来した特産品として重宝(ちょうほう)されました。
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