これらに対し、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)が明治18(1885)年に「小説神髄(しょうせつしんずい)」を発表して、それまでの勧善懲悪(かんぜんちょうあく)主義を批判したほか、人情や世相をありのままに描いた写実主義を唱えました。
その後、二葉亭四迷(ふたばていしめい)がそれまでの文語体から口語体で文章表現を行った言文一致体(げんぶんいっちたい)で「浮雲(うきぐも)」を発表して知識人の内面を描き、坪内逍遥の提唱した写実主義に相応(ふさわ)しい文学作品となりました。
なお、坪内逍遥の他の有名な作品としては「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」があり、また二葉亭四迷はロシア文学の翻訳(ほんやく)も行っており、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」が有名です。
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硯友社を結成した作家とその作品では、尾崎紅葉(おざきこうよう)の「金色夜叉(こんじきやしゃ)」や、山田美妙(やまだびみょう)の「夏木立(なつこだち)」などが有名です。
その後、尾崎紅葉の弟子である泉鏡花(いずみきょうか)が「高野聖(こうやひじり)」などを発表し、幻想的な独特の世界を華麗な文体で表現しました。
また、幸田露伴(こうだろはん)は「五重塔(ごじゅうのとう)」などの作品で理想主義的な作風を打ち立てました。なお、尾崎紅葉と幸田露伴の二人が主導的立場にあった明治20年代の近代文学史上の一時期を、今日では「紅露(こうろ)時代」といいます。
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また、北村透谷(きたむらとうこく)が雑誌「文学界」を創刊したほか、我が国の現在の五千円札の肖像画で有名な女流作家の樋口一葉(ひぐちいちよう)が「たけくらべ」や「にごりえ」を発表し、下町に住む女性の悲哀を描きました。
詩の分野では、従来の漢詩にかわって七五調などの文語定型詩である新体詩(しんたいし)が現れ、島崎藤村(しまざきとうそん)が「若菜集(わかなしゅう)」を刊行しました。
短歌の世界では、与謝野鉄幹(よさのてっかん)・晶子(あきこ)夫妻らが雑誌「明星(みょうじょう)」を創刊し、明星派の短歌がロマン主義の中心となったほか、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」が、女性の奔放(ほんぽう)な情熱をうたったものとして有名になりました。
万葉調の和歌の復興を目指した正岡子規(まさおかしき)は、一方で俳句の雑誌「ホトトギス」を創刊し、その門下からは高浜虚子(たかはまきょし)が出ました。また、短歌における門下からは伊藤左千夫(いとうさちお)が出て、明治41(1908)年に雑誌「アララギ」を創刊しました。
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当時の自然主義の作家としては、「牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)」の国木田独歩(くにきだどっぽ)・「蒲団(ふとん)」の田山花袋(たやまかたい)・「破戒(はかい)」の島崎藤村・「黴(かび)」の徳田秋声(とくだしゅうせい)などが挙げられます。
また、明星派の影響を受けていた石川啄木(いしかわたくぼく)が「一握(いちあく)の砂」を発表して、社会主義思想を盛り込んだ生活詩をうたいあげました。
一方、こうした自然主義の流れに対立するかたちで、夏目漱石(なつめそうせき)が「吾輩(わがはい)は猫である」などの作品を発表して、知識人の内面を国家や社会との関係で表現したほか、森鴎外が反自然主義的な思想小説を次々と発表しました。
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一方、哲学のアメリカ人教師として来日した「お雇い外国人」のフェノロサは、我が国の伝統芸術を高く評価してその保存を訴え、助手の岡倉天心(おかくらてんしん)とともに、明治20(1887)年に開設された東京美術学校の設立に尽力しました。
このように、政府と民間とが一体となって伝統芸術を支えたことにより、狩野芳崖(かのうほうがい)の「悲母観音(ひぼかんのん)」や橋本雅邦(はしもとがほう)の「竜虎図(りゅうこず)」などの優れた日本画が描かれたほか、明治31(1898)年には日本美術院が設立されました。
日本美術の再評価の気運が高まったことで、政府は明治30(1897)年に古社寺(こしゃじ)保存法を制定し、いわゆる国宝の指定や保護に関する法的な根拠が定められました。なお、東京美術学校は、現在の東京芸術大学の前身にあたります。
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その後、明治29(1896)年に東京美術学校に洋画科が新設されたほか、同年にはフランス印象派の画風を学んだ「読書」や「湖畔(こはん)」で有名な黒田清輝(くろだせいき)が白馬会(はくばかい)を創立しました。
彫刻では、フランスのロダンに学んだ荻原守衛(おぎわらもりえ)が「女(おんな)」などの西洋風の彫塑(ちょうそ)を発達させた一方で、高村光雲(たかむらこううん)は「老猿(ろうえん)」などの伝統的な木彫(もくちょう)による作品を残しました。また、建築では優れた洋風建築が建てられましたが、なかでもイギリス人コンドルの「ニコライ堂」や、辰野金吾(たつのきんご)による「日本銀行本店」が有名です。
以上のように、明治期には伝統美術と西洋美術とがそれぞれ発展しましたが、両者の共栄共存を考えた文部省は、第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の文部大臣であった牧野伸顕(まきののぶあき)の尽力もあって、明治40(1907)年に文部省美術展覧会(=文展)を設けました。
なお、文展はその後大正8(1919)年には帝国美術院展覧会(=帝展)へと引き継がれ、現在の日本美術展覧会(=日展)につながっています。
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