しかし、大逆罪はそもそも日本の皇族を想定してつくられており、同じ皇族といえども外国人にまで適用させるのは無理がありました。また、戒厳令のような非常の手段で死刑にしたとしても「法に規定が存在しないのに無理やり死刑にした」ことに変わりはなく、近代的な法治国家をめざす我が国がとるべき手段ではありませんでした。
加えて、いくら国際問題に発展しかねないからといえ、政府が裁判所に刑罰を強要するという行為は、司法権の独立を揺るがす大問題であり、近代国家として許されるものでないことは明らかでした。
結局、当時の大審院長(だいしんいんちょう、現在の最高裁判所長官)であった児島惟謙(こじまいけん、または「こじまこれかた」)は政府の要求をはねつけ、犯人の津田に刑法の規定どおり無期徒刑の判決を下しました。
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明治初年の岩倉使節団による条約改正交渉の失敗の後、外務卿(がいむきょう)の寺島宗則(てらしまむねのり)は、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復の両方を一度に実現するのは困難と判断し、政府の財源を確保することを優先して、明治9(1876)年に関税自主権の回復に向けての交渉を開始しました。
寺島はアメリカとの間で関税自主権回復の同意を得ることができましたが、当時アジアに対して大きな利権を持っていたイギリスやドイツが反対したことで、交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げてしまいました。
また、寺島が条約改正の交渉をしていた頃の明治10(1877)年に、イギリス商人のハートレーが我が国にアヘンを密輸入して捕まりながら、イギリス人の裁判によって無罪となったという「ハートレー事件」が起きました。
さらに明治12(1879)年には、西日本を中心にコレラが流行した際に、神戸に停泊していたドイツ船のヘスペリア号が、我が国からの検疫(けんえき)命令を無視して横浜入港を強行したことで、結果として関東地方でもコレラによる被害が拡大し、全国で10万人を超える多数の死者を出してしまったという「ヘスペリア号事件」が起きました。
こうした流れを受けて、寺島は外務卿を辞任し、条約改正に向けての交渉も失敗に終わりました。そして、ハートレー事件やヘスペリア号事件のような出来事を繰(く)り返させないためにも、政府は領事裁判権の撤廃を優先して交渉を続けることになりました。
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井上は、条約改正を有利に進めるためには、欧米列強の制度や風俗、あるいは習慣や生活様式などを我が国でも積極的に導入すべきであると考え、明治16(1883)年に洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)を東京・日比谷に建設して、国際的な社交場としました。
鹿鳴館では連日のように舞踏会が行われ、我が国の要人も、夫人に洋装させてダンスを踊り続けました。井上によるこれらの手法は「欧化政策」(または「欧化主義」)と呼ばれていますが、条約改正のためには格式にこだわってはいられないという、明治の要人たちの必死の思いと気概を感じさせるエピソードでもあります。
こうした努力が実ったのか、明治20(1887)年には、外国人の内地雑居(ないちざっきょ、外国人に我が国への自由な居住を認めること)を認める代わりに、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を盛り込んだ改正案を列強が了承しました。
しかし、領事裁判権の撤廃には「ある条件」があり、またその条件と深くかかわった「ある事件」が起きていたことによって、井上は政府の内外で大きな非難を受けてしまったのです。
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我が国において外国人を被告とする裁判に対して、半数以上の外国人の判事(=裁判官)を採用するという条件が付いていたのです。もしこれが実現した場合には、仮に領事裁判権が撤廃されたとしても、過半数の外国人判事が存在することで、我が国で罪を犯した外国人に有利な判決が出る可能性が高いことは明白でした。
井上の改正案は政府内からも批判が多く、我が国のフランス人顧問(こもん)で法学者のボアソナードが反対したほか、農商務大臣の谷干城(たにたてき)が抗議の辞任をしました。
やがて改正案の内容が一般の国民の知るところとなると、井上によるそれまでの極端な欧化政策に反発していた民衆が、前年に起きていた「ある事件」に対する不満もあって激高し、収拾がつかなくなってしまいました。
では、その「ある事件」とは何だったのでしょうか。
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船長は神戸の領事裁判所で裁判を受けましたが、同じイギリス人の判事は無罪の判決を言い渡しました。多くの日本国民はこの判決に激怒し、政府も船長を殺人罪で告訴して横浜領事裁判所で再び裁判が行われましたが、船長に下された判決はわずかに禁錮(きんこ、監獄に閉じ込める刑罰のこと)3か月であり、被害者への賠償は一切行われませんでした。
我が国で罪を犯した外国人に対して、同じ外国人が裁判権を握っている以上、正当な裁判が行われることが不可能であることを嫌というほど思い知らされた国民の間から、領事裁判権の撤廃を求める声が日増しに高くなっていきましたが、そんな折に外国人判事を認める井上の改正案が発覚したものですから、国民の怒りが頂点に達してしまったのです。
結局、井上の改正案は見送られ、条約改正の交渉を中止するとともに、井上は混乱の責任を取って外務大臣を辞任しました。
なお、井上による一連の条約改正交渉に失望した民権派によって「三大事件建白運動」が始まり、自由民権運動が再び活発化しました。また、同じ紀州沖でこれより4年後の明治23(1890)年に再び起きた不幸な遭難(そうなん)事故(=エルトゥールル号事件)が、我が国とトルコとの厚い友情のきっかけとなりました。
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しかし、条約改正案の内容がイギリスの新聞であるロンドン・タイムズにすっぱ抜かれると、井上と同じように政府の内外で強い反対論が起きました。
なぜなら、大隈の改正案には「大審院(だいしんいん、現在の最高裁判所)に限って外国人判事を任用する」と書かれていたからです。いくら大審院に限定であっても、下級裁判所で外国人が判決を不服として上訴すれば、最後には大審院で裁かれることになり、井上案と同じ結果になるのは目に見えていました。
大隈の改正案を受けいれるかどうか政府内で様々な議論が続けられましたが、そんな折の明治22(1889)年10月18日、大隈が閣議からの帰途(きと)で馬車に乗っていた際に、政治団体の玄洋社(げんようしゃ)の来島恒喜(くるしまつねき)が、大隈めがけて爆弾を投げつけました。
爆弾によって大隈が右足を切断するという重傷を負うと、これを機に条約改正の交渉は再び中断し、大隈も外務大臣を辞職しました。なお、大隈を傷つけた来島は、爆弾の炸裂(さくれつ)と同時に自決しています。
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ロシアがシベリア鉄道を計画し、1891(明治24)年までに建設を始めると、ロシアの東アジアへの本格的な進出に対して、利害関係にあるイギリスが危機感を持ち始めました。
東アジアにおける権益を守るためには、日本が持つ軍事力を利用したほうが、自国に都合が良いと判断したイギリスは、それまで条約改正交渉において対立関係にあった我が国に対して好意的になり、またこの頃までに大日本帝国憲法(=明治憲法)その他の諸法典が我が国で相次いで成立したこともあって、条約改正に応じる態度を見せるようになりました。
イギリスの軟化を受けて、外務大臣の青木周蔵(あおきしゅうぞう)が条約改正の交渉を進め、領事裁判権の撤廃を含めた我が国の改正案に、イギリスが同意するまでこぎつけました。
ところが、そのような大事な時期に、我が国の今後を揺(ゆ)るがしかねない大事件が起きてしまったのです。
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そんな折の5月11日、琵琶湖を観光したニコライを乗せた人力車に対して、滋賀の大津で警備を担当していた巡査の津田三蔵(つださんぞう)が、突然ニコライに襲いかかりました。これを「大津事件」といいます。
ニコライは負傷したものの、生命に別条はありませんでしたが、大国ロシアの皇太子がよりによって警備中の巡査に襲われるという想定外の出来事に、国内は大パニックになりました。何しろ相手は大国ロシアであり、これを口実に攻めてこられれば、我が国は滅亡するしか道はありません。
事の重大さに対し、明治天皇は直ちに列車で京都へ向かわれ、療養中のニコライをお見舞いされました。また、国民の中には「ロシアの皇太子様に申し訳ない」と京都府庁前で自害する女性まで現われました。
政府首脳も当然のように大混乱となり、ロシアの機嫌を損ねないためにも、犯人の津田を死刑に処すべきであるという意見でほぼ一致しましたが、それはできない相談でした。なぜなら、津田の犯した罪は「謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)」であり、当時の最高刑は無期徒刑(むきとけい、現在の無期懲役=むきちょうえき)だったからです。
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当事者のロシアも、判決当初は「いかなる事態になるか分からない」と不服であったものの、明治天皇をはじめとする我が国側からの迅速(じんそく)な謝罪があったことや、イギリスやアメリカなどが上記の理由で我が国を高く評価したこともあって、賠償請求などの報復を一切行いませんでした。
大津事件は我が国にとって滅亡の危機をもたらしかねない大事件でしたが、事後の処置を誤らなかったことで、結果として我が国の国際的な地位を高めるとともに、その後の条約改正にも有利に働くことになったのです。
ただし、青木周蔵はロシアの在日公使に対して津田の死刑を密約しており、事件の責任を取って外務大臣を辞職したため、条約改正の交渉はまたしても延期となり、青木の後を継いだ榎本武揚(えのもとたけあき)も、具体的な交渉ができないまま外務大臣を辞任しています。
なお、司法権の独立を守った児島惟謙ですが、大津事件より前の明治19(1886)年に大阪で開校した関西法律学校(現在の関西大学)の創設者の一人としても知られています。
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約1年かけたイギリスとの交渉が実って、明治27(1894)年7月16日に両国は日英通商航海条約を結び、領事裁判権の撤廃や、最恵国待遇の相互平等および関税自主権の一部回復などに成功しました。
イギリスとの成功を受けて、陸奥は他の欧米列強とも同様の内容の条約を結び、それらはすべて明治32(1899)年に同時に施行(しこう)されました。そして、最後まで残った関税自主権の完全回復も、先の条約が期限を迎えた明治44(1911)年に、当時の外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)によって達成されました。
かくして、我が国は安政の五か国条約を結ばされてから半世紀以上もの時間をかけて、ようやく欧米列強から、条約上において対等な国家として承認を受けることができたのです。
その背景には、憲法など諸法典を整備するとともに、日清戦争や日露戦争に勝利して、我が国が世界に誇れる一等国として君臨するまでに成長したという大きな歴史の流れがありました。
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