肥前(佐賀)藩出身で、参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などをめざしていました。
しかし、大隈の動きは、従来の漸進主義(ぜんしんしゅぎ、「漸進」とはじっくり時間をかけること)の立場を守り、議会政治の実現に時間をかけて取り組もうと考えていた、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)や参議の伊藤博文(いとうひろぶみ)らとは相反するものであり、やがて両派は政府内で激しく対立しました。
そんな中、たまたま政府内で発覚した一つの事件をきっかけとして、我が国は国会開設に向けて大きく前進することになったのです。
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黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に、安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が新聞にすっぱ抜かれると、政府に対する非難の声が民間から一斉に挙がりました。これを「開拓使官有物払下げ事件」といいます。
事件に乗じて、民権派は藩閥政府への攻撃と国会開設の早期実現を声高(こわだか)に主張しましたが、政府は民権派によるこうした水際(みずぎわ)立った動きの裏には「何かがある」と察知しました。
やがて、民権派の背後に、急進的な議会政治の実現を目指していた大隈重信の策謀(さくぼう)があると判断した政府は、同年10月に大隈を罷免(ひめん)するとともに、民権派の動きを抑える意味も込めて「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」を発表し、約10年後の明治23(1890)年に国会を開設することを公約しました。
勅諭とは「天皇のお言葉」を意味しますから、後に引けない覚悟を示すとともに、天皇の権威で民権派を納得させようとする政府の姿勢がうかがえますね。なお、この年の政治に対する一連の動きは「明治十四年の政変」と呼ばれています。
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しかし、西南の役(えき)が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して、国会を開設することを公約するなど、憲法制定や議会政治の実現に向けて着実に前進していることが分かります。
さらには、後に明治22(1889)年に大日本帝国憲法(=明治憲法)が発布され、翌明治23(1890)年には第一回の「帝国議会」が開催されているのですから、明治政府の計画力や実行力の高さには驚くばかりです。こうした事実からすれば、明治政府が「自由民権運動に押されて仕方なく憲法制定や議会政治を目指した」わけではなかったのは、明らかではないでしょうか。
またこの頃には、政府側からの府県会だけでなく、民権派から国会期成同盟が結成されるなど、議会政治の実現に不可欠な国民の力量も確実に上がっており、こうした流れがあったからこそ、明治23(1890)年の帝国議会の開催にこぎつけることができた、ともいえるのです。
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もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と、自由民権運動が目指す「下からの改革」といった手法の違いは当然のように存在していました。
さらには、列強による植民地化を防ぎながら、あらゆる分野において近代化を進めなければならないという厳しい情勢の中において、政府主体の強い権限で何事も実行しなければならないという信念がありました。
それゆえに、急進的に近代化を進めようとする自由民権運動としばしば対立関係になったことから、反体制運動に対する政府の厳しい取り締まりも当然であったともいえるのです。
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国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助(いたがきたいすけ)が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には、大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。
両党は、自由党がフランス流の急進的な自由主義を目標として士族や豪農などの支持を得たのに対し、立憲改進党はイギリス流の議院内閣制を目指して、都市部の知識人や実業家の支持を集めるという違いがありました。
また、政府が国会開設の勅諭を出した際に、立憲政治の実現に向けて天皇が定める欽定(きんてい)憲法を制定する基本方針を明らかにしたことに対して、民間においても様々な「私擬(しぎ)憲法」がつくられました。福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)による「私擬憲法案」や、植木枝盛(うえきえもり)による「東洋大日本国国憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん)」などが有名です。
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こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。
挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「あの戦争」だったのです。
なお、民間における政党の結成を受けて、政府側においても、明治15(1882)年に福地源一郎(ふくちげんいちろう)らによって「立憲帝政党(りっけんていせいとう)」がつくられましたが、民権派に対抗できるだけの勢力になりえぬまま、翌明治16(1883)年に解党しています。
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