その後、我が国で鎌倉幕府が成立して間もない13世紀始め頃、大陸で金の支配下にあったモンゴル高原にテムジンがあらわれると、モンゴルは「チンギス=ハーン」と称したテムジンによって統一されました。チンギス=ハーンはその後も征服を続け、中央アジアから南ロシアに至る広大な地域を領有しました。
チンギス=ハーンの後継者であるオゴダイ=ハーンは遠くヨーロッパまで征服するとともに、1234年には金を滅ぼし、アジアから東ヨーロッパにまたがる大帝国を建設しました。チンギス=ハーンの孫のフビライ=ハーンは、チャイナを支配するために都を大都(だいと、現在の北京)に定めて国号を元と改め、朝鮮半島の高麗(こうらい)を服属させました。
要するに、中国大陸に広大な領土を持つ帝国が現れ、かつ朝鮮半島がその支配下に置かれたことによって、周りを海で囲まれた我が国といえども、他国からの侵略にさらされる危険性が高まったのです。そして、文永(ぶんえい)5(1268)年旧暦1月には、高麗の使者がフビライの国書をもたらし、我が国に対して武力を背景に服属を要求してきました。つまり「日本よ、自分の家来になれ!」と命令したわけです。
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鎌倉幕府は、そもそも武力によって他の勢力を自分の支配下に置くことで成立していました。そんな幕府が、いかに強敵だからといって元に服属してその軍門に下ったとすれば、幕府以外の組織や武士団にはどのように映るでしょうか。
「鎌倉幕府は敵に対して尻尾(しっぽ)を巻いて逃げた」ということになり、幕府のメンツが丸潰れになるどころか、権威が失墜(しっつい)して以後の支配に悪影響を及ぼすことは間違いありません。さらに付け加えれば、そもそも幕府の「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」が外国に服属することを選択すれば、その瞬間に将軍の権威は消失してしまうのです。
当時の鎌倉幕府の執権は、同年旧暦3月に就任したばかりの北条時宗(ほうじょうときむね)でした。このとき時宗はまだ18歳という若さでしたが、幕府の重臣たちと協議を重ねた末、国書に対する返書を黙殺するとともに、元の来襲を予想して、九州の御家人に異国警固番役(いこくけいごばんやく)を課し、沿岸の警備を強化しました。
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この他にも、いわゆる「てつはう」と呼ばれた爆発物に馬も武士も大いに戸惑うなど、元軍流の戦闘に不慣れな幕府軍は苦戦を強いられましたが、亡国の危機に際して、懸命に戦い続けた幕府軍の武力は決して元軍に引けを取らず、逆に彼らを追いつめることになるのです。
それまで圧倒的な武力で他国を屈服させ続けてきた元軍でしたが、幕府軍による彼らがこれまでに受けたことがないような激しい抵抗は、元軍に大きな被害をもたらすとともに、彼らを恐怖に陥(おとしい)れました。
やがて元軍は沖合に船を避難させると、何とそのまま高麗まで退却してしまったのです。この戦いは、当時の年号から「文永の役(えき)」と呼ばれています。
なお、これまでの通説では、季節外れの暴風が吹き荒れたことで元軍が退却したとされてきましたが、実際には、意外な抵抗を受けて怖くなった元軍や高麗軍が逃げ帰ったというのが真相であり、日本側の記録にも「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と残されています。
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元との再戦を決意した北条時宗は、異国警固番役を強化するとともに、全国の御家人に命じて博多湾沿いに石造の防塁である石塁を築き、元の再来襲に備えました。
我が国の強硬な姿勢に対して、再び日本を攻める決断をしたフビライは、1279年に南宋を滅ぼすと、返す刀で弘安(こうあん)4(1281)年の旧暦5月から6月にかけて、兵数約14万人という前回の4倍以上の兵を、二手に分けて再び博多湾に差し向けました。
軍船約4,000隻(せき)の大船軍団が博多湾を覆(おお)い尽くすかのように来襲し、それこそ黒雲のような矢の雨を降らせてきましたが、防備力の高い石塁が存在していたことや、文永の役を経て相手の戦法を理解していた幕府軍が冷静に戦ったこともあって、元軍はなかなか上陸ができませんでした。
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一方の幕府軍も、夜になって周囲が真っ暗になると、夜陰にまぎれて敵船に乗りこんで火をつけ、あわてた敵兵を討ち取るといったゲリラ戦を敢行するなど健闘を重ね、戦いは膠着(こうちゃく)状態となりました。
そして旧暦7月30日(現在の暦で8月15日)、北九州方面を襲った大暴風雨によって、元軍の乗っていた軍船がことごとく破壊され、多くの兵が亡くなりました。戦意を喪失した元軍は高麗へと引き上げ、国内に残った兵も幕府軍の掃討戦によって討ち取られました。
元軍との二度目のこの戦いは、当時の年号から「弘安の役」といい、文永の役とともに「元寇(げんこう)」と呼ばれています。
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まず元軍といっても、その大半が征服した異民族の連合軍であり、各人の戦意が乏(とぼ)しいのみならず、意志の疎通が十分に行われなかったという一面がありました。また、突貫工事で高麗に造らせた船は決して丈夫ではなく、しばしば転覆(てんぷく)の憂き目にあったほか、弘安の役の際の大暴風雨で、多くの軍船が破壊されるとともに、数えきれないほどの兵の生命を奪ったとされています。
また、大陸を縦横無尽に駆け回る陸戦と違って、元軍にとっては不慣れな海戦であったことや、我が国の風土に合わない兵士が次々と疫病(えきびょう)で倒れるという不利もありました。
さらに何よりも元軍を悩ませたのは、それまでに他国を征服した際に大いに利用してきた騎馬軍団が、元寇の際には全くといっていいほど使えなかったことでした。
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一方、元の来襲という国難に際して、特に弘安の役の折に暴風雨が発生したことで「我が国は神風に守られている」とする神国思想がこの後に主流となっていきました。この思想は、やがて我が国に対して大きな影響をもたらすことになります。
さて、あきらめきれないフビライは、我が国に対して三度目の来襲を計画しましたが、諸般の事情で中止となり、元はその後二度と我が国を攻めることができませんでした。一方、我が国は九州沿岸の警戒体制をゆるめず、元寇を機会に幕府の影響力を西国にも広めました。永仁(えいにん)元(1293)年には「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」を設けて、北条氏一門を派遣して九州の御家人を統括(とうかつ、別々になっているものを一つにまとめること)しました。
また、幕府は、それまでは支配の外にあった国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)や荘園の非御家人の武士を動員できる権利を朝廷から与えられるなど、元寇は結果として幕府の支配を強化するという効果も生み出しました。
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元寇の後、北条時宗が弘安7(1284)年に34歳の若さで亡くなると、時宗の子の北条貞時(ほうじょうさだとき)が13歳で9代執権となりましたが、御内人の代表である内管領(うちかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)が、弘安8(1285)年に貞時の外祖父(がいそふ、母方の父のこと)である有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼしました。
この事件は、旧暦11月の霜月(しもつき)に起きたことから「霜月騒動」と呼ばれています。騒動の後は平頼綱が政治の実権を握りましたが、成長した貞時によって正応(しょうおう)6(1293)年に頼綱が滅ぼされると、以後は得宗が絶対的な権力を手に入れるようになり、御内人や北条氏一門が幕政を独占する得宗専制政治がますます強まっていきました。
このように幕府内の権力争いが激しくなる一方で、一般御家人の生活状況は元寇をきっかけにより一層悪化しました。なぜ元寇が御家人の生活の足を引っ張ることになってしまったのでしょうか。
その原因は、鎌倉幕府を支えていた「御恩と奉公」のシステムの崩壊(ほうかい)にありました。
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しかし、分割相続による所領の細分化が、やがて御家人たちに深刻な影響を及ぼすようになりました。なぜなら、細分化によって農業収入は必然的に減少するのに対して、幕府からの様々な命令には「御恩」がある以上、これまでどおり従わなければならないからです。
幕府への義務を果たす「奉公」は出費がかさむため、やがて御家人の多くが借上(かしあげ)や土倉(どそう)といった業者から借金をし始めましたが、借金を返済できなくなった御家人の中には、担保として自らの所領を奪われてしまう者も現われるようになりました。そして、元寇による負担がこうした流れに拍車をかけてしまったのです。
通常の場合、御家人は負担した軍役(ぐんえき)の結果、滅亡した相手方の所領から褒美(ほうび)がもらえることで、それなりの収入を得ることができました。しかし、海を渡ってやって来た元軍が日本国内の所領を持っているわけがありません。従って、九州まで自己負担で遠征して命がけで戦ったにもかかわらず、褒美でもらえる所領がないという、御家人たちにとっては極めて深刻な事態となってしまいました。
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それまでの借金がなくなったり、所領が元に戻ったりしたことで、御家人たちはようやく一息つくことができましたが、皮肉なことに、この徳政令が御家人たちをますます追い込んでいくことになりました。なぜそうなったでしょうか。
借上や土倉たちの立場で考えてみましょう。彼らは御家人たちから利息を集めることや、借金が払えなければ土地を取り上げて、それを基本にさらに商売を拡大することで生計を立てています。
それなのに、徳政令が出されたことによって、借金を返してもらえないうえに、正当な取引によって所有した土地を強制的に奪われるはという散々な目にあいました。
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しかし、幕府によって一度痛い目にあっている借上や土倉たちは、余程(よほど)のことがない限り今までどおりにお金を貸してはくれません。永仁の徳政令は、結果として御家人たちの経済活動をかえって阻害(そがい)するという結果をもたらしてしまったのでした。
なお、御家人の窮乏化(きゅうぼうか)の原因に分割相続があったことで、鎌倉時代の後期までには惣領が所領のすべてを相続するという「単独相続」が一般的になり、庶子は惣領によって扶養(ふよう、養ってもらうこと)されるようになりました。
また、畿内やその周辺を中心として、武力に訴えて年貢の納入を拒否するなど、荘園領主や幕府に対抗する武士団が多く見られるようになりました。彼らは「悪党」と呼ばれ、その勢力はやがて各地に拡大して、得宗専制政治を強化した幕府を次第に悩ませるようになりました。
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