また、自分の没後も源氏が将軍として政治を行うための「後ろ盾(だて)」が欲しいとも考えていました。政権を握るまでは夢中で走ってきた頼朝もやはり人の親であり、また自己の家系の繁栄(はんえい)を望んでいたのです。
建久6(1195)年、頼朝は東大寺の再建供養に出席した際に京へ向かい、娘を後鳥羽(ごとば)天皇の妃(きさき)にしようとしました。頼朝にしてみれば、自分が朝廷の縁続きとなることで後ろめたさを解消するとともに、もし娘に皇子が生まれて、将来天皇に即位することがあれば、源氏政権の強力な後ろ盾になると考えたのですが、これは絶対にやってはいけない「禁じ手」でした。
「自分の娘を天皇の妃として、生まれた皇子が天皇に即位して自分は外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となる」。この流れはかつての平氏政権と全く同じであり、源氏が貴族化すると同時に、せっかく武士が手に入れた政治の実権を再び朝廷に奪われる道を拓(ひら)くと思われても仕方がありません。
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その後の頼朝は、落馬事故が原因で建久10(1199)年旧暦1月に死亡したことになっていますが、いかに戦争が不得意であったとはいえ、武家の棟梁(とうりょう)が生命に関わる落馬事故を起こすとは思えません。史料にも頼朝の死の前後の記載があやふやになっているなど、詳しい死因は現在も分かっていません。
ただ、はっきり言えることは、頼朝の死後に源氏の運命が一気に暗転したということです。平氏の滅亡後に源義経(みなもとのよしつね)が歴史の表舞台から退場したように、征夷大将軍となって幕府を開いた段階で、頼朝並びに源氏の役割は終わりを告げていたのでした。
頼朝の死後、子の源頼家(みなもとのよりいえ)が後を継いで2代将軍となりましたが、父並みの器量は望むべくもなく、いつしか幕府では、頼朝の側近や有力御家人からなる13人の合議制による政治が主流となりました。その中からやがて頭角を現したのが、頼朝の舅(しゅうと、妻の父のこと)である北条時政(ほうじょうときまさ)や、頼朝の妻の北条政子(ほうじょうまさこ)を中心とする北条氏でした。
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北条時政は頼家の弟である源実朝(みなとものさねとも)を3代将軍に就任させると、自分は政所(まんどころ、一般政務や財政事務を行う職制のこと)の別当となりました。さらに、後に時政の後を継いだ子の北条義時(ほうじょうよしとき)は、建暦(けんりゃく)3(1213)年に侍所(さむらいどころ、軍事や警察組織をつかさどる職制のこと)の別当だった和田義盛(わだよしもり)を滅ぼし、自身が侍所の別当も兼ねることになりました。
これ以降、幕府の主要機関である侍所と政所の別当を北条氏が代々世襲(せしゅう、子孫が代々受け継いでいくこと)するようになり、その地位は「執権(しっけん)」と呼ばれ、名ばかりの将軍と化した源氏に代わって、北条氏が幕府の実権を握るようになりました。
一方その頃、幕府の成立と勢力の拡大という厳しい現実を見せ付けられていた京都の朝廷では「治天(ちてん)の君(きみ)」の後鳥羽上皇が中心となられて政治の立て直しが行われていました。上皇は分散していた広大な皇室領の荘園を手中におさめられるとともに、朝廷の武力増強の一環として新たに「西面の武士」を置かれるなど、朝廷の権威の回復を目指されました。
なお「西面の武士」は、9世紀末に設けられた「滝口(たきぐち)の武士」や、11世紀の「北面の武士」と非常に間違えやすいので注意が必要です。
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しかし、建保(けんぽう)7(1219)年旧暦1月に、実朝は鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で、頼家の遺児であった僧の公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいました。この直後に公暁も殺されたことによって、頼朝以来の源氏の血はついに絶えてしまったのです。
ちなみに実朝を暗殺したとされる公暁ですが、暗殺の現場で「我こそは公暁なり」と叫んだという記録が残っているだけで、その後にすぐ討ち取られていることから、本物の公暁だったかどうかという確証がありません。実朝の暗殺で、いったい誰が一番得をしたことになるのでしょうか。
さて、源氏の血統が途絶えたとはいえ、将軍が空位のままではさすがにまずいので、北条氏は京都から皇族を将軍に迎えようとして朝廷と交渉しました。しかし、実朝の暗殺でご自身のお考えが果たされなくなった後鳥羽上皇は許可されることなく、代わりに頼朝の遠縁(とおえん)にあたる、わずか2歳の藤原頼経(ふじわらのよりつね)を将軍の後継として迎えました。なお、こうした藤原氏からの将軍のことを「摂家(せっけ)将軍」といいます。
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関東の御家人は自身たちが朝敵(ちょうてき、朝廷にそむく敵のこと)となったことで動揺(どうよう)しましたが、ここで一人の女性が一世一代の演説をしたことによって、逆に結束を固めることになりました。
「皆さん、心を一つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。今は亡き頼朝殿から皆さんが受けた恩義は山よりも高く、海よりも深いはずです。今私たちは、不正な命令によって反逆者の汚名を着せられたことで、つぶされようとしています。武士の名誉を重んじるならば、断固として戦うべきです!」。
頼朝の未亡人であり、息子二人を失った後も北条氏を支え続けた「尼(あま)将軍」北条政子の名演説に、頼朝以前の武士の悲惨な待遇を思い出した御家人は、涙ながらに団結して朝廷と戦うことを決意しました。
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乱の後、後鳥羽上皇と子の土御門(つちみかど)上皇並びに順徳(じゅんとく)上皇は、北条氏によってそれぞれ隠岐(おき)、土佐(とさ)、佐渡(さど)へと流されました。上皇(天皇)が武士によって処罰を受けるのは初めてのことであり、朝廷は大きな衝撃(しょうげき)を受けました。また順徳上皇の子で当時4歳の仲恭(ちゅうきょう)天皇がご即位後わずか78日で退位させられ、新たに後堀河(ごほりかわ)天皇が即位されました。
ちなみに、在位期間の短かった仲恭天皇はご即位が認められず、長らく「九条廃帝(くじょうはいてい)」と呼ばれました。仲恭天皇と追号(ついごう)されたのは明治になってからのことです。
また、後堀河天皇はご即位時に10歳と若かったため、父で出家されていた行助法親王(ぎょうじょほうしんのう)が還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)されて上皇となられ、院政を行われましたが、天皇ご即位の経験のない上皇は前代未聞のことでした。なお、上皇は崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)後に後高倉院(ごたかくらいん)と追号されています。
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なお、乱後の地頭は新たな給分(きゅうぶん、給付される領地や米、銭などのこと)を定めた新補率法(しんぽりっぽう)に基づく「新補(しんぽ)地頭」と呼ばれ、従来の地頭は「本補(ほんぽ)地頭」と呼ばれました。これらによって、従来は東国が中心だった幕府の勢力範囲は畿内(きない)や西国にも及び、また幕府が朝廷よりも優位に立つことで、皇位の継承や朝廷の政治にも関わるようになりました。
承久の乱の後、鎌倉幕府は3代執権の北条泰時の時代に発展期を迎えました。泰時は執権の補佐役としての連署(れんしょ)を設置して、北条氏の一族の有力者を任命しました。また、有力な御家人などの11人を評定衆(ひょうじょうしゅう)に選んで、合議制によって政務の処理や裁判にあたらせました。
また、泰時は貞永(じょうえい)元(1232)年に51か条からなる御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定しました。御成敗式目は我が国最初の武家法であり、頼朝以来の先例を基本とした武家の慣習や道理を成文化したものでした。
内容としては、守護や地頭の任務や権限を定めたり、御家人の権利義務や所領の相続の規定、御家人同士や御家人と荘園領主との間の紛争を処理する基準などが定められたりしました。
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なお、御成敗式目は当時の年号にちなんで「貞永式目」とも呼ばれており、また式目が51か条となったのは、聖徳太子(しょうとくたいし)の憲法十七条の3倍が由来とされています。
北条泰時による執権政治は、孫の5代執権である北条時頼(ほうじょうときより)に引き継がれました。時頼が執権に就任した直後の寛元(かんげん)4(1246)年に前将軍の藤原頼経が反乱を起こしましたが、これを鎮圧した時頼は、頼経を京都へ送り返しました。
また、翌宝治(ほうじ)元(1247)年には有力御家人の三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼし、北条氏の勢力の拡大に成功しました。三浦泰村との戦いは、当時の年号から「宝治合戦(かっせん)」と呼ばれています。さらに建長(けんちょう)4(1252)年には5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)を京都へ追放し、代わりに後嵯峨(ごさが)上皇の皇子である宗尊(むねたか)親王を6代将軍として迎えました。これ以降、名目だけの「皇族将軍」が幕府滅亡まで4代続くことになります。
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なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)が置かれましたが、院評定衆は幕府の承認を得て任命されたため、結果的に幕府が朝廷の政治に深く関わるようになりました。
康元(こうげん)元(1256)年、時頼は病気のため30歳で執権の地位を一族の北条長時(ほうじょうながとき)に譲って出家しましたが、政治の実権は握り続けました。
時頼のように北条氏の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である「得宗(とくそう)」が政治を指導することを「得宗専制政治」といい、鎌倉幕府はこの頃に全盛期を迎えました。
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上野国佐野(こうずけのくにさの、現在の群馬県高崎市)に住む貧しい老いた武士である佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めました。僧の話を聞くと、信濃(しなの、現在の長野県)から鎌倉へ向かおうと旅をしてきたのですが、大雪のために先へ進むことができなくなってしまったらしいのです。
しかし、源左衛門は自分が貧しいために、旅人をもてなそうにも何もしてやることはできないと思って、一度はその僧の願いを断りましたが、雪の中で難儀(なんぎ)しているのを見捨てることもできず、結局は泊めることにしました。
源左衛門は旅の僧のために粟飯(あわめし)を出すなどの心ばかりのもてなしをしましたが、夜が更けて寒さが身にしみる頃には、旅の僧に暖をとってもらうための薪(まき)さえなくなってしまいました。そこで源左衛門は、大事に育てていた盆栽(ぼんさい)の「梅」「松」「桜」の鉢の木を惜しげもなく切って、囲炉裏(いろり)にくべました。
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「私は佐野源左衛門常世と申します。かつてはこのあたり一帯を治めておりましたが、一族の者に領地を奪われ、今はご覧のとおりに落ちぶれてしまいました」。
源左衛門の話を聞いていた旅の僧が周囲を見渡すと、立てかけられた大きな薙刀(なぎなた)や、鎧(よろい)が入っていると思われる大きな箱を見つけました。僧の視線に気がついた源左衛門は、力を込めて話を続けました。
「しかしながら、我が身がいかに落ちぶれたとはいえ、この源左衛門は鎌倉殿の御家人。いざ鎌倉に一大事があらば、古ぼけた鎧であってもこれを身につけ、さびたといえどもあの薙刀を持ち、やせ馬にむち打って、誰よりも早く鎌倉に駆け付けて、生命を懸けて戦うつもりでござる!」
源左衛門の見事な覚悟ぶりに、旅の僧は黙って何度もうなずきました。そして翌朝、旅の僧は丁重(ていちょう)にお礼を述べて、源左衛門の家から旅立ちました。
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「源左衛門、よくぞ参った。いつぞやの大雪の日には大変世話になったな」。そう話しかけてきた旅の僧は、実は鎌倉幕府の最高実力者である、前の執権の北条時頼だったのです。
時頼は源左衛門の忠義を称(たた)えるとともに、奪われていた彼の領地を取り戻しただけでなく、梅田(うめだ)・松井田(まついだ)・桜井(さくらい)という鉢の木にちなんだ3か所の領地を新たに与えたということです。
以上の話は時頼よりも後の時代につくられたとされており、創作の可能性が高いですが、たとえ「つくり話」であったとしても、時頼であれば似たような行動をしてもおかしくないと当時の人々に思われ続けたからこそ、長く語り継がれてきたのでしょう。また、鎌倉時代の「御恩(ごおん)と奉公」の仕組みや「一所懸命」の思いなどがよく分かる伝説でもあります。
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その後、我が国で鎌倉幕府が成立して間もない13世紀始め頃、大陸で金の支配下にあったモンゴル高原にテムジンがあらわれると、モンゴルは「チンギス=ハーン」と称したテムジンによって統一されました。チンギス=ハーンはその後も征服を続け、中央アジアから南ロシアに至る広大な地域を領有しました。
チンギス=ハーンの後継者であるオゴダイ=ハーンは遠くヨーロッパまで征服するとともに、1234年には金を滅ぼし、アジアから東ヨーロッパにまたがる大帝国を建設しました。チンギス=ハーンの孫のフビライ=ハーンは、チャイナを支配するために都を大都(だいと、現在の北京)に定めて国号を元と改め、朝鮮半島の高麗(こうらい)を服属させました。
要するに、中国大陸に広大な領土を持つ帝国が現れ、かつ朝鮮半島がその支配下に置かれたことによって、周りを海で囲まれた我が国といえども、他国からの侵略にさらされる危険性が高まったのです。そして、文永(ぶんえい)5(1268)年旧暦1月には、高麗の使者がフビライの国書をもたらし、我が国に対して武力を背景に服属を要求してきました。つまり「日本よ、自分の家来になれ!」と命令したわけです。
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鎌倉幕府は、そもそも武力によって他の勢力を自分の支配下に置くことで成立していました。そんな幕府が、いかに強敵だからといって元に服属してその軍門に下ったとすれば、幕府以外の組織や武士団にはどのように映るでしょうか。
「鎌倉幕府は敵に対して尻尾(しっぽ)を巻いて逃げた」ということになり、幕府のメンツが丸潰れになるどころか、権威が失墜(しっつい)して以後の支配に悪影響を及ぼすことは間違いありません。さらに付け加えれば、そもそも幕府の「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」が外国に服属することを選択すれば、その瞬間に将軍の権威は消失してしまうのです。
当時の鎌倉幕府の執権は、同年旧暦3月に就任したばかりの北条時宗(ほうじょうときむね)でした。このとき時宗はまだ18歳という若さでしたが、幕府の重臣たちと協議を重ねた末、国書に対する返書を黙殺するとともに、元の来襲を予想して、九州の御家人に異国警固番役(いこくけいごばんやく)を課し、沿岸の警備を強化しました。
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この他にも、いわゆる「てつはう」と呼ばれた爆発物に馬も武士も大いに戸惑うなど、元軍流の戦闘に不慣れな幕府軍は苦戦を強いられましたが、亡国の危機に際して、懸命に戦い続けた幕府軍の武力は決して元軍に引けを取らず、逆に彼らを追いつめることになるのです。
それまで圧倒的な武力で他国を屈服させ続けてきた元軍でしたが、幕府軍による彼らがこれまでに受けたことがないような激しい抵抗は、元軍に大きな被害をもたらすとともに、彼らを恐怖に陥(おとしい)れました。
やがて元軍は沖合に船を避難させると、何とそのまま高麗まで退却してしまったのです。この戦いは、当時の年号から「文永の役(えき)」と呼ばれています。
なお、これまでの通説では、季節外れの暴風が吹き荒れたことで元軍が退却したとされてきましたが、実際には、意外な抵抗を受けて怖くなった元軍や高麗軍が逃げ帰ったというのが真相であり、日本側の記録にも「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と残されています。
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元との再戦を決意した北条時宗は、異国警固番役を強化するとともに、全国の御家人に命じて博多湾沿いに石造の防塁である石塁を築き、元の再来襲に備えました。
我が国の強硬な姿勢に対して、再び日本を攻める決断をしたフビライは、1279年に南宋を滅ぼすと、返す刀で弘安(こうあん)4(1281)年の旧暦5月から6月にかけて、兵数約14万人という前回の4倍以上の兵を、二手に分けて再び博多湾に差し向けました。
軍船約4,000隻(せき)の大船軍団が博多湾を覆(おお)い尽くすかのように来襲し、それこそ黒雲のような矢の雨を降らせてきましたが、防備力の高い石塁が存在していたことや、文永の役を経て相手の戦法を理解していた幕府軍が冷静に戦ったこともあって、元軍はなかなか上陸ができませんでした。
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一方の幕府軍も、夜になって周囲が真っ暗になると、夜陰にまぎれて敵船に乗りこんで火をつけ、あわてた敵兵を討ち取るといったゲリラ戦を敢行するなど健闘を重ね、戦いは膠着(こうちゃく)状態となりました。
そして旧暦7月30日(現在の暦で8月15日)、北九州方面を襲った大暴風雨によって、元軍の乗っていた軍船がことごとく破壊され、多くの兵が亡くなりました。戦意を喪失した元軍は高麗へと引き上げ、国内に残った兵も幕府軍の掃討戦によって討ち取られました。
元軍との二度目のこの戦いは、当時の年号から「弘安の役」といい、文永の役とともに「元寇(げんこう)」と呼ばれています。
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まず元軍といっても、その大半が征服した異民族の連合軍であり、各人の戦意が乏(とぼ)しいのみならず、意志の疎通が十分に行われなかったという一面がありました。また、突貫工事で高麗に造らせた船は決して丈夫ではなく、しばしば転覆(てんぷく)の憂き目にあったほか、弘安の役の際の大暴風雨で、多くの軍船が破壊されるとともに、数えきれないほどの兵の生命を奪ったとされています。
また、大陸を縦横無尽に駆け回る陸戦と違って、元軍にとっては不慣れな海戦であったことや、我が国の風土に合わない兵士が次々と疫病(えきびょう)で倒れるという不利もありました。
さらに何よりも元軍を悩ませたのは、それまでに他国を征服した際に大いに利用してきた騎馬軍団が、元寇の際には全くといっていいほど使えなかったことでした。
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一方、元の来襲という国難に際して、特に弘安の役の折に暴風雨が発生したことで「我が国は神風に守られている」とする神国思想がこの後に主流となっていきました。この思想は、やがて我が国に対して大きな影響をもたらすことになります。
さて、あきらめきれないフビライは、我が国に対して三度目の来襲を計画しましたが、諸般の事情で中止となり、元はその後二度と我が国を攻めることができませんでした。一方、我が国は九州沿岸の警戒体制をゆるめず、元寇を機会に幕府の影響力を西国にも広めました。永仁(えいにん)元(1293)年には「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」を設けて、北条氏一門を派遣して九州の御家人を統括(とうかつ、別々になっているものを一つにまとめること)しました。
また、幕府は、それまでは支配の外にあった国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)や荘園の非御家人の武士を動員できる権利を朝廷から与えられるなど、元寇は結果として幕府の支配を強化するという効果も生み出しました。
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元寇の後、北条時宗が弘安7(1284)年に34歳の若さで亡くなると、時宗の子の北条貞時(ほうじょうさだとき)が13歳で9代執権となりましたが、御内人の代表である内管領(うちかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)が、弘安8(1285)年に貞時の外祖父(がいそふ、母方の父のこと)である有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)を滅ぼしました。
この事件は、旧暦11月の霜月(しもつき)に起きたことから「霜月騒動」と呼ばれています。騒動の後は平頼綱が政治の実権を握りましたが、成長した貞時によって正応(しょうおう)6(1293)年に頼綱が滅ぼされると、以後は得宗が絶対的な権力を手に入れるようになり、御内人や北条氏一門が幕政を独占する得宗専制政治がますます強まっていきました。
このように幕府内の権力争いが激しくなる一方で、一般御家人の生活状況は元寇をきっかけにより一層悪化しました。なぜ元寇が御家人の生活の足を引っ張ることになってしまったのでしょうか。
その原因は、鎌倉幕府を支えていた「御恩と奉公」のシステムの崩壊(ほうかい)にありました。
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しかし、分割相続による所領の細分化が、やがて御家人たちに深刻な影響を及ぼすようになりました。なぜなら、細分化によって農業収入は必然的に減少するのに対して、幕府からの様々な命令には「御恩」がある以上、これまでどおり従わなければならないからです。
幕府への義務を果たす「奉公」は出費がかさむため、やがて御家人の多くが借上(かしあげ)や土倉(どそう)といった業者から借金をし始めましたが、借金を返済できなくなった御家人の中には、担保として自らの所領を奪われてしまう者も現われるようになりました。そして、元寇による負担がこうした流れに拍車をかけてしまったのです。
通常の場合、御家人は負担した軍役(ぐんえき)の結果、滅亡した相手方の所領から褒美(ほうび)がもらえることで、それなりの収入を得ることができました。しかし、海を渡ってやって来た元軍が日本国内の所領を持っているわけがありません。従って、九州まで自己負担で遠征して命がけで戦ったにもかかわらず、褒美でもらえる所領がないという、御家人たちにとっては極めて深刻な事態となってしまいました。
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