ラクスマンの要求は、応対した松前藩を通じて幕府に伝えられましたが、老中の松平定信は漂流民こそ受け取ったものの、通商に関しては鎖国を理由に聞く耳を持たず、どうしても通商を求めたいのであれば長崎へ行くようにと命令したうえで、長崎への入港許可証を与えました。
ラクスマンは許可証を受け取りましたが、長崎へは向かわずそのまま帰国しました。一方、ラクスマンの来航の事実を重く見た幕府は、蝦夷地や江戸湾の海防の強化を諸藩に命じたほか、定信の失脚後の寛政10(1798)年には、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)や最上徳内に択捉島(えとろふとう)などを調査させるとともに、翌寛政11(1799)年には、東蝦夷地を幕府の直轄地としました。
なお、我が国に帰還した大黒屋光太夫に関するエピソードは、作家の井上靖(いのうえやすし)によって「おろしや国酔夢譚(こくすいむたん)」という長編小説に書き上げられ、映画化もされています。また、近藤や最上らは択捉島などを調査した際、択捉島に「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を立て、日本領であることをアピールしています。
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幕府の冷酷な対応に態度を硬化させたロシアは、文化3(1806)年から文化4(1807)年にかけて、樺太(からふと)や択捉島を攻撃しました。
ロシアの強硬な態度に驚いた幕府は、文化4(1807)年に蝦夷地をすべて直轄地として松前奉行に支配させ、東北の各藩にも沿岸の警備を命じました。
また、文化5(1808)年には、間宮林蔵(まみやりんぞう)に樺太やその沿岸を探検させましたが、間宮は調査の結果、樺太が島であることを発見しました。我が国では間宮の功績を称(たた)える意味で、樺太とロシアの沿海州(えんかいしゅう)との間にある海峡(かいきょう)を「間宮海峡」と名付けています。
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これに対し、ロシアは報復として、翌文化9(1812)年に日本船を拿捕し、淡路島(あわじしま)の商人であった高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)らを抑留しました。
まさに「人質合戦」と化したことによって、両国間の関係はさらに悪化しかけましたが、当時のロシアはヨーロッパでの戦争が続いていたことから、我が国を侵略するまでの意図(いと)がなかったこともあり、ゴローウニンと高田屋嘉兵衛とが捕虜(ほりょ)交換の形でそれぞれ帰国しました。
これら一連の流れはゴローウニン事件と呼ばれていますが、この後の日露(にちろ)関係は修復へと向かい、幕府の直轄地となっていた蝦夷地も、文政(ぶんせい)4(1821)年には松前藩に返還され、松前奉行は廃止されました。
なお、高田屋嘉兵衛に関するエピソードは、作家の司馬遼太郎(しばりょうたろう)によって「菜の花の沖」という名で小説化され、テレビドラマ化もされています。
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そんな中、文化5(1808)年に、オランダの国旗を掲(かか)げた船が長崎の出島に入港しました。関係者と思い込んだオランダ商館員が、船に乗り込んで出迎えようとすると、彼らが捕えられて船に連行されると同時にオランダ国旗が降ろされ、代わりにイギリス国旗が誇らしげに掲げられました。
実は、この船はイギリスのフェートン号が化けていたものだったのです。フェートン号は人質を盾(たて)に長崎港内でのオランダ船の捜索を行うとともに、燃料や食糧を我が国に求め、要求が通らない場合には港内の日本船を焼き払うと通告してきました。
イギリスによる余りもの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)ぶりに、長崎奉行の松平康英(まつだいらやすひで)は激怒しましたが、どうすることもできませんでした。なぜなら、泰平の世が長く続いたことによって、幕府や警備を担当していた肥前藩による長崎における兵力が激減しており、戦える状態ではなかったからです。
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この出来事は「フェートン号事件」と呼ばれていますが、この後もイギリス船が何度も我が国の近海に出没したため、業(ごう)を煮やした幕府は文政8(1825)年に「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい、別名を無二念打払令=むにねんうちはらいれい)」を出し、清国とオランダ以外のすべての外国船を撃退するように命じました。
確かに、フェートン号の所業は許せないものがありましたが、だからと言って、問答無用で外国船を打ち払うというのは、余りにも極端な対応と言わざるを得ません。結局このような幕府の場当たり的な対応が、さらなる悲劇を呼んでしまうのでした。
なお、事件の後に幕府から叱責を受けた肥前藩は、汚名返上を目指して軍備を整えていきました。薩摩藩や長州藩よりもずっと前から、攘夷(じょうい)の不可能を理解していた肥前藩だったからこそ、他の藩に先駆(さきが)けて最新鋭の武器であるアームストロング砲を開発し、やがては維新の元勲として君臨するという流れがもたらされたのです。
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青田 青田です。
アームストロング砲を単なる大砲と思っている現代人が多いですが、
この当時のアームストロング砲は、現代で言えば
スカッドミサイルです。
おそらく、肥前藩は、幕末最強の近代軍だったでしょうね。
幕府による無茶な対外政策に、渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英(たかのちょうえい)らがそれぞれ書物を出して批判しましたが、天保10(1839)年に幕府によって弾圧されました。この事件を「蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)」といいます。
その後、1840年にアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、清国がイギリスに敗れて香港を奪われると、その事実を知って慌(あわ)てた幕府は、天保13(1842)年に「天保の薪水(しんすい)給与令」を出しました。
これは、我が国を訪問した外国船に対して、食糧や燃料を与えて速やかに退去してもらうというものでしたが、確かにこの法令によって外国との無意味な衝突は避けられたものの、そんな小手先な手段よりも、我が国が自主的に開国すれば何の問題もないはずでした。
我が国と同じく厳しい制限貿易を行っていた清国は、アヘン戦争でイギリスに敗れたことで無理やり開国させられたのみならず、不平等な条約を強引に結ばされるなど散々な目にあっていました。我が国が清国と同じような運命とならないためにも、かつて田沼意次が目指したように、自主的に開国して積極的に外国と交易する必要があったはずなのです。
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西洋諸国の中で唯一我が国と貿易を行っていたオランダが、我が国に開国を勧告するということは、自国の貿易の独占を失うことにもつながっていました。にもかかわらず開国を勧告した理由としては、仮に我が国が自主的に開国を行った後も、オランダとの縁(えにし)を忘れずに貿易上の友好な関係を続けてほしい、という思惑(おもわく)があったのかもしれません。
オランダによる勧告の内容として注目すべきことは、開国を勧める理由として「蒸気船」が開発されたことを挙げていることでした。蒸気船は1807年にアメリカのフルトンが発明しましたが、このことが世界の歴史を、特に我が国の運命を大きく変えてしまったのです。
その理由は我が国が「海で囲まれている島国」だからですが、なぜだかお分かりでしょうか。
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大量の船を作ろうと思えば莫大(ばくだい)な資本が必要ですし、それだけの大きなエネルギーを使ってまでして我が国を攻めようにも、失敗した場合のリスクの大きさを考えれば、二の足を踏んでしまうのが当然というものでした。
かくして、我が国は元寇(げんこう)などの一部の例外を除いて外国からの侵略を受けることがなく、特に江戸時代の初期に「鎖国」となってからは、平和な状態が続いたことで、いつしか我が国における防衛力も低下していきました。
実は、蒸気船の発明は、こうした「天然の防壁」を簡単に打ち破るものだったのです。なぜでしょうか。
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もし海上から大砲や鉄砲などで対岸の陸地へ向かって発砲することができるようになれば、海で囲まれている我が国にとっては、日本列島のどこからでも狙(ねら)われるということにならないでしょうか。
つまり、蒸気船の発明によって、我が国は「天然の防壁」どころか「どこからでも狙われる大変危険な国」になってしまったのです。
オランダも蒸気船の脅威(きょうい)が分かっていたからこそ、別の思惑があるとは考えられるものの、我が国に対して親切にも開国を勧告してきたのですが、そんなオランダに対して、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は、世界情勢の認識の乏(とぼ)しさもあって勧告を無視してしまいました。
「鎖国は幕府の祖法(そほう、先祖の代から守るべきしきたりのこと)であって変えることはできない」。間違った認識を言い続けることで、自身をも騙(だま)し、判断を誤る(今も行われているかもしれませんが)。こうした自家撞着(じかどうちゃく、同じ人の言動や文章が前後で食い違っていること)が、我が国最大の危機と幕府崩壊への序章になったのです。なお、言うまでもないことですが、いわゆる「鎖国」を行ったのは徳川家康ではなく、よって幕府の「祖法」ではありません。
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1776年に建国されたばかりのアメリカは、我が国への侵略の意図よりも、北太平洋を航海する捕鯨船の寄港地や、清国との貿易の中継地とするために、我が国と友好的な関係を持ちたいと考えていました。
そんな思惑もあって、アメリカは我が国に対して当初は紳士的な対応を行いましたが、先述のとおり、天保8(1837)年にモリソン号事件を起こされるなど、散々な目にあいました。
しかし、それでもアメリカは、弘化(こうか)3(1846)年にアメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが浦賀(うらが)に来航し、我が国に対して平和的に通商を求めました。
もしここで幕府が通商を受け入れていれば、我が国の歴史は大きく好転していた可能性もあったでしょう。しかし、幕府は鎖国を理由にまたしてもアメリカの要求を拒絶してしまったのです。
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