軍役による御家人の負担は大きいものがありましたが、活躍次第では新たな所領を得られるため、御家人たちはそれこそ一所懸命に務めていたのですが、時が流れるにつれて、こうした「御恩」と「奉公」の関係は崩れていきました。
当時の武士の社会では、一族の子弟たちに所領を分け与えるという分割相続が一般的でしたが、これを何代も行っているうちに、所領が細分化して農業収入が減少するのに対して、幕府への奉公が変わらずに続いたため、必然的に困窮(こんきゅう)するようになってしまったのです。
やがて御家人の多くが、借上(かしあげ)や土倉(どそう)といった業者から借金をし始めましたが、借金を返済できなくなった御家人の中には、担保として自らの所領を奪われてしまう者も現われるようになりました。
これら御家人の困窮をよそに、幕府では執権を務めていた北条氏の嫡流(ちゃくりゅう、正当な血筋を持つ家柄のこと)の当主である得宗(とくそう)の権限が強化されるという得宗専制政治が行われたことで、御家人の心が幕府から離れるとともに、不満が高まっていきました。
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その後、後嵯峨上皇(後に出家されて法皇となられました)が1272年に皇位の継承者を鎌倉幕府に一任される形で崩御(ほうぎょ)されると、幕府は世仁親王を後宇多(ごうだ)天皇として即位させる一方で、次の皇太子を後深草天皇の子である熈仁(ひろひと)親王に決めました。
要するに、幕府の調停によって、後深草天皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と、亀山天皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)とが、まるでキャッチボールのように交代しながら皇位につかれることになったのです。
いわゆる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」が続いたことによって、両統は幕府に働きかけて自己の血統に有利な地位を得ようとするなど、やがてお互いに激しく争うようになりました。
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後醍醐天皇は討幕の計画を二度も進められましたがいずれも失敗され、幕府によって隠岐(おき)へと流されました。
なお、1324年に起きた一回目の討幕は「正中(しょうちゅう)の変」と呼ばれ、二回目の1331年は「元弘(げんこう)の変」と呼ばれています。
後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は持明院統の光厳(こうごん)天皇を皇位にたてましたが、後醍醐天皇がご譲位を拒否されたため、お二人の天皇が並立されることになり、これが後の南北朝時代のきっかけとなったのです。
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正成はわずかな兵で幕府軍に抵抗を続けましたが、その貢献度は絶大でした。なぜなら、鎌倉幕府は武家政権ですから、大軍で攻め込みながらわずかな兵の正成の軍勢に勝てないということは、それだけ幕府の威信に傷がつくからです。事実、正成がしぶとく戦っている間に、全国各地で討幕の軍勢が次第に集まってきました。
討幕の軍勢が自然と増加していった1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出され、伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)の名和長年(なわながとし)を頼って挙兵されました。
この事態を重く見た幕府は、北条氏と姻戚(いんせき)関係にあった有力御家人を現地へ派遣しましたが、実は、その御家人こそが足利高氏(あしかがたかうじ)でした。
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高氏は他の反幕府勢力を率いて京都へ入り、1333年5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家の血を引く新田義貞(にったよしさだ)も、上野(こうずけ、現在の群馬県)で討幕の兵を挙げて鎌倉へ向かいました。
義貞は、鎌倉を脱出した高氏の子の千寿王(せんじゅおう、後の足利義詮=あしかがよしあきら)と合流して、一緒に鎌倉を攻めました。
5月18日には北条氏最後の執権である第16代の北条守時(ほうじょうもりとき)を滅ぼし、22日には得宗の北条高時(ほうじょうたかとき)や内管領(うちかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)らを自害に追い込んで、源頼朝以来約140年続いた鎌倉幕府はついに滅亡しました。
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また軍事面では、天皇ご自身が軍隊をお持ちでなかったため、子の護良親王を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたほか、旧幕府の本拠地であった関東や東北には、それぞれ鎌倉将軍府や陸奥将軍府が置かれました。
後醍醐天皇によるこれらの新しい政治は、幕府滅亡の翌年(1334年)に改められた建武(けんむ)という年号から「建武の新政」と呼ばれています。
さて、主君に絶対の忠誠を誓うとともに徳のある者が天下を制するとした朱子学(しゅしがく)を熱心に学ばれていた後醍醐天皇にとって、両統迭立によって皇位の継承が不安定になることや、朝廷から政治の実権を「奪っていた」鎌倉幕府の存在は、絶対に許せないものでした。
ご自身が幕府を倒すために何度も討幕の兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このままご自身による親政が永遠に続くとお考えでした。
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それなのに、後醍醐天皇は皇族や公家のための政治のみを実行されるだけでなく、これまで守られてきた土地の所有権などの武士の権利がないがしろにされたことで、建武の新政に対する武士たちの不満が次第に高まっていきました。
かつての平家による政権が貴族化した際もそうであったように、いくら武力などで世の中を支配したところで、それが国民の理解を得られなければ、その支配は絶対に長続きできないのです。
今回の場合も、当時の国民の代表たる武士の期待に応えられなかった建武の新政には、やがてかげりが見え始め、そんな不穏(ふおん)な空気を察したかのように、後醍醐天皇から「最高の栄誉」を受けたはずの一人の武士が反旗をひるがえしたのでした。
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このように、身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏諱(へんき)といいます(なお、それまで名乗っていた高氏の「高」は、北条高時から同じように偏諱を受けていました)。天皇が身分の低い者、ましてや「ケガレた者」として虫けらのような存在であった武士に対して偏諱を受けさせるのは、空前絶後のことでした。
しかし、尊氏が本当に欲しかったのは征夷大将軍の地位であり、目指していたのは「武士のための政治」を自分が行うことでした。源義家の血を引く武家の名門の子孫である自分自身こそが、北条氏に代わって政治の実権を握るにふさわしいと考えていたのです。
そんな折、1335年に北条高時の子の北条時行(ほうじょうときゆき)が関東で「中先代(なかせんだい)の乱」を起こし、一時期は鎌倉を占領しました。尊氏は乱の鎮圧を口実に、後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉へ向かって時行軍を追い出すことに成功すると、そのまま鎌倉に留まって独自に恩賞を与え始めるなど、後醍醐天皇から離反する姿勢を明らかにしました。
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都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると、持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)から院宣(いんぜん、上皇からの命令書のこと)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上しました。
尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎え討つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。この戦(いくさ)は「湊川の戦い」と呼ばれています。
尊氏が再び京都を制すると、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)に逃(のが)れられ、光厳上皇の弟にあたる光明(こうみょう)天皇が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。
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吉野に到着された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物であると宣言されて、新たに朝廷を開かれた後、1339年に崩御されました。かくして、京都の朝廷(=持明院統)と吉野の朝廷(=大覚寺統)とが並立し、半世紀以上続く「南北朝の動乱」が本格的に始まったのです。
さて、1336年に京都を支配した足利尊氏は、2年後の1338年には、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、後に「室町幕府」と呼ばれる新しい幕府を京都で開きましたが、その前途には絶えず不安がつきまとっていました。
その理由として、幕府を正当なものと認める後ろ盾となる朝廷が、二つに分裂していたことが挙げられます。北朝は本来の朝廷の都である京都におわしましたが、本物の三種の神器は南朝に存在するとされたこともあって、尊氏に従った新興勢力の武士の中には、北朝の正当性に疑問符をつける者もいました。
また、武士にとっての本拠地は鎌倉などの東国であるため、尊氏も本当であれば関東で幕府を開きたかったのですが、南朝がいつ北朝に取って代わろうとするか予断を許さない状態が続いたため、やむなく京都で幕府を開いたのです。このため、鎌倉には尊氏に代わる別の組織として鎌倉府(かまくらふ)が置かれたのですが、関東で鎌倉府に権力が集中したことによって、やがて幕府と対立するようになっていきました。
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しかし、領地が増えた武将が、この後に様々な権利を得ることで「守護大名」と化したことによって、こちらも幕府のいうことを聞かなくなっていくのです。
加えて、南北朝の動乱が50年以上も続いてしまった大きな原因も、実は尊氏の「優しさ」にありました。尊氏は自身に偏諱を賜(たまわ)られた後醍醐天皇に対してどうしても非情になれず、隠岐などに追放して政治生命を断つことが出来なかったゆえに、天皇に吉野に逃げられて南朝を開かれてしまったからです。
結局、尊氏やその子で2代将軍の足利義詮(あしかがよしあきら)の頃までには南北朝の動乱は解決できず、義詮の子で3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)が本格的に政治を行うようになってから、時代が大きく動き始めるのです。
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義満は自分の思いどおりの政治を行うため、まずは「子飼いの軍隊」ともいうべき将軍直属の常備軍である奉公衆(ほうこうしゅう)を積極的に増強し、その費用を捻出(ねんしゅつ)するために、山城(現在の京都府南部)の土地の一部を奉公衆に与えたり、山城の荘園の年貢の半分を奉公衆に給付するという半済令(はんぜいれい)を出したりしました。
京都において兵糧を確保できるようになった奉公衆は、一年を通して将軍の近くに常駐できるようになり、結果として義満の軍事的立場も強化されることにつながりました。
こうして自分の足元を固めることに成功した義満は、自分の命令ひとつで動く武力を背景に、内政や外交、あるいは軍事面において強力な政治を行うことになるのです。
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それもこれも、朝廷が二つに分かれて争う状態が続いていたのが大きな理由でした。先の鎌倉幕府や後の戦国時代、あるいは江戸幕府など、武家政権の多くは長い伝統に基づく権威を有する朝廷の扱いに悩まされてきましたが、それが二つもあってはたまったものではありません。
なぜなら、お互いに対立している二つの勢力が、それぞれ北朝や南朝を別々に担(かつ)ぐことによって、お互いが朝廷の後見を得ることになり、争い事がいつまで経っても収拾がつかなくなるからです。
このため、義満も南北朝が一つになるよう工作を続け、南朝側も後亀山(ごかめやま)天皇が和睦に応じられたことで、1392年についに「南北朝の合一(ごういつ)」が実現しました。
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義満が南朝の後亀山天皇に出した和睦の条件は以下のとおりでした。
1.三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ「譲国(じょうこく)の儀式」で渡すこと
2.皇位の継承に際しては、南北両朝が交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)を行うこと
3.諸国の国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)を南朝の所有とすること
このうち一番重要なのは1.でした。なぜなら「譲国の儀式」で譲位するということは、後亀山天皇のご在位を、ひいては南朝の後醍醐―後村上(ごむらかみ)―長慶(ちょうけい)―後亀山という皇位の継承を正式なものとして認めるということを意味していたからです。
また、今後も両統迭立が行われるということは、後亀山天皇の子がいずれは天皇になるということであり、さらに国衙領の所有が認められるのであれば、南朝にとってはかなり有利な内容でした。しかし、それらはあくまで北朝と幕府が約束を守ればの話であり、実は、義満は条件のすべてを反故(ほご)にしてしまったのです。
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これでは北朝が「失くした神器を取り戻した」ということになり、南朝の正当性が一切認められないことを意味します。また、退位された後亀山上皇も当初は正式に上皇と認められず、義満の裁定によって「不登極帝(ふとうきょくのてい)」、すなわち「即位していない天皇」に上皇の地位を与えるということになりましたが、即位が認められなければ、後亀山上皇が「治天(ちてん)の君(きみ)」として院政を行うことができません。
両統迭立の約束も、後小松天皇の次の天皇となる皇太子が長いあいだ決められず、義満の死後に後小松天皇の子の称光(しょうこう)天皇が即位されたことで、南朝への皇位継承の道が遠くなり、さらには国衙領も、この頃までには実質的にほとんど存在していませんでした。
要するに、義満は南朝に「空手形(からてがた)」をつかませたのです。南北朝の合一に関する義満の手法は卑怯(ひきょう)かつ詐欺的なものでしたが、同時に彼の行動によって二つあった朝廷が一つにまとまったことで、それまでの混乱状態から回復して世の中が平和に向かうという皮肉な結果になりました。平和というのは綺麗事だけでは達成できないという見本のような事実ですね。
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また、義満はこの頃までに大きくなり過ぎて幕府の言うことを聞かなくなった守護大名の弱体化を目指し、1390年に美濃(=現在の岐阜県南部)・尾張(=現在の愛知県西部)・伊勢(=現在の三重県北部)の守護を兼ねた土岐康行(ときやすゆき)を滅ぼしました。これを「土岐康行の乱」といいます。
翌1391年には、西国11ヵ国の守護を兼ね、六分一殿(ろくぶんのいちどの)と呼ばれた山名氏(やまなし)に内紛が起きると、義満はこれに乗じて山名氏清(やまなうじきよ)を滅ぼしました。この戦いを、当時の年号から「明徳(めいとく)の乱」といいます。
さらに義満は、明(みん)と勝手に貿易を行っていた周防(すおう、現在の山口県東部)の守護大名である大内義弘(おおうちよしひろ)を1399年に滅ぼすことに成功しました。この戦いは、当時の年号から「応永(おうえい)の乱」と呼ばれています。
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チャイナの皇帝から「国王」に任じられて暦を受け取るという行為は、チャイナを宗主国と認め、屈辱的な朝貢(ちょうこう)外交を行うことを意味しました。
これは、聖徳太子(しょうとくたいし)以来続いてきた、我が国の中国大陸からの独立性を損なうものでしたが、義満は自らを「日本国王臣源道義(にほんこくおうしんげんどうぎ)」と称して貿易を行いました。なお、道義とは出家した義満の法号です。
なぜ義満は朝貢外交を受けいれてまで貿易を行ったのでしょうか。主な理由として考えられるのは、貿易による莫大(ばくだい)な利益を得るためには、対等であろうが朝貢であろうが問題ないという経済重視の姿勢ですが、もうひとつの別に隠された理由がありました。
実は、義満は自らが「天皇を超える存在」として君臨するという大きな野望を持っており、明から「日本国王」に任じられること、つまり明からの「お墨付き」を得ることが、野望達成の近道になると確信していたのです。
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また、義満は自身の太政大臣の就任祝賀式に出席した当時の関白に対して、自らを拝礼して見送らせました。関白は太政大臣より上位ですから普通に考えれば話が反対ですが、これは義満が当時すでに天皇に近い待遇を得ていたことを間接的に証明しています。
さらに義満は、南北朝の合一の際に後亀山上皇に対して強引に上皇待遇を与えたように、朝廷の人事権にまで口出しを始め、天皇の子が出家して入る門跡寺院(もんせきじいん)にも、自分の子を次々と入れました。そのうちの一人が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)ですが、彼は後に6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)となって、歴史の表舞台に登場することになります。
その後、征夷大将軍を辞任した義満は、子の足利義持(あしかがよしもち)を4代将軍とさせたうえで太政大臣に就任し、それから半年も経たないうちに太政大臣を辞職して出家しましたが、依然として政治の実権を持ち続けました。
将軍や太政大臣といっても天皇の臣下でしかなく、それらの身分に縛(しば)られない方が、自分の野望達成(=天皇を超える存在になること)には都合が良いと判断したのかもしれません。
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しかも相国寺は当時の京都御所のすぐ北にあり、天皇がおわす御所の上座(かみざ)の位置に、御所を見下ろすことができる巨大な建物を造営したことになりますが、義満の意図がどこにあったのかが気になるところです。
また、義満は金閣寺(きんかくじ)と呼ばれる寺院を建築したことでも有名であり、これは現在の鹿苑寺(ろくおんじ)の通称となっていますが、義満の当時は金閣寺を含む一帯が北山第(きたやまてい)と呼ばれ、義満の政務地でした。
義満が政務地の象徴として建築したのが現在の金閣寺と考えられていますが、その金閣寺は1階が寝殿造(しんでんづくり)で2階が武家造(ぶけづくり、別名を書院造=しょいんづくり)、3階が禅宗様(ぜんしゅうよう)という変わった構造をしていることでも有名ですね。
実は、この金閣寺の構造にも義満の真意が隠されているのです。
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さらにその上の3階の禅宗様は中国風ですが、これは当時明から「日本国王」に任じられていた義満自身を指していると考えられ、義満が「自分は朝廷も幕府も超えた存在である」と自ら宣言しているに等しいことになります。
しかも、金閣寺の屋根には聖天子(せいてんし)が出現するときに世に出るとされる、チャイナの伝説上の鳥である鳳凰(ほうおう)が飾られていますが、全国の寺院で屋根に鳳凰があるのは、金閣寺の他にはこれを真似(まね)てつくられた銀閣寺(ぎんかくじ)と、平安時代の建築物である宇治の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)くらいしかありません。
寺院の屋根飾りとしては滅多に用いられない鳳凰が金閣寺に使用されている理由は、そこを普段から使用する人間、つまり「義満こそが聖天子そのものである」と自負していたからだとは考えられないでしょうか。
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さらに義満の子の足利義嗣(あしかがよしつぐ)が成人した際の儀式である元服(げんぷく)の際には、宮中で天皇の子である親王に準じた形式で行いました。
つまり、義嗣は親王と同じ待遇になったのです。ということは、近い将来には義嗣が天皇になり、義満自身は天皇の父、つまり上皇に準ぜられ、治天の君として「天皇を超える存在」となり、我が国をほしいままに支配することになってしまう―。
皇室をいただく我が国にとって、まさに最大の危機でしたが、義満の野望は、結局は実現することはありませんでした。
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