この功績によって、正盛は白河法皇の厚い信頼を受け、直属の警備機関である北面の武士として登用されると、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も、瀬戸内海の海賊を討ったことで白河法皇の孫の鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿を許されました。いわゆる「殿上人(てんじょうびと)」のことです。
忠盛は西国を中心に多くの武士を従え、平氏が繁栄する基礎をつくりましたが、昇殿が許された武士の実力は留まることを知らず、12世紀半ば頃に起きた二つの反乱によって、平氏が朝廷にかわって政治の実権を握る道を切り拓(ひら)くことになりました。
その背景には朝廷内の権力争いがあり、またそれを上手に活用した人物こそが、有名な平清盛(たいらのきよもり)だったのです。
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ぴーち こんばんは!
どこかで
てんじょうびと・・という言葉を
聞いたことが有り
天上人」だと思っていたら
殿上人の方だったんですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、「殿上人」なんです。
昇殿を許されるのはかなりの身分なんですが、それよりもさらに上に立ったのが清盛なんですよね。
院政によって、上皇(=法皇)の地位は「治天の君」と称されるまでになりましたが、その独裁的な政治手法は周囲の混乱をもたらすことになり、それは皇位の継承に関しても例外ではありませんでした。
白河法皇は孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁(あきひと)親王を大変可愛がられ、親王が5歳になられた1123年に、崇徳(すとく)天皇として即位させました。
祖父の白河法皇によって無理やり退位させられた鳥羽上皇(のち法皇)は、いつしか自身の退位の引き金となった我が子の崇徳天皇に対して、良い感情を持たれなくなられました。そんな中、1129年に白河法皇が崩御(ほうぎょ)され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。
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ぴーち こんばんは!
やはり独裁的なやり方は
いづれ憎しみが芽生える種となりますよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多いことではありますが、白河法皇がなされたことが、この後の武家政権の誕生に直結しましたからね…。
しかし、近衛天皇は1155年に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇は、崇徳上皇の子である重仁(しげひと)親王が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになり、上皇の弟にあたる雅仁(まさひと)親王を後白河天皇として強引に即位させました。
我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷ともいえる仕打ちに激怒された崇徳上皇は、1156年に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
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ぴーち こんばんは!
自らの子供を設けていれば
何の憂いもなかったのでしょうけれど
椅子取り合戦も
ここまで来ると醜い泥仕合ですね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 畏れ多いことではありますが、全くもって仰るとおりですよね。
この混乱が武士の台頭につながってしまうところが、何とも言えない皮肉です。
御譲位
青田です。 青田です。
私が、真っ先に、天皇の譲位に関して浮かんだのが、
この時代の上皇、法皇、天皇の関係でした。
歴史を知らない日本人が増えたからだと思いますが、
現代の今上天皇の御譲位に関して
特例とすべきか、慣例とすべきかで、識者でも
意見が分かれていますが、(特例になりそうですが。。)
今は、時代が違い、今は立憲君主制の議院内閣制ではありますが、かなり、神経質でデリケートな問題ですね。
未来において、また、馬鹿な政党が政権を取るとも限りませんから。。
青田さんへ
黒田裕樹 この件は、軽々しく口にできることではありません。
私は今後の経緯を静かに見守りたいと思います。
1158年、後白河天皇は子の二条(にじょう)天皇に譲位され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった、信西(しんぜい)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激しくなりました。
一方、保元の乱の戦功によって、平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、中国の宋(そう)とのいわゆる「日宋貿易」を行って経済的実力が高まった清盛に対して、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれていたのです。
義朝は信西に不満を持っていた藤原信頼に協力して、1159年に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁したほか、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって、後白河上皇と二条天皇が脱出に成功されると、形勢は一気に逆転しました。清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡中に襲われて死亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、最期には処刑されてしまいました。この戦いは、当時の年号から「平治(へいじ)の乱」と呼ばれています。
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ぴーち こんばんは!
なんと言うか・・
今回のお話を聞いただけでも
人間というのはこれ程までに残酷に
なれるのものなのか・・という思いを抱きましたね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時、処刑は「ケガレ仕事」ということで、武士に任されていました。
義朝は、父親の処刑を他人にさせるよりも、せめて自分の手で行いたかったのか、あるいは御上からの指示でやらされたのか、いずれにせよ残酷ではありますね。
選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵とみなされた人物は、本人のみならず、子供であろうが一族もろとも殺されるのが常でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐のために生命を奪おうとする可能性が十分考えられたからです。
こうした原則からすれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命は風前の灯(ともしび)であり、処刑されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は結果として彼らの生命を奪おうとはしませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経を助けたのでしょうか。
その背景には、二人の女性が存在していたのです。
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ぴーち こんばんは!
女性の存在ですか・・・
どの様な関係の女性だったのでしょうかね^^
何か問題が起きた時は
必ず影には女性の影ありと聞いた事が有りますが(^_^;)
つねまる 先生、こんにちは。いつもお世話になっております。後輩からこんにちはです。
私は在学中に文化会能楽部に入って、生協横の和室でほぼ大学時代を過ごしましたが、今、あちこち巡る折りにとても大きな財産になっております。
謡には源平の話が多いので、お話、楽しく拝見しております。
今年もとても勉強になりました。
先輩が頑張っておいでなのは、とても励みになります。
来年もまた何卒よろしくお願い申し上げます。
良いお年をお迎えくださいませ。
来年はぜひ、先生に、高砂やぁ~♪を謡えますように応援してます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何か問題が起きた時は
> 必ず影には女性の影ありと聞いた事が有りますが(^_^;)
今回も、まさに仰るとおりの展開となります。
詳しくは次回の更新をご覧ください。
つねまるさんへ
黒田裕樹 こちらこそ、この一年も大変お世話になり、有難うございました。
来年こそは「高砂やぁ~♪」を経験したいですね(笑)。
清盛の母は早くに亡くなりましたが、継母(ままはは)にあたる池禅尼(いけのぜんに)が健在でした。池禅尼は、捕らえられた頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子に似ているから」という理由で、清盛に対して頼朝の生命を助けるように頼みました。
はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(=清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議したため、仕方なく頼朝を伊豆(いず、現在の静岡県の一部)へと流罪にしました。
一方、赤ん坊だった源義経の場合は、義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世の美女であったことで、御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命されたと伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平氏の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時日の出の勢いであった清盛が気づくはずもないことでした。
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ぴーち こんばんは!
情の深さと美しさですか・・
女性の最大の武器でも有りますね(苦笑)
そこの部分にしてやられることが
致命傷だったとは言え、そこを
無慈悲にしなかった事は
人間として負けでは無かったのでは
無いかと存じます。
改めて
今年も大変お世話になりましたm(_ _)m
来年もどうぞ宜しくお願いいたします。
良いお年をお迎えください^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 難しいところですね。
平氏に未来に暗雲をもたらしたのは事実ですが、後の鎌倉幕府設立のきっかけもつくっていますからね。
こちらこそ、今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。