水野の方針を耳にした景元は、直ちに反対しました。若い頃から世情に通じていた景元にとって、庶民のささやかな娯楽である寄席や歌舞伎を廃止することは、絶対に認められなかったのです。
景元の意見に対して、将軍家慶も同調したこともあり、寄席は数を減らされたうえに興行の内容が制限され、また歌舞伎が当時は江戸の郊外だった浅草に強制的に移転させられたものの、それぞれ廃止を免れることができました。
江戸の庶民や、あるいは寄席や歌舞伎の関係者は、身体を張って自分たちのために力を尽くしてくれた景元に対して深く感謝しましたが、このことが、やがてひとつの大きな「効果」をもたらすことになります。
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ぴーち こんばんは!
確かに今でも浅草には歌舞伎の公会堂が存在していますものね。
この頃のお触れでそう言う事になった訳ですか・・
また一つ勉強になりましたm(_ _)m
オバrev まるで北風と太陽ですね。
型にはまった、マイナス思考の、完璧主義みたいで、息が詰まりそう(゚_゚i)タラー
景気は良くなりようがないですよね。
かと言って、締りがないのもワヤクチャになるだろうし、やはり自由を担保した上で、ある程度の規制っていう、バランスなんかなぁ(・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
浅草の繁栄は、歌舞伎も一役買っているんですよね。
廃止されなくて本当に良かったです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 規制があり過ぎるのが天保の改革の頃なら、締まりがないのが大御所時代とでもいうべきでしょうか…。
庶民は息が詰まらない方が好みですね。もっとも、そのためには安全保障がしっかりとしているのが最低条件ですが。
水野は鳥居と相談した結果、景元に北町奉行を辞めさせるには「降格」とは限らないということで、天保14(1843)年に、景元を町奉行より格上の大目付(おおめつけ)に「昇進」させることで、景元が改革に口出しできなくなるという目的を達成することが出来ました。
大目付は大名や朝廷などを監視して、謀反をさせないようにするという重要な役職でしたが、景元が就任した頃には閑職(かんしょく、重要でなくヒマな業務)と化しており、事実上の左遷(させん)でした。
邪魔者(じゃまもの)だった景元を遠ざけることに成功し、ほくそえんだ水野と鳥居でしたが、二人の仲には間もなく亀裂が入りました。同じ天保14(1843)年、水野は江戸・大坂周辺の約50万石を幕府の直轄地にして、幕府の権力強化を図るために上知令(じょうちれい、または「あげちれい」)を出しましたが、これが大失敗だったのです。
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ぴーち こんばんは!
なるほど~
降格させるのではなく、逆に昇進させる事で
相手の出世欲を満足させると同時に
口出しもさせなくするという考えは
なかなかなものですね(^_^;)
しかし
邪魔者という一人の共通する目的が
果たせば、今度は仲間割れですか。。
┐(´д`)┌ヤレヤレ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 出世させることで現場から遠ざけ、逆に意欲を失わせるという手段は、現代でも良く使われると聞いたことがあります。
仰るとおり、仲間割れです。我欲で結びついた集団は、所詮はそこまでの存在なんですよね…。
鳥居は上知令の計画を水野から聞いた際、その失敗を予測して、水野に協力するふりをしながら、機密資料をすべて反対派に横流ししていました。こうした努力(?)の結果、水野が失脚した後も鳥居は南町奉行として残ったのですが、世の中はそんなに甘くはありませんでした。
翌天保15(1844)年に、将軍家慶のお声がかりによって、水野が再び老中に返り咲いたのです。鳥居の裏切りに腹を立てていた水野の報復によって、鳥居は南町奉行を辞めさせられたのみならず、全財産を没収されたうえに、四国の丸亀藩(まるがめはん、現在の香川県丸亀市)にお預けの身となってしまいました。
この後、鳥居は明治維新を迎えるまで丸亀藩に閉じ込められていたのですが、晩年に江戸幕府が滅亡したことを聞くと、こう言ったそうです。
「ワシの言うことを聞かないから幕府が滅びたんだ」。
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景元は水野の後を受けて老中となった阿部正弘(あべまさひろ)からも信任を受けて、嘉永(かえい)5(1852)年まで約7年間も奉行職を務めた後に隠居すると、安政(あんせい)2(1855)年に63歳の波乱に満ちた生涯を閉じました。
天保の改革による幕府権力の強化を目標とし、そのためには江戸庶民の生活が犠牲となろうが問題にしなかった水野忠邦と、改革を忠実に実行するため、卑劣(ひれつ)なおとり捜査を平気で行った鳥居耀蔵に対し、庶民の生活を第一に考え、時には身体を張って水野の改革に反対する意志を貫き通した遠山景元。
こうした分かりやすい構図が誕生したことによって、現代に伝わる「名奉行遠山の金さん」の伝説の下地が出来上がったのですが、それをさらに後押ししたのが、かつて景元が守ってくれた恩を忘れなかった人々による「舞台」でした。
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そして明治26(1893)年に、歌舞伎役者の初代市川左團次(いちかわさだんじ)によって上演された「遠山桜天保日記」が大評判となったことで、現代にもつながる「遠山の金さん」のイメージが次第に定着して、やがては時代小説や映画、さらにはテレビ時代劇へと派生していったのです。
世の中には架空の物語、すなわち「フィクション」と呼ばれるものが数多くありますが、だからといって、それらを完全に無視してしまっては、物事の全体像が見えてきません。今回の「遠山の金さん」の場合も、遠山景元という史実の江戸町奉行の活躍があったればこそ、現代に至るまで「金さん」の物語を楽しむことが出来るのです。
さらに付け加えれば、こうした考えは「金さん」に限らず、他の数多くの物語や、果ては神話の世界にまでたどり着くことができます。神話だからといって、はじめから相手にせずに無視するという愚かな行為は、何も生み出さないのみならず、我が国全体の歴史の喪失へとつながり、やがては国そのものが滅びる原因となってしまうのです。
ご先祖様からのかけがえのない宝物である、神話をはじめとした数々の物語を読むことで、私たちの先祖がそれぞれ一所懸命に暮らしてきたという事実を知ることができますし、またこれらの物語を次代に残すことによって、我が国の未来を永遠のものとする責務を、私たちが負っていることを忘れてはならないのです。
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(※第54回歴史講座の内容はこれで終了です)
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ぴーち こんばんは!
確かに作り話だからと高を括る事無く
そう言う事を踏まえて
より歴史への造詣が深まれば、良いですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
他国の神話は推奨して、自国の神話を否定するというところもいかがわしく思えます。