確かに主役がいなければ話になりませんが、主人公が活躍するために絶対に必要なのが「悪役」ですよね。物語などの世界で、悪役が憎々しげに振舞えば振舞うほど、最後の場面での主人公の大活躍に、私たちは溜飲(りゅういん)を下げることができます。
数多くの歴史上の人物の中には、いわゆる「悪役」の扱いを受けている人々が少なからず存在しますが、彼らのなかには、現代の私たちによって、一方的に悪役と決め付けられてしまっていることが多いのも事実です。
例えば、江戸幕府の5代将軍である徳川綱吉(とくがわつなよし)も、生類憐(しょうるいあわれ)みの令などの政策が後世の人々に誤解されてしまったことから、結果として「犬公方(いぬくぼう)」という有難くもない別名で非難されるようになってしまいました。
そして、その綱吉と同じくらい、あるいはそれ以上に「誤解」されたがゆえに、江戸時代で随一の「悪役」というレッテルを貼られてしまった人物こそが、今回紹介する田沼意次(たぬまおきつぐ)なのです。
※下記の映像は6月5日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
確かに、綱吉の場合も
庶民の立場を中心と見た時には
余りにも度が過ぎたお触れであった為に
悪人扱いされた訳ですからね(^_^;)
お犬様にとっては有り難い存在だった
かも知れませんが^^
世間一般の常識から外れた事を
する人間はどうしても悪と見なされる
傾向は強いですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 世間一般の常識から外れた事を
> する人間はどうしても悪と見なされる
> 傾向は強いですよね。
仰るとおりですね。田沼意次の場合も、それまでの「常識」を覆す政策だったことが、後世に誤解される一因となっています。
そんな折に、まさに「正義の味方」として現れる人物がいます。彼こそが松平定信(まつだいらさだのぶ)であり、定信は正義の力で意次を幕府から追放することに成功する(ドラマによっては意次が殺されることすらあります)と、以後は老中(ろうじゅう)となった定信の「寛政(かんせい)の改革」によって、庶民に平和が訪れるというストーリーがほとんどなのですが、この話って、本当のことなのでしょうか。
先述した綱吉の場合もそうですが、私たちは意識的につくられたイメージを頭から信じ込んで疑わなかったり、あるいは始めから結論を意識したうえで行動を起こしたりすることが良くあります。
時と場合にもよりますが、こうした固定観念や先入観にこだわっていては、歴史のみならず、あらゆる物事の真実をつかむことが難しくなるといえるでしょう。
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ぴーち こんばんは!
確かに先入観というのは怖いものだと思いますね。
もっとニュートラルで客観的な見方を大勢の
人が持ちあわせていれば、世の中
混乱が少なくなるかも知れませんけれど・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > もっとニュートラルで客観的な見方を大勢の
> 人が持ちあわせていれば、世の中
> 混乱が少なくなるかも知れませんけれど・・
現実にはそうはいかないところが残念ですよね…。
何とか改善してほしいのですが。
遠山景元は「金四郎(きんしろう)」の別名から「遠山の金さん」としてその名が知られているほか、「水戸黄門(みとこうもん)」こと徳川光圀(とくがわみつくに)や、南町奉行の「大岡越前(おおおかえちぜん)」こと大岡忠相(おおおかただすけ)とともに、現代でも「正義の味方」ともてはやされることが多いです。
しかしながら、ドラマの中の「金さん」としてではなく、歴史上における「遠山景元」の実像に関しては、意外と知られていないのではないでしょうか。
今回の講座では、田沼意次と松平定信のそれぞれの実像に迫ることで、二人のどちらが本当の悪役、いや「悪人」なのかを考えるとともに、遠山景元の波乱に満ちた生涯をたどりながら、天保の改革の真実や、その実行者である老中の水野と「金さん」との関係などについて探っていきたいと思います。
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ぴーち こんばんは!
確かにドラマとしては勧善懲悪の方が
話は盛り上がりますが、実際の人間というのは
正邪、どちらの心も持ち合わせているものですしね。
後日談が気になります^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 確かにドラマとしては勧善懲悪の方が
> 話は盛り上がりますが、実際の人間というのは
> 正邪、どちらの心も持ち合わせているものですしね。
> 後日談が気になります^^
仰るとおりだと私も思います。
後日談については、今後の更新をぜひご覧ください。
意次は若い頃から、後に9代将軍となる吉宗の子の徳川家重(とくがわいえしげ)の小姓(こしょう、身の回りの世話をする役目のこと)に抜擢(ばってき)され、家重の信頼を受けるとともに、実力を買われて出世していきました。宝暦(ほうれき)元(1751)年には、家重の御側御用取次(おそばごようとりつぎ)に就任し、宝暦8((1758)年には1万石の大名となりました。
家重は宝暦10(1760)年に隠居して、子の徳川家治(とくがわいえはる)が10代将軍に就任しましたが、家重が「意次は優秀な人物だから引き続き用いるように」と家治に勧めたこともあって、意次は家治からも厚い信頼を受けました。
その後、明和(めいわ)4(1767)年に正式に側用人(そばようにん)となり、明和9(1772)年には老中(ろうじゅう)を兼任するまで出世を重ねたのみならず、石高(こくだか)も最終的に5万7,000石にまで増え、遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)の相良(さがら)に新たに城を築きました。なお、意次が全盛期の頃は「田沼時代」と呼ばれています。
意次がここまで出世できたのは、二人の将軍に可愛がられたこともありますが、やはり彼自身の能力が極めて高かったのが主な原因でしょう。では、その意次の実力とはどのようなものだったのでしょうか。
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ぴーち こんばんは!
目上の人にかわいがられるということは
一つの才能ですよね^^
ただそれには確かに実力が伴わなわなければ
本物にはなれないのでしょうけれど。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 目上の人にかわいがられるということは
> 一つの才能ですよね^^
> ただそれには確かに実力が伴わなわなければ
> 本物にはなれないのでしょうけれど。
そのとおりですね。単なるおべっか使いではすぐに化けの皮がはがれます。
実は、当時の江戸幕府で賄賂をもらうことは「むしろ当然」という感覚がありました。なぜなら、賄賂を受け取れば、それだけ賄賂を贈ってくる側の諸大名や商人の勢力を削(そ)ぐことができるからです。従って、幕府の権力を保つためという口実のもとに、意次以外の幕閣も積極的に賄賂をもらっていたのが現実の姿でした。
加えて、そもそも有力な政治家に対して金品を贈ることは、現代の法律で認められた「政治献金」も含めて、昔も今もある意味当然の感覚ですし、当時の幕閣の中で、意次に一番実力があると誰しもが思ったからこそ、彼に賄賂を贈っていたとも考えられます。ちなみに、清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく、後ろ暗いところのないこと)で知られる松平定信も、幕閣入りを目指して意次にしきりに賄賂を贈っていたのは有名な話です。
さて、意次は、先述したように若い頃から徳川家重の小姓として仕えていましたが、8代将軍の徳川吉宗による重農主義の政治の結果によって、幕府の直轄地である天領(てんりょう)で一揆(いっき)が多発したのを間近で見ていました。
重農主義ではもはや幕府政治が機能しないということを悟った意次は、やがて政治の実権を握ると、現実的な重商主義に政治の姿勢を切り替えるとともに、開明的な政策を次々と実行していったのです。
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ぴーち こんばんは!
私もそう思います。
今でこそ、法的に賄賂は違反とされていますが、
私は政治家については余り存じませんが、
それでも政治家として独立独歩するにはそれ相当の
お金が必要だと思います。
もともと、親の代から政治に携わっている人物なら
何処からもお金を調達しなくても当然のごとく知名度もあり、また資金を賄う事も出来るでしょうけれど、無名から
立ち上がるとなると資金援助は欠かせないものだと思います。そう言う意味では
現代の政治家さんたち、誰でも叩けば埃が出て当然なのでは
無いかと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 政治かの判断は、その力、すなわち政治力の有無が決め手だと思います。
いかにクリーンであっても、無能では何の役にも立ちませんからね。
このようないわゆる「ドンブリ勘定」を続けていては、いつまで経っても経費節減ができません。そこで、意次の時代になって初めて予算制度が成立したのですが、費用の割合はどうだったのでしょうか。
意次が自己の保身を図ろうとすれば、当然将軍家や大奥の費用を多めに計上すると思いますよね。ところが実際は全く逆であって、年を経るごとに減らされていきました。その一方で、町奉行などの民政に関する費用は据(す)え置かれていますから、結果としてかなりの経費削減に成功していることになります。
本当に幕府のためになる政治を目指すのであれば、将軍家や大奥のご機嫌を取ることなく、思い切った手段を実行する。意次の「政治家」としての優秀さがうかがえる政策の一つですね。
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ぴーち こんばんは!
確かに金銭感覚って生活していく中では
一番必要な要素ですよね。
そう言えば、離婚した夫婦の男性側の理由で
第一番目は、妻の金使いの荒さだと
有りましたが、何時の世でも
お金の有り難さは持ちあわせていないと
いけませんね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 なるほど、そういう統計もあるのですか…。
予算という考えは重要ですね。
第52回歴史講座でも紹介しましたが、江戸幕府が公的な学問として採用した朱子学は、儒教に由来していました。
そして、その儒教でもっとも嫌われているのが、生産性が全くないうえに、「100円の価値しかないものを120円で売る」という行為自体が「卑(いや)しい」と見なされ、道徳的に認められていなかった、いわゆる「商行為」でした。
幕府の政策において、商業は「悪」とみなされているといっても過言ではなく、商人がどれだけ利益を上げても、彼らから所得税や法人税を集めるという発想自体がなかったのですが、意次は商人から直接税を集めるのではなく、彼らが扱う商品に税をかけることによって、幕府の収入を積極的に増やそうと考えました。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、商売が卑しいと見なされた発端が
意次の政策だった訳ですね。
それでも幕府の為に、自分が出来ることを
探した結果だと思うので、
国にとっては無くてはならない人物だったのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
こうした発想の転換は素晴らしいですね。
こうした発想の転換に対して、商人たちは「独占的に流通ルートを認めてくれるのならば」と、条件付きで税を支払うことに応じました。かくして、幕府と商人たちとの思惑が一致したことによって、営業の独占権を与えられた「株仲間(かぶなかま)」が、幕府の幅広い公認を受けることになりました。
株仲間が扱った商品は油や紙にロウソク、綿などの日用品や、銅や鉄などの金属が中心であり、江戸では十組問屋(とくみどんや)、大坂(現在の大阪)では二十四組問屋(にじゅうよくみどんや)が結成されました。
彼らから集められた運上(うんじょう)や冥加(みょうが)によって、幕府財政も潤(うるお)い、商業の繁栄が経済規模を全国的に拡大させるとともに、景気を上向かせる要素にもなりました。
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ぴーち こんばんは!
やはり大阪は商人の街ですね!
今でもお商売に関しては大阪商人の
右に出るものは居ないのでは無いでしょうか^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > やはり大阪は商人の街ですね!
> 今でもお商売に関しては大阪商人の
> 右に出るものは居ないのでは無いでしょうか^^
確かにそうですね(笑)。
商人と幕府の思惑が一致した効果は大きいと思います。
東日本では小判などの金貨が中心の「金遣(きんづか)い」であり、両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)といった単位で通用していたのに対して、西日本では銀貨が中心の「銀遣い」で、しかも銀を貫(かん)や匁(もんめ)といった重さの単位で、量をはかって通用させる方法を採用していました。
このため、東西で取引を行おうと思えば両替をしなければならず、また金と銀との相場が必ずしも一定しなかった(これを変動相場制といいます)ために、金銀交換の制約になっていました。
そこで、意次は明和2(1765)年に明和五匁銀(めいわごもんめぎん)をつくり、実際の質や量に関係なく5匁の銀として通用させ、明和五匁銀を12枚、つまり60匁で金1両と交換できることとして、金と銀とを初めて一本化させましたが、残念ながらあまり流通せずに終わりました。
しかし、あきらめなかった意次は、明和9(1772)年に南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)をつくり、朱という「金の単位をもつ銀貨」を流通させることに成功しました。南鐐弐朱銀8枚が金1両と同じ価値となり、我が国での通貨の一本化がさらに進められることになったのです。なお、南鐐とは「上質の銀」という意味です。
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ぴーち こんばんは!
金と銀の価値の差を
金は上の下。銀は上の上
くらいの所に、もってくれば
丁度釣り合うという事なのでしょか^^
そう言えば、ヨーロッパのユーロ通貨の時も
きっと大変だったのでしょうね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 南鐐二朱銀は、銀貨を金貨と同じ価値と認めたことが大きかったようですね。
ユーロに関しては、イギリスが参加しないなど、当初から色々ありますね。
干拓事業の主な目的は新たな農地の開発でしたが、付近を流れる利根川(とねがわ)からの水路を開削(かいさく)して、江戸への物資輸送の近道を造ることも大きな目標でした。この事業が完成すれば、江戸と北方とを結ぶ船の航路の大幅な短縮が見込まれ、商品流通の活性化が期待されていましたが、無念にも天明(てんめい)6(1786)年に起きた大洪水によって、干拓は失敗に終わってしまいました。
一方、意次は長崎における貿易にも力をいれました。それまで縮小気味だった貿易の規模を拡大し、金銀を積極的に輸入するという、いわゆる外貨の獲得を目指したのです。しかし、輸入の量を増やそうと思えば、それに見合うだけの輸出量を確保しなければいけません。
そこで意次は、輸出品として国内で産出量が増えていた銅や、海産物としてイリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)やホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)、フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)といった俵物(たわらもの)を使用しました。外貨の獲得のために特産物の増産をはかることも、重商主義による一つの成果といえます。
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ぴーち こんばんは!
普通の人間なら、大洪水で終わってしまえば
落胆して立ち上がれそうにも有りませんが、
そこが意次の強みなのでしょうね。
そこがダメなら、また違う作を練りなおして
挑むその強靭な意欲はすごいと思います!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、意次の強みは、たとえ失敗しても、そこから這い上がる努力にあると思います。現代人も見習うべきですね。
意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前藩(まつまえはん)に経営を任せていた蝦夷地の直轄を計画しました。天明5(1785)年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また意次は、アイヌの生活の向上を目指して、農作業を教えようとまで計画するなど、アイヌの自立も目指していました。これは、アイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支えるサケや毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは、全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが、意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。
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ぴーち こんばんは!
ロシアが南下して来る事を懸念して
それならば、好戦的な構えよりも
むしろ友好関係を密にしてしまおうとする
意次の計画が功を奏したという事でよろしいでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰る考えではないかと思われます。このままスムーズにいけばよかったのですが…。
また、西洋医学の解剖書を訳した「解体新書(かいたいしんしょ)」が、前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成されたのも、安永(あんえい)3(1774)年の田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠の一人であり、画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
これらのように、画期的かつ斬新な政治を行ったことで経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、政策の展開を苦々しい思いで見ている人物も少なくありませんでした。
彼らは、商人の力を借りることは恥であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めが、と意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめていた、旧来の身分の高い人々でした。
また、これとは別に、田沼時代の政権末期の頃までに、意次は庶民から大きな反発を受けていました。なぜそんなことになったのでしょうか。「賄賂の横行で政治が腐敗したからだ」と思いがちですが、実は、意次個人にその責任を負わせるには、あまりにも酷(こく)な「自然現象」が本当の理由だったのです。
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ぴーち こんばんは!
どうしても成功した者に対しての嫉妬心は
起こりやすい物ですし、また、起こりやすいけれど
一番醜い考えでも有りますよね。
嫉妬心を起こすという人間は、ただ成功したという
結果しか見ようとせず、それ以前の努力の軌跡を考えようとも、想像しようともしないですね。
結局、全く苦労というものを知らない人間なのでしょう。逆に
ある程度、自分で苦労しした人間は
嫉妬心を起こしにくいものだと思いますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私もそう思いますが、経験談として、自分の苦労を鼻にかける人間は、やはり同じく嫉妬する傾向にありますね。
ぴーち おはようございます!
そうですか。
いわゆるそれは慢心というものですね。
自分がしてきた苦労をすっかり忘れてしまっているか、或いは傍から見ている程、その人が
本当の意味での苦労を味わっては居なかったという
意味も有るかも知れませんよね。
いづれにせよ、一番恥ずべき心ですよね。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 仰るとおりです。世の中には色々な人がいますからね。
しかも、噴き上げられた灰が成層圏(せいそうけん、対流圏の上にある高さ約10~50キロの大気層のこと)にまで達し、その後も長く留まって日光の照射の妨げになったことで、不作が助長されて大飢饉(だいききん)になってしまったのです。
この飢饉は、当時の年号から天明の大飢饉と呼ばれ、噴火以前の天明2(1782)年から天明8(1788)年まで長く続きました。
なお、浅間山と同じ年の1783(天明3)年には、アイスランドのラキ火山が同じように噴火しており、天明の大飢饉の理由の一つに数えられるとともに、北半球全体が冷害になったことで、1789(寛政元)年のフランス革命の遠因にまでなったと考えられています。
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ぴーち こんばんは!
悪い事もまた一つが起こると
次から次へと連鎖的に起こるものですね。
こういう時は、大体時の政治家が槍玉にあがる事が
多そうですが、意次はどうだったのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > こういう時は、大体時の政治家が槍玉にあがる事が
> 多そうですが、意次はどうだったのでしょうか・・
残念ながら、仰るとおりの流れになります。
不幸の連鎖のおまけつきで…。
そして、当時は「天災が起きるのは政治を行っている人間のせいである」という考えが信じられていたので、これらの責任の一切を意次が背負わなければならなかったのです。
一揆や打ちこわしが多発する殺伐(さつばつ)とした世が続くなかで、意次の身にさらに悲劇が起きました。息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が、天明4(1784)年に江戸城内で襲撃を受けて死亡したのです。
意次の悲劇はさらに続き、後ろ盾(だて)となっていた将軍家治が天明6(1786)年に死去すると、政治に対する非難が殺到していた意次は老中を辞めさせられ、失意のうちに天明8(1788)年に亡くなりました。
そして、15歳で11代将軍となった徳川家斉(とくがわいえなり)を補佐するかたちで、意次にかわって天明7(1787)年に老中となったのが、松平定信だったのです。
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何時の時代も、悪い事の原因は「人のせい」
だと思うのは、人間の業ですね(^_^;)
仏教的に解釈すると、この世で自分の身に起きた
すべての悪因は、過去世で自分自身が積んできた業が原因だとは誰もが思いもよらない所がまた悲しい性でもあります。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 何時の時代も、悪い事の原因は「人のせい」
> だと思うのは、人間の業ですね(^_^;)
> 仏教的に解釈すると、この世で自分の身に起きた
> すべての悪因は、過去世で自分自身が積んできた業が原因だとは誰もが思いもよらない所がまた悲しい性でもあります。
確かに仰るとおりですね。
現世にも通じる教訓だと思います。
定信は自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは、当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨んでいました。
そのこともあったからなのか、定信は自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策を、ことごとく打ち切りにしてしまったのです。
老中に就任した定信は、祖父にあたる徳川吉宗を理想とする様々な政策を行いました。彼の政治は「寛政の改革」と呼ばれていますが、その中心は徹底した緊縮財政をはじめとする、前政権の田沼時代の全否定でした。
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ぴーち こんばんは!
松平定信も、悪いことは人のせいに
するただの愚人でしたか。
同じ事を二人の人間が同時にしたとして
片方は何故か持て囃され、
片方は何故か罵られたりする。
そう言う運気の極めて悪い人物が居ますが、
これも勿論そう言う結果を招くそれぞれの
善業と悪業が存在する訳ですが、
なかなか人間は、そう言う風に考えられる人ばかり
は居ないので、争いごとが絶えないのは
世の常ですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、仰るとおりですね。
このような政治家に世をまかせたらどうなるのか、これから詳しく紹介します。
また寛政3(1791)年には、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が、我が国における海岸防備の必要性を説いた「海国兵談(かいこくへいだん)」を著しましたが、定信は「世間を騒がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。だとすれば、我が国は現実より半世紀以上も前に開国し、幕末に黒船に迫られて、相手の言われるままに欠陥だらけの不平等条約を結ばずに済んだかもしれません。それを思えば、海国兵談の発禁処分は、定信による「痛恨の失政」でした。
また、定信は海国兵談の他にも、政治を風刺(ふうし)したり、批判したりする書物の発行を禁じるとともに、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)なども風俗を乱すという理由で発禁処分にしました。これらの命令は出版統制令と呼ばれています。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
恨みや妬みの気持ちだけに集中していると
他の大事な事を全て見失ってしまうことは
よくある話ですよね。
憎悪の炎を燃やしているうちに、自分の身も
燃やしてしまう羽目になるという事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
しかも、そのことが当人のみならず、我が国全体に大きな影響を及ぼしますので…。
オバrev トップの決断は、国の将来を左右するんですねぇ。
それだけ、トップに立つ人は、人の意見を聞く耳を持つ必要がある気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
他人の意見を聞かない独裁者に国政をまかせると、ろくなことがないのは歴史が証明していますね。
これらは、享保の改革の際と同じように、この時代に「寛政文化」と呼ばれるものが存在しない大きな原因となりましたが、その一方で、節約で浮いた町費(ちょうひ)の七割を積み立てさせ、江戸町会所(えどまちかいしょ)に運用させることで、飢饉の際などの非常時の貧民の救済に利用しました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また、寛政の改革が始まった頃には天明の大飢饉がまだ続いており、庶民の暮らしは不安定になっていました。そこで、定信は飢饉に備えて各地に社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)をつくらせて、穀物を蓄(たくわ)えさせました。これを囲米(かこいまい)といいます。
この他、定信は現代の刑務所の原点ともいえる、無宿人(むしゅくにん)への職業訓練施設としての石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を設置しましたが、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)」で有名な、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。
※下記の映像は6月21日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
おお!
鬼平犯科帳ですかw
我が家の母はほぼ毎日再放送を観ています(^_^;)
長谷川平蔵は、実在する人物だったんですか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、実在の人物です。
定信の部下ではありましたが、折り合いは悪かったようですね。
しかし、棄捐令はいわゆる徳政令と同じ意味を持ちますから、旗本や御家人の収入を増やすといった抜本的な改革がない限り、結局は一時しのぎに過ぎないばかりでなく、再び借金をする際には、棄捐令で痛い目にあった札差から断られる可能性もあり、逆効果に終わってしまうという一面もありました。
定信は田沼時代に進められた重商主義を徹底的に否定し、吉宗の時代よりも厳しい重農主義の政治を行いました。その中の一つに旧里帰農令(きゅうりきのうれい)があります。これは、地方から江戸に流れてきた農民を無理やり元の農村に帰すという法令ですが、そのままの政策で農村へ帰されたところで、待っているのは今までと同様の苦しい生活の日々でしかありません。
重農主義に戻すということは、吉宗の時代と同じく現実には不可能な「米本位制」を続けるということですから、いくら農村に帰したところで、いずれは再び江戸へ出て来ざるを得なくなるというわけです。かくして旧里帰農令は失敗に終わり、後の天保の改革の際に、同じような法令である「人返しの法」を出す結果になってしまいました。
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ぴーち こんばんは!
根本的な解決に至らないばかりか、かえって
それでは反感をかわれてしまいますよね。
急場しのぎで思いついた政策なのかも知れませんが、ある時代ではそれが成功しても、違う時代では
全く有効性を見いだせなくなるものですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、根本的な改革をなしえない以上、全く無意味ですよね。
寛政異学の禁によって、諸藩も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学が衰退する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策ぶりです。
ちなみに、湯島聖堂は定信が老中を退任した後の寛政9(1797)年に幕府の直営となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と称されました。昌平坂学問所はもともと幕臣の子弟の教育所として発足しましたが、後に藩士や牢人(ろうにん)の受け入れも許したことで、全国からの英才を集めて活気にあふれました。
なお、昌平坂学問所は現在の東京大学の流れにつながるほか、明治以降に同じ場所に設立された東京師範学校や東京女子師範学校は、現在の筑波大学やお茶の水女子大学の源流となっています。
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ぴーち こんばんは!
祖父である吉宗の考え方とは
全く逆行した考え方を定信はしていたのですね。
何かこの血筋の間にあったのでしょうかね?(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 恐らくは、血筋よりも朱子学への没頭が大きかったのではないかと思われます。
学問も時としてはマイナスに作用しますね。
寛政の改革当時に在位されておられた光格(こうかく)天皇は、閑院宮家(かんいんのみやけ)からご即位されましたが、天皇の父君であられる閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)のお立場が、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の規定によって、摂関家(せっかんけ)より下となっていました。
このため、天皇の御尊父(ごそんぷ)が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっており、事態を重く見られた光格天皇は、父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
「皇位についていない皇族に尊号を贈る」というのは、鎌倉時代の後高倉院(ごたかくらいん)と室町時代の後崇光院(ごすこういん)という先例が過去に2回もあり、特に問題はないだろうと思って朝廷側は幕府にお願いしたのですが、定信によって問答無用で拒否されてしまいました。
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ぴーち こんばんは!
今日のお話はどうも私にとっては雲の上の話で
イマイチ、ピンと来ない事をお許しください(^_^;)
どうして、過去2回の例があったにも関わらず
拒否してしまったのでしょうかね?
完全に定信の独善的な考え方による結果だったのでしょうか?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 完全に定信の独善的な考え方による結果だったのでしょうか?
朱子学においては主君への「忠」が重視されていました。一方、天皇のご尊父への太上天皇の尊号を贈ることは「孝」になります。定信は、幕府の封建体制の確立のために、「孝」よりも「忠」を重視したという見方もありますね。いずれにせよ、この際の強引な手法が、後々にまで尾を引くことになります。
オバrev う~ん、融通が利かないというか、普段の仕事でも思いますが、完璧主義と言うのは、どこかで無理が来る気がします。
かと言って、私のように大雑把過ぎてもいけませんけど^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 大雑把な方が国民を幸福にすることもありますからね。
この場合はあまりにも融通が利かなさ過ぎでした。
11代将軍である徳川家斉は、吉宗が御三家と同じように「血のセーフティーネット」として、自身の血統から新たに設立した御三卿の一橋家(ひとつばしけ)の出身でした。
家斉は親孝行の思いから、父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に対して、前の将軍を意味する「大御所(おおごしょ)」の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて寛政5(1793)年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は約6年で幕を閉じました。なお、定信の失脚後も、老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが「寛政の遺老(いろう)」として政治を行っています。
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ぴーち こんばんは!
確かに自分の理想だけを押し付けてみても
結局は何処かでその理想も引きずり落とされてしまう
時が来るものですね。
相手や周りの意見にも耳を傾ける姿勢が
定信には足りなかったのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、全く不足していましたね。
まさに反面教師です。