歴史が単なる「暗記科目」ではない以上、ひとつの事例をどれだけ詳しく説明しようが、それらをバラバラに紹介しては無意味なのです。
例えば、幕末において「討幕の密勅(みっちょく)」「大政奉還」「王政復古の大号令」「戊辰(ぼしん)戦争」などの大きな出来事が立て続けに起きましたが、これらはすべて一本の線でつながっており、その流れを理解することで、より知識を深めることが可能となるのです。
ここからは、実際の授業で行った経験を基本として、討幕をめぐる動きに関する「歴史の大きな流れ」を改めて振り返ってみたいと思います。
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ぴーち こんばんは!
確かにパズルのピースの欠片を
目の前にバラバラに出されても、
見た瞬間にそのパズルが何の写真(絵)
なのか直ぐに理解出来る人は
殆ど居ませんものね。
物語の様に1つの流れとして
勉強させて
貰えるのは羨ましい限りです^^
黒田さんの授業を受けた生徒さんたちは
幸運とも言えますね!
オバrev おぉ、成る程!
確かに歴史といえども、1つの事象はその原因があって、起こるべくして起こっているはずですから、流れの中にある事象は、何の繋がりもなく起こることはないですよね。
そこを掴むと、歴史の理解度が深まりそうです(^O^)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お褒めのお言葉と分かりやすい例えを有難うございます。
この1年間、私も楽しく授業ができました。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
ここからは、どのような流れで生徒たちに理解させるかを重点的に紹介していきたいと思います。
しかし、当時の幕府の権威は著しく下がっており、社会不安も増大していました。全国で「世直し」と呼ばれた一揆(いっき)や打ちこわしが発生したり、伊勢神宮へのお蔭参りが「ええじゃないか」という集団乱舞につながったりしたことがその証拠です。
そんな中、慶応2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩・長州の両藩は、公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、どれだけ優位に展開していようが、薩長が「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。
なぜなら、幕府が成立した背景に天皇が深くかかわっておられるからであり、この事実をしっかり理解できなければ、本来は楽しく学べるはずの歴史が、苦痛でしかない「単なる知識の暗記」で終わってしまうのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
「ええじゃないか」と言いながら
乱舞する場面を以前ドラマでも拝見した事が有りましたが、その現象の大元となった原因はその時には理解する事が出来ませんでしたが、こうしてわかりやすく文章にしてくださると、理解度が深まります。
有難うございます。
天皇が関わっていたとなると、確かに不可能に近い企てとなった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそお言葉有難うございます。
仰るとおり、天皇がかかわられると、我が国の流れが変わります。
詳細は明日の更新をご覧ください。
我が国における征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、チャイナの将軍と同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と拡大解釈され、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権たる鎌倉幕府が朝廷から公認されるという扱いとなったのです。
朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を朝廷から、すなわち「天皇に委任される」ことになりました。もちろん、この流れは室町幕府も江戸幕府も変わりません。
要するに、江戸幕府は「天皇のお墨付き」をもらっていたも同然であり、いかに武力で勝ろうとも、そんな幕府をいきなり討つことは、天皇に弓を向けるも同然の行為であり、絶対にできなかったのです。
ところが、「不可能を可能にする」手段が一つだけありました。それは、天皇ご自身から「幕府を倒すように」という命令をいただくことです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど。。
人間の体で言うと
免疫細胞に直接細工を施すような
そんな大胆な作戦を考えたということんでしょうかね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人間の体で言うと
> 免疫細胞に直接細工を施すような
> そんな大胆な作戦を考えたということんでしょうかね(^_^;)
ユニークな例えですね(笑)。
人間は、時には「コロンブスの卵」のような大胆な発想の転換が必要ですね。
討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇によって倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。
しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入などによって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。
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ぴーち こんばんは!
なるべくなら、無駄な血など
流したくは有りませんものね。
首脳同士の会談のみで、事が丸く治まるので
あれば、それに越したことは無いのと同じですね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹
仰るとおりですね。
血を流さないようにするためにも、徳川家を何とかしなければなりません。
そのための手段は…。
公武合体の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま、武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)が、討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか、と将軍・徳川慶喜に提案しました。
このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜は、山内の策を受けいれ、討幕の密勅と同じ日の慶応3(1867)年旧暦10月14日に、朝廷に対して大政奉還を申し出ました。
朝廷が慶喜からの申し出を受け、大政奉還を受理したことで、徳川家康(とくがわいえやす)以来260年余り続いた江戸幕府は、ついに終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
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ぴーち こんばんは!
今回のお話の流れからすると、確かに土佐藩の
考え方は的確で最良だったと思いますが、
受ける幕府側も同じ様に、なるべく事を穏便に解決しておきたいと言う双方の思惑が合致した結果だったのでは無いかと思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
いずれにせよ、大政奉還で歴史が大きく動きはじめました。
先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものは、いずれは必ず「返す」ことになりますよね。
だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還し奉る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの「討幕の密勅」がその根拠を失うという概念も成立させてしまいました。
さらには、徳川家がほぼ無傷で生き残ったことで、来るべき新政権の中心的存在として、そのまま政治の実権を握り続けるという可能性をも秘めるようになったのです。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤(いきどお)った薩長両藩や公家の岩倉具視らの討幕派は、慶応3(1867)年旧暦12月9日に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを「王政復古の大号令」といいます。
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ぴーち こんばんは!
敵もさる者引っ掻く者・・
さすが幕府もなかなかですね^^
薩摩藩の行動はどう出たのでしょうか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ここまで来ると、まさに「キツネとタヌキの化かし合い」ですね。
薩長が考えた奥の手とは…。
天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大号令の直後に官職の大改革を実行しました。
すなわち、それまで1000年以上続いた摂政や関白を廃止し、新たに総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を創設したのです。
総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩の木戸孝允(きどたかよし、別名を桂小五郎)、土佐藩の後藤象二郎らが任命されました。
新たに創設された三職に、徳川家の名前はありませんでした。これによって徳川家が新政権への参加の道を断たれたのみならず、討幕派が中心となった新政府は、さらなる追い討ちを同日のうちに徳川家にかけたのです。
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ぴーち こんばんは!
これは、なんというのでしょうか・・(^_^;)
天皇という畏れ多い存在を後ろ盾に
することで物事を動かそうと言う人間の
思惑がここでも・・ですか。
その後の大東亜戦争時でも
天皇を現人神として祀られた様に。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 時の為政者が天皇の権威にすがるのは、実は我が国でずっと行われてきたことですからね。
今回の王政復古の大号令はもちろん、幕府の成立の過程においても同じです。
ぴーち そうですか。
困ったときの「上(かみ)」頼みとでも言いましょうか(^_^;)
何か天皇という存在が、何時の世も便利にあしらわれている様で、なんとも引っかかりますね。。
ぴーちさんへ その2
黒田裕樹 確かにそういう一面はありますね。
もっとも、天皇陛下のご存在によって、我が国の統率がとれたという事実もあります。
慶喜の内大臣の地位と天領を没収しなければ、徳川家に巻き返しの可能性を持たせてしまうと判断した新政府は、王政復古の大号令が発せられた12月9日の夜に、明治天皇ご臨席のもとで小御所(こごしょ)会議を開きました。
旧幕府側の前土佐藩主の山内容堂らは、この会議に前将軍の徳川慶喜が出席できないことを抗議しましたが、岩倉具視らが受けいれないなど話し合いは紛糾(ふんきゅう、意見や主張などが対立してもつれること)し、やがて休憩に入りました。
休憩時、岩倉は外で警備をしていた西郷に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開けると岩倉を勇気づけたのでした。
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ぴーち こんばんは!
そうですよね。
人間にとっての一番の脅威は
「命知らず」であり、捨て身の覚悟ですもんね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
西郷隆盛の覚悟が、歴史を大きく動かしたことになります。
小御所会議の結果、慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。これを辞官納地(じかんのうち)といいます。
しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所会議の内容が骨抜きにされ、慶喜の実権が温存されようとしました。
このため、西郷隆盛が最後の手段とばかりに、江戸の商家を薩摩藩という身分を隠さずに片っ端(ぱし)から襲って旧幕府を挑発し、慶喜の名誉が回復する前に戊辰(ぼしん)戦争を起こさせることに成功しました。西郷による「なりふり構わぬ策士ぶり」が、歴史を大きく動かしたことになりますね。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど。
決死の思いがあればこそですね。
なんでもそうでしょうけれど、相手の心を
動かすには、生半可な思いでは通じないという
事なのでしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
歴史を動かすのは、生命を賭けた行動も時には必要ですね。
討幕を行いたい薩長両藩だが、「天皇の信任」を受けている幕府をそのままでは倒せない
↓
朝廷から「討幕の密勅」が下され、武力討幕が可能となる
↓
徳川慶喜が「大政奉還」を行い、将軍の地位を返上する
↓
幕府の存在がなくなったため、「討幕の密勅」が根拠を失う
↓
討幕派が「王政復古の大号令」を実行し、天皇親政の新たな政治体制を目指す
↓
同日のうちに三職の選任と小御所会議を行い、徳川家に付け入る隙(すき)を与えない
↓
徳川家が何と巻き返しを図ろうとする
↓
西郷隆盛が旧幕府を挑発し、「戊辰戦争」へと引きずり込む
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
余り西郷さんの事は存じませんが、
この判断力を瞬時に発揮出来るという事は、
それまでの人生の中で、そういう場面を
いくつも熟して、幾多の修羅場を乗り越えて来なければ出来ない事だったと
思いました。
豊富な経験と共に、いつでも全力投球、全身全霊で物事にぶつかって来られた証なのではないかと
思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
自らの経験に基づいた、西郷隆盛の覚悟が大きく歴史を動かしたことになります。
しかし、現実にはこれらの項目はバラバラに教えられることが多く、結果として暗記力のみが問われることになり、生徒に負担をかけることが多くなっているようです。なぜこのようなことになっているのでしょうか。
今回の4つの出来事のうち、「討幕の密勅」「大政奉還」「王政復古の大号令」の3つには、いずれも朝廷、すなわち天皇のご存在が深くかかわっています。また「戊辰戦争」も、今回は深くは取り上げませんが、いわゆる「錦の御旗(みはた)」によってその後の戦況が大きく変わったという事実もあります。
これらの「大きな歴史の流れ」を理解すれば、天皇のご存在が我が国にどれだけ大きな影響を与えているかが「分かってしまう」ことに対する、何らかの動きが見られるのでは、というのは考えすぎでしょうか。
いずれにせよ、厳然たる事実を示したうえで、それらにもとづいて生徒一人ひとりが自分なりの意見を持つようにするのが教育の基本である以上は、教師としてこうした姿勢を順守するのは当然のことではないかと私は自覚しております。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
天皇に対する何らかの動きですか。
それは例えば、天皇の存在を利用すれば
天下を統一することが出来るのでは
無いかというヒントを見す見す与えてしまわない
ようにとか。
或いは、外国を相手にするとしたら
天皇の存在の有無が日本にとっての最大の
弱点にもなりうるのではないかという視点を
有耶無耶にし逸らそうという意図でも
あったのでしょうか・・?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
あるいは「天皇のご存在あっての日本」ということが分かってしまえば、困るような人々がいるからかもしれません。
国名
- 青田です。
たしか、私の記憶が確かなら、
日本の正式名称が
『大日本帝国』になったのは、この時からだった気がしますが。。。
今は、
単なる地名のような『日本国』と『大』、『帝』が削除されていますが、、
青田さんへ
黒田裕樹 「大日本帝国」の名称が使用され始めたは、江戸末期の外交文書が初見のようですね。
正式名称は…憲法制定の頃でしょうか。
一般的には「中央集権体制をつくり上げるため、地方の独立組織であった藩を廃止し、政府直轄の県を置いた」という歴史的事実が知られていますね。
もちろん、そのような目的で廃藩置県が断行されたのは間違いありませんが、実は、廃藩置県には「もう一つの隠された目的」があり、それを学ぶことで、歴史のさらなる大きな流れを理解できるようになるのです。
ここからは、廃藩置県がもたらした「士族の受難」、さらにそこからも続く大きな歴史の流れについて、分かりやすく紹介していきたいと思います。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
士族の受難ですか・・
やはりそれまで行われて来た制度が
一変してしまうと、そこにこれまで
携わって来た者の役目を終える、或いは
変化してしまうことでしょうから、
それはそれで一大事だった事でしょうね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、一大事でした。
廃藩置県から士族の受難につながる歴史の流れをじっくりと見極めていきたいと思います。
しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには、権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために、中央集権化をめざす必要がありました。
このため、政府は明治2(1869)年旧暦1月に、木戸孝允(きどたかよし)や大久保利通(おおくぼとしみち)らの働きかけによって、薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4藩主に、連名で版籍奉還(はんせきほうかん)を出願させました。
版籍奉還とは、藩が持つ領地(=版図)と領民(=戸籍)を還(かえ)し奉(たてまつ)る(=朝廷に返上する)ことであり、朝廷=天皇にお返しするという形式に、すなわち天皇を前面に押し出すことで、他の諸藩も返還に応じやすくさせるという思惑がありました。なお、政府は同年旧暦6月に、諸藩に版籍奉還を命じています。
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ぴーち こんばんは!
確かに
国内が比較的平穏であるときには
それぞれ地方の役人が指揮を取って
活動していればそれで良かったのでしょうけれど、
外国を相手にするとなると、国内の
意向がバラバラであれば、そこに一気に
付け込まれてしまう危険性も孕んでいますものね
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさに仰るとおりです。
中央集権を急ぐ理由はそこにあったんですね。
政府が、藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、「領地」と「領民」を返上させる一方で、「政治の実権」を残した背景には、いきなりすべての権利を奪ったのでは、各藩主の反発があまりにも大きいと判断したという事情がありました。
しかし、我が国における完全な中央集権化を目指していた政府からすれば、版籍奉還だけでは「不完全」であることに変わりはありません。
また、政府の直轄地である府や県では、年貢の徴収をめぐって一揆が多発したほか、諸藩でも、従来と変わらない徴税に対する庶民の不満が高まるなど、抜本的な改革が求められるようになっていました。
このため、政府は藩制度を全廃することを決断しましたが、すべての旧藩主から政治の実権を一方的に奪うことになりますので、慎重に対策を講じました。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
政府側の立場からすれば
「薄氷を踏む思い」だった訳ですね。
薄皮を剥ぐように
慎重に慎重を重ねた対策。
なかなか難しいですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
国政の運営は大胆かつ慎重でないと務まらないと言いますが、通常では不可能なことを可能にしてしまうところがすごいですね。
これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には、新たに中央政府から府知事や県令が派遣されました。
廃藩置県は大きな混乱もなく平和的に行われ、政府による中央集権体制が名実ともに整いましたが、このことは、我が国に在住する諸外国人から驚きの声があがりました。なぜなら、廃藩置県によって、我が国で長く続いてきた「特定の領主がその領地を支配する」という土地制度が根本的に改革されてしまったからです。
それまで当然のように持っていた領地への支配権を、わずか一日で無理やり没収されるのですから、激しい軍事的抵抗があってもおかしくなかったのですが、なぜ廃藩置県は劇的に成功したのでしょうか。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
はて?
どうしてでしょうか(^^ゞ
天皇直々のお言葉となれば
それに逆らう術は誰も持たなかったのでは
無いでしょうかね?
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 天皇直々のお言葉となれば
> それに逆らう術は誰も持たなかったのでは
> 無いでしょうかね?
それがあったのも間違いないですが、他にも大きな理由があります。
詳しくは次回の更新をご覧ください。
まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた、「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概によって支えられていたのです。
また、他に経済的な事情がありました。この頃の諸藩の財政はほとんどが破綻(はたん)しており、多額の負債を抱えていましたが、廃藩置県によって明治政府が肩代りすることになったのです。この他にも、旧藩主が華族として優遇されていたことや、旧藩士に与えられていた俸禄(ほうろく)を政府が当分の間保証した、という現実的な一面もありました。
なお、廃藩置県によって当初は3府302県が置かれましたが、その後統廃合が繰り返され、明治21(1888)年には現在に近い3府(東京・大阪・京都)43県となっています。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
なるほど、背に腹変えられない理由が
そこに存在していたわけですね。
確かに日本人は伝統やこれまでの慣例を
重んじる傾向が強いですものね!
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
歴史を動かすには、様々な裏事情が存在するものです。
しかし、我が国の軍事力を支えていた多くの武士をいきなり路頭に迷わせてしまえば、大混乱のうえに、諸外国の侵略を招くのは目に見えていました。
また、欧米列強にも負けない近代的な軍隊を編成することも考えていた政府にとって、武士に頼らないためにも、すべての国民が兵役に服するべきであるとする、いわゆる「国民皆兵」が重要であると考えるようになりました。
国民皆兵は、初代の兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎(おおむらますじろう)が唱えていましたが、明治2(1869)年に暗殺されると、その遺志を継いだ山県有朋(やまがたありとも)によって具体化されました。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
皆兵の意図は、
単なる外国だけに意識を向けた方策
ではなく、国内の氾濫も同時に防ぐという
苦肉の策だった訳ですか・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 一つの事象には、今回に限らず様々な思惑が絡んでいることが良くあります。
それを見極め、大きな歴史の流れを実感するのも勉強ですね。
徴兵令によって、満20歳に達した成年男子全員が、身分に関係なく3年間の兵役義務を負うという、近代国家としての兵制が整えられましたが、現実に軌道に乗るまでには、様々な紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。
当初の徴兵令には様々な例外規定があり、戸主や官吏・学生などは兵役が免除されていたほか、代人料として、当時は高額だった金270円を納めた者も免除されており、「徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのこころえ)」のような冊子(さっし)をつくって売る人物もいたそうです。
このため、実際に兵役についたのは、ほとんどが農家の二男以下でした。また、徴兵告諭の中の外国語を直訳した「血税」という言葉が、「徴兵されたら血を抜かれる」と誤解されたことで、全国で「血税一揆」などの騒動が起きるなど、当初は混乱が多発したものの、国民皆兵は次第に我が国に広がっていきました。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
血税をですか・・(^^ゞ
当時の教育水準は今のように
高くは無かったでしょうから、
言葉の意味を誤解なさった方が
大勢居たんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 教育水準については様々な意見があるとは思いますが、少なくとも外国語を直訳してすぐに理解できるというのは、相当な水準が求められると思いますね。とはいえ、その後に国民皆兵が定着したのは、現代とは全く異なる世界情勢を鑑みれば、当時としては及第点だったと思います。
明治2(1869)年、藩主や公家は華族、藩士や旧幕臣は士族、それ以外のいわゆる「農工商」の農民・町人は平民とされました。また明治3(1870)年には平民も苗字を名乗ることが許され、華族・士族との結婚が許可されたほか、職業選択や移転の自由も認められるようになりました。
さらに明治4(1871)年には身分解放令が出され、従来の差別的な呼称をなくし、平民と同じ扱いにしました。
こうして我が国で「四民平等」が実現しましたが、武士ではなく「士族」となったことが、廃藩置県や徴兵令と相まって、俸禄などの武士の特権を奪いやすくする流れをもたらしたのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
四民平等になった時から
職種も自由に選択出来る様に
なったのですか!
考えてみれば、この当時の人々に
とっては、天と地がひっくり返る
程の改革だったのでは無いかと思いました^^
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
実際には江戸時代の身分制後も、建前的なところがあったんですが、それが晴れて公認された効果は大きかったと思います。
これらの禄を合わせて秩禄(ちつろく)といいましたが、その支出額は国の歳出の約30%を占めており、先述のとおり、政府にとって大きな負担になっていました。
また、明治6(1873)年には徴兵令が定められたことで、士族とは無関係で兵力を確保できる見通しが立つようになったことから、政府は同じ明治6年に、希望者に対して秩禄の支給を停止する代わりに、一時金を支払う秩禄奉還の法を定めました。
現代でいえば、早期の希望退職者の募集に相当するこの制度によって、全士族の約3分の1の秩禄が整理されました。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
政府も対価を支払う事に対して
苦労した様ですね(^^ゞ
尤も、早期退職希望届けを出して
早期に退職金を受け取って
後で算出してみたら、定年まで
働いた後の退職金よりも少なくて
がっかりさせられたなんて言う話も
耳にしたことが有りますが・・(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 尤も、早期退職希望届けを出して
> 早期に退職金を受け取って
> 後で算出してみたら、定年まで
> 働いた後の退職金よりも少なくて
> がっかりさせられたなんて言う話も
> 耳にしたことが有りますが・・(^^ゞ
現代でもそういう話はよく聞きますね。
ただ、今回の場合はここで受け取った方が良かったんですよ。
なぜなら…。
秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。
しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった、多くの士族が困窮(こんきゅう)するようになってしまいました。
利息だけでは生活できない士族たちは、官吏や巡査、あるいは教員などに転身した一方で、証書を手放して得た一時金で慣れない商売に手を出したものの、いわゆる「士族の商法」で失敗する者があとを絶ちませんでした。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
これは士族にとっては
死活問題ですね(´・ω・`)
背に腹変えられなくなった者達が
反乱を企てても可怪しくない状況にも
思えました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 背に腹変えられなくなった者達が
> 反乱を企てても可怪しくない状況にも
> 思えました。
そのとおりです。これも歴史の流れなんですよね。
詳しくは次回以降の更新をご覧ください。