つまり、日本を開国させるためには、ビッドルのように下手(したて)に出るのではなく、強気の姿勢で対応したほうが良いと判断したのです。こうしたアメリカの思惑によって、嘉永6(1853)年6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが、4隻(せき)の黒船を率いて浦賀に来航しました。
ペリーは黒船に多くの大砲を並べたうえで空砲を放つなどの威嚇(いかく)を加えながら、幕府に対して開国を求めるフィルモア大統領の国書の受理を迫りました。
アメリカの有無を言わさぬ態度に対して、抵抗をあきらめた幕府は、やむなく国書を受け取り、回答を翌年に行うことを約束して、ようやくペリーを退去させました。
しかし、幕府のこうした手段は、苦しまぎれであるとともに、結論の先送りに過ぎず、その後の対応に苦しむことになるのです。
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
アメリカは確かに面目を潰される事が
最大の侮辱だと感じて、耐えられない体質の
国民性なんだろうなと思います。
言うことを聞かなければ、どんな手段も辞さない
態度に出るでしょうね。
我が家にも、ザ★アメリカンな人が一人
おりますので、良く分かります(^^ゞ
たっつん 今年もご訪問いただきありがとうございました。
来年もご健康をお祈り申し上げます。
よいお年をお迎えくださいませ。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 当時に幕府が知る由もなかったとは思われますが、アメリカの国民性という意味で地雷を踏んだ、とも考えられますね。
たっつんさんへ
黒田裕樹 こちらこそありがとうございました。
良き新年をお迎えください。
黒船による砲撃で我が国に危害が及ぶことを恐れた幕府は、結局ペリーの武威(ぶい)に屈して、同年3月に日米和親条約を結びました。条約の主な内容としては、
1.アメリカ船が必要とする燃料や食糧を日本が提供すること
2.難破船を救助し、漂流民を保護すること
3.下田・箱館(現在の函館)の2港を開き、領事の駐在を認めること
4.アメリカに一方的な最恵国待遇(※注)を認めること
以上が挙げられます。幕府はこの後、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、200年余り続いた鎖国体制から、我が国は何の準備もなく開国して、いきなり世界の荒波に揉(も)まれることになってしまいました。
※最恵国待遇=日本が他国と条約を結んだ際に、アメリカが与えられたよりも有利な条件を他国に認めた場合、アメリカにも自動的にその条件が認められること。当時の幕府は外交知識に欠けていたため、アメリカの言われるままに一方的な最恵国待遇を認めた。
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。
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つねまる こんにちは。いつもお世話になっております。
今年は北海道の旅で開国前に田沼意次以降の幕府が四苦八苦した足跡や、アイヌの史跡を巡りまして。
現在の記事がとても勉強になります。
本年もお世話になりました。心より御礼申し上げます。
来年も何卒よろしくお願い申し上げます。
良き年をお迎えくださいませ。
ぴーち こんばんは!
難破船と伺って
今年映画化された「海難1890」という作品
http://eiga.com/movie/79893/
では、以前黒田さんのお話に有りました
トルコとの話が描かれていますよね。
私は鑑賞していませんが、この映画作品の
内容を見た時に、真っ先に黒田さんのお話を
思い浮かべました。
素晴らしい出来になっていれば良いなと
思います。
記事内容から離れてしまい、申し訳有りません(^^ゞ
それでは今年も本当にお世話になりましたm(__)m
また、来年もどうぞ宜しくお願い致します。
つねまるさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
こちらこそ、今年もお世話になりましてありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私がエルトゥールル号事件を紹介したのは五年以上前になりますが、覚えてくださって光栄です。
私はまだ映画を拝見していませんが、素晴らしい作品であると伺っております。楽しみですね。
こちらこそ、今年もお世話になり有難うございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
1.神奈川・長崎・新潟・兵庫を新たに開港し、江戸や大坂で市場を開くこと
(※実際には神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港しました。なお、横浜の開港後に下田が閉鎖されています)
2.通商は自由貿易とすること
3.外交官の江戸駐在や日本国内の旅行を認めること
4.開港場に居留地を設けるが、一般外国人の国内旅行を禁止すること
ここまではまだ良かったのですが、問題だったのは以下の2つでした。
5.アメリカに対して領事裁判権を認めること
6.関税はあらかじめ両国で協議すること(=協定関税制)
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
この時は
実際に戦争をして敗戦した訳でも無いのに
これ程までに一方的な決まりを押し付けてくるとは
さすが、強引グ・マイウェイのアメリカ様ですねぇ・・(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりではありますが、このような基本的な外交知識すら知らなかった当時の幕府の交渉能力にも、大きな疑問符をつけざるを得ないですね…。
例えば、アメリカと日本のうち、アメリカのみが領事裁判権を認められた場合、アメリカの国民が日本で罪をおかしても、アメリカの領事が自国の法によって裁判を行いました。
しかしその一方で、日本の国民がアメリカで罪をおかせば、アメリカの法で裁かれてしまうため、日本にとってきわめて不利となったのです。
領事裁判権の問題も大きな不平等でしたが、これよりもっと深刻だったのは6.でした。協定関税といえば聞こえが良いですが、実際には我が国に関税自主権が認められなかったのです。
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
「お前のものは俺のもの。俺のものは俺のもの」と主張するある漫画に登場するガキ大将を
思い出してしまうような滅茶苦茶な主張ですね・・
ぴーちさんへ
黒田裕樹 まさに「ジャイアニズム」ですね。
これだけでも大きなダメージですが、さらには…。
例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円での販売となれば、十分対抗できることになります。
このためには関税自主権が必要となるのですが、日米修好通商条約によって我が国には認められませんでした。このため、外国の安い商品が低い関税で輸入されることで、国内の産業が大きな打撃を受けるとともに、関税による収入が見込めないことで、我が国は二重の苦しみを味わうことになってしまったのです。
アメリカと通商条約を結んだ後に、幕府はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同じように条約を結びましたが(これを「安政の五ヵ国条約」といいます)、その内容はアメリカと同様に我が国にとって不平等なものでした。
こうした幕府によるとてつもなく大きな失政のツケが、明治維新後に誕生した新政府にも、重い負担としてのしかかるようになるのです。
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
そうですね。。
これは本当に日本にとってはかなりの痛手ですね・・
外国はあらゆる試練を日本に与えてくれるものです(T_T)
そう考えると
これまで叩かれれば叩かれるほど、我が国は逞しく
這い上がれる底力を身につけて来たのだなと改めて思いました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに我が国は試練を乗り越えましたが、そもそも不必要な試練でしたからね。
なぜこうなったのかを考えねばなりません。
政府による血のにじむような努力の末、領事裁判権が明治27(1894)年に撤廃され、関税自主権が明治44(1911)年に回復するなど、半世紀以上もの時間をかけて、ようやく条約改正を達成することができたのです。
しかし、条約改正の道のりは決して平坦ではなく、特に我が国にとって深刻だったのは、諸外国から「国家の基本法たる憲法もないような野蛮な国家とは、条約改正の話し合いに応じられない」と突き放されたことでした。
このため、我が国は約7年という長い歳月を費やして「大日本帝国憲法(=明治憲法)」を発布したのですが、こうした努力は、本当は不要なものでした。
なぜなら、我が国には長い歴史に根差した「不文憲法」がかねてより存在していたからです。
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
前回頂いたお返事のお言葉を返すようで
恐縮ですが、
私は「不必要な試練」でも、それは個々人でもまた
国全体の問題にせよ、無駄な試練は1つとして
無いものだと思っておりますし、今もそう感じてはおります。
然しながら、その不必要な試練を強いられた際にはまた不必要な努力を重ねて、信用を回復していかなければならないものなのだと改めて思いました。
オバrev 黒田先生 明けましておめでとうございます。
国際条約ってのは、政権が変わっても決して反故に出来ないものですよね。
それが反故にできたら、そんな国とは条約結べない・・・でも近くにそれに近いような国がある気がしてます(^o^;
またその条約を改正するのは、時間もかかるし、大変な努力がいるんですね┐(´д`)┌
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ぴーちさんのお考えも理解できます。
国家の歴史やその後をも巻き込んだ試練は出来るだけ避けたいですが、その一方で国家の矜持を取り戻せるような努力も続けたいものですね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 あけましておめでとうございます。
条約は国際社会の約束事ですから、そう簡単には曲げられません。
内容が不平等であったとしてもそれを順守し、改正のための努力をしなければならないんです。
できればそのような努力をしたくないものですが…。
しかしその一方で、イギリスのように「マグナ・カルタ」や「権利の章典」などといった、議会決議や裁判所の判例、国際条約、あるいは慣習などのうち、国家の性格を規定するものの集合体として存在し、憲法典としては制定されていない「不文憲法」を採用している国家も存在しています。
ひるがえって、長い歴史を持つ我が国では、604年に聖徳太子(しょうとくたいし)によって制定された「憲法十七条」や、鎌倉時代に北条泰時(ほうじょうやすとき)によってつくられた「御成敗式目」、あるいは明治元(1868)年に明治天皇が神前にてお誓いなされた「五箇条の御誓文(ごせいもん)」など、イギリスと同じような「不文憲法」として対応できる法令が存在していました。
さらには、我が国最古の歴史書である古事記や日本書紀によって知られている、天照大神(あまてらすおおみかみ)が御孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にお与えになられた「我が子孫(=天皇)が日本を治めることは永遠である」という意味の「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)」は、我が国の国体(こくたい、国家としての体制のこと)の中心であると同時に、不文憲法の根幹をなすものです。
しかし、江戸幕府の長い「平和ボケ」によって他国に無理やり開国させられるといった、我が日本民族の特性ともいえる「極限状態になるまで決断できなかった」ことによって、かねてより存在していた「日本における不文憲法」を説明する余地がなかったことが、我が国の将来に暗い影を落とすことになりました。
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。
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ぴーち こんばんは!
言われてみれば、確かに
諸悪の根源は「平和ボケ」から来ているのでしょうね。
今回のお話もそうでしょうし、つい最近まで
有耶無耶にされてきた国歌でさえ、ようやく
正式に決まった次第ですし。
長い間
自然の恩恵に恵まれ過ぎていた結果、
外国との切磋琢磨を経験出来ない
苦労知らずな国になって
しまったのでしょうかね(^^ゞ
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに我が国は地政学上でも平和を謳歌しやすい国でした。
だからといって、いつまでも「井の中の蛙」でいられるわけもなく、そう考えれば返す返すも鎖国の状態が長続きしたのは痛かったですね。
さらには我が国の敗戦に伴い、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)から「日本国憲法」なるものを押し付けられたばかりか、制定後70年近くも一字一句改正されていない、という異常事態を招いているのです。
繰り返しますが、我が国には長い歴史によって構築されてきた「独自の不文憲法」が存在します。不文憲法を再認識することによって、現在の日本国憲法を「数ある法律の一つ」とみなすことで、改正を容易にしたり、あるいは廃止に踏み切ったりすることも検討できるのではないでしょうか。
現在の安倍晋三(あべしんぞう)首相の言葉を借りるまでもなく、本当の意味で「日本を取り戻す」ためにも、国民の叡智(えいち)を結集して「不文憲法の復活」を目指すべきではないかと訴えて、今回の講演を終わりたいと思います。
※下記の映像は1月6日までの掲載分をまとめたものです。
(※第51回歴史講座の内容はこれで終了です)
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ぴーち こんばんは!
なるほど。そう言った事実というのは突然降って湧いてくるものではなく、長い歴史の中で生じた
負のスパイラルとして
脈々と
受け継がれているものなんだなと、改めて思いました。
個人にもそれは言える事だと思います。
先祖の悪行は、子々孫々にまで悪影響を
与えるものですしね。
現在を生きる私達が、しっかりと事実を見極めて
正しい選択をする事がいかに大事なことか
考えさせられますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
同じことの繰り返しでは我が子孫に禍根を残すのみです。
今こそ歴史の「正と負」の両方に学ばねばなりません。