ところで、昨年(平成24年=2012年)末に誕生(たんじょう)した第二次安倍晋三(あべしんぞう)内閣による「アベノミクス」と呼(よ)ばれる一連の経済政策によって、打ち続く不況(ふきょう)からの脱却(だっきゃく)に期待が高まる昨今(さっこん)ですが、今から約160年前の幕末の頃(ころ)にも、10万両(現在の価値で約600億円)の借財(しゃくざい)を抱(かか)えて破産(はさん)寸前だった藩の財政を見事に立て直し、逆に10万両の蓄財(ちくざい)を成し遂(と)げたという驚(おどろ)くべき実績を持つ人物がいました。実は彼こそが山田方谷その人なのです。
備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)の財政再建を任(まか)された方谷は、20世紀の経済学者として名高(なだか)いケインズに先駆(さきが)けて積極的(せっきょくてき)な財政改革を行って充分過(じゅうぶんす)ぎる結果を残したのみならず、彼が編成した西洋風の兵学は幕末の雄(ゆう)である長州藩(ちょうしゅうはん)も参考にしたほどでした。
今回の講座では、山田方谷の生涯(しょうがい)と彼が遺(のこ)した数々の実績をたどりながら、現代のアベノミクスにもつながる財政改革とその神髄(しんずい)について詳(くわ)しく紹介(しょうかい)していきたいと思います。
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ぴーち おはようございます!
そうですよね!
何も、国の事情も違う外国の成功例を持ちだして、それを真似していこうとしなくとも、日本人が日本の復興の為に尽力した出来事を大いに参考にすべきだと思いますね。
確かにその時代、時代で多少なりとも
状況は変化しているでしょうけれど、
根底に流れている問題は、何時の時代も
変わらないと思います。
それをその時、その時代の経済の参考にしようとした時は、
時の権力者の応用力が問われるものとおもいますが・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
グローバル化の時代とはいえ、経済復興には昔の知恵を存分に活用しても何の問題もありません。
その意味でも今こそ山田方谷の改革に注目すべきだと思います。
そんな方谷を助けたのが学問でした。5歳の頃から朱子学(しゅしがく)や詩文を学んだ方谷は、わずか9歳の折(おり)に「将来は何になりたいか」と問われた際(さい)に、治国平天下(ちこくへいてんか)、すなわち「天下を治めるにはまず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである」と答えたと伝えられています。
文政(ぶんせい)12年(=1825年)、21歳になった方谷は当時の備中松山藩主であった板倉勝職(いたくらかつつね)から俸禄(ほうろく)を与えられて京都や江戸へ出て学問に勤(いそ)しむ日々を過ごした後、やがては武士として取り立てられるようになり、父の悲願であった山田家再興を成し遂げました。
30歳になった天保(てんぽう)5年(=1834年)、方谷は江戸で随一(ずいいち)の儒学者(じゅがくしゃ)といわれた佐藤一斎(さとういっさい)の門下生(もんかせい)となり、同門の佐久間象山(さくましょうざん)と競(きそ)いながら陽明学を学びました。その後天保7(1836)年に故郷へ戻(もど)った方谷は藩校(はんこう)の有終館(ゆうしゅうかん)の学頭(がくとう、校長のこと)に任じられ、自らも「牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)」という私塾(しじゅく)を開いて藩士のみならず農民や女性にも学問を教えました。
そして嘉永(かえい)2年(=1849年)、45歳になった方谷は新藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)から藩の元締役(もとじめやく)と吟味役(ぎんみやく)に任じられ、藩政改革(はんせいかいかく)を断行(だんこう)することになるのです。
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ぴーち おはようございます!
人生の志を持つ時期は、若いうちに持つ事が最良だと思いますが、方谷氏はわずか5歳にして朱子学を学んで、9歳にして既に自分が進むべき指針が明確に答えられていたのですか。
まさに世に天才と呼ばれる人物が歩むべき道を進んで来られた人物だったんですね^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり天才肌ですね。
その一方で若くして両親を亡くすなど、苦学の秀才という一面もありそうです。
勝静の熱意もあって、大抜擢に対する上級藩士の反発をよそに元締役と吟味役の兼任を引き受けた方谷でしたが、そんな彼の前に大きく立ちはだかったのが、天井(てんじょう)知らずに積み上がった藩の負債(ふさい)でした。
長年の粉飾決算(ふんしょくけっさん、会社が不正な意図をもって経営成績および財政状態を実際より過大または過小に表示するように人為的操作を加えた決算のこと)もあって、当時の備中松山藩の累積赤字(るいせきあかじ)はおよそ10万両(現代の金額で約600億円)に達する巨額(きょがく)であり、また藩の石高(こくだか)は名目(めいもく)の5万石(まんごく)に対して、実質は約19,000石の収穫(しゅうかく)しかなかったのです。これでは従来の農政を中心とした財政改革など出来ようはずがありません。
そこで、方谷は自(みずか)らが説(と)いた経済論たる「理財論(りざいろん)」や政治論たる「擬対策(ぎたいさく)」に基(もと)づき、従来の米本位経済にこだわらない大胆(だいたん)な手法で藩政改革を成し遂げようと決意しました。
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ぴーち おはようございます!
大出世したのは何も秀吉だけでは
無く、余り表舞台ではその名前が轟かなくても
影の立役者としてこうして立身出世なさった方がいらっしゃるんですね!
その後の展開を楽しみにしています^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
方谷による立身出世が藩にどれだけの効果をもたらしたのかをぜひご注目くださいね。
同時に方谷は、商人たちに対して今後は一切借財をしない代わりに、返済期間を延(の)ばした計画書を一人ひとりに手渡し、認められました。後の改革の成果を考えれば、計画書がよほどしっかりした内容だったことで商人たちの信頼を勝ち取ったからではないかと思われます。
また、方谷は大坂の蔵屋敷(くらやしき)を廃止(はいし)して、代わりに米を藩内に保管して相場(そうば)を見て売却(ばいきゃく)するようにしました。これによって蔵屋敷の経費の節減(せつげん)と同時に有利な時期に米を売ることで多額の利益を得て、そこから借財の返済に充(あ)てたのです。
蔵屋敷の廃止によって藩内に年貢米(ねんぐまい)を貯蔵する必要がありましたが、方谷は藩内各所に米を蓄(たくわ)える蔵(くら)を設(もう)けました。これらの蔵は飢饉(ききん)の際には米を配給するための倉庫の役割を果たしたため、幕末の飢饉において備中松山藩では一人の餓死者(がししゃ)も出さなかったそうです。
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ぴーち おはようございます!
人を納得させるには、自分も
用意周到に、確固たる姿勢で挑まなければ
説得力に欠けてしまう訳ですね。
備蓄用の米蔵で飢饉を免れたとありましたが
以前に、鹿児島でさつまいもを栽培していた
お陰で飢饉の際には餓死した者がでなかったと
黒田さんの所で勉強させていただいた事がありましたのを思い出しました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、人を納得させるにはそれなりの覚悟や姿勢が必須です。
何しろ相手は百戦錬磨の浪速の商人ですからね。
飢餓対策は政治の必須条件です。
サツマイモとともに覚えておきたい対策ですよね。
次に方谷は農作業の負担(ふたん)を軽減するために、良質な砂鉄を使った三本歯の「備中鍬(びっちゅうぐわ)」を新たに開発し、当時の我が国の人口の8割を占(し)めた農民に幅広(はばひろ)い人気を集めたほか、建築に欠かせない鉄釘(てつくぎ)もよく売れました。方谷はこれらの人気商品を新たに購入した大きな船で直接江戸まで運ぶことで経費を節減するとともに大量輸送を可能とし、さらなる売り上げ増につなげました。
また、方谷は農民の暮(く)らしを向上させるために柿(かき)や煙草(たばこ)などを栽培(さいばい)したほか、柚餅子(ゆべし)などのブランド品を新たに生み出し、これらも藩の特産として全国で売り上げを伸ばしていきました。
なお、方谷はこれらの産業振興に関する業務を撫育方(ぶいくがた、撫育とは人をいつくしみ育てること)と名付けた組織にまとめ上げ、流通を一本化したことで効率化も図(はか)っています。
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ぴーち おはようございます!
きっと方谷氏の頭の中では、最初に完成図が
仕上がっていたからこそ、このような手際の良い采配が出来たのでしょうね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > きっと方谷氏の頭の中では、最初に完成図が
> 仕上がっていたからこそ、このような手際の良い采配が出来たのでしょうね!
私もそう思います。大坂商人たちを納得させるだけの計画書を用意していましたからね。
しっかりと計画を立てて、それを実行に移す手際の良さは素晴らしいと思います。
しかし、財政難に苦しんでした備中松山藩では兌換のための準備金にまで手を付けていたどころか、新たに大量の藩札を発行したことですっかり信用を無くし、偽札(にせさつ)まで出回る始末でした。
事態を憂慮した方谷は、3年間という期限を切って信用の無くなった旧藩札を回収し、すべて新しい藩札に切り替える決意をしました。当時は産業復興が進んで藩の資金が充実しつつあったとはいえ、兌換のための準備金を調達するのは大変な苦労を伴(ともな)いましたが、人間でいえば血液の循環(じゅんかん)にあたる紙幣(しへい)の流通を円滑(えんかつ)に進めることは、藩の再建に不可欠(ふかけつ)だったのです。
やがて期限の3年を迎えると、方谷は引き換えた大量の旧藩札を領内の河原に積み重ね、領民が見守る前で焼き捨てました。現代の観点からすればパフォーマンスとも思われかねない突飛(とっぴ)な行動でしたが、方谷の姿勢(しせい)に並々(なみなみ)ならぬ覚悟(かくご)を見た領民たちは新たに発行された藩札を信用して、やがて他国にまで流通するようになりました。
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ぴーち おはようございます!
これまでの方谷氏の考え、行動を拝見していると
冷静沈着な方だったのかと思っておりましたが、
今日のお話を伺っていると、うちなる情熱を秘めた方だったのだと改めて感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですよね。
内なる情熱がなければ、上っ面だけのパフォーマンスで終わっていたと思います。
方谷による激しい情熱は、講座の後半でもう一回出てきますね。
次に、盗賊(とうぞく)の取り締(し)まりを厳しくしたり、賭博(とばく)を禁止したりすることで領内の治安(ちあん)を向上させたほか、領民が誰(だれ)でも投書することができる目安箱(めやすばこ)の設置を行いました。また、先述したように蔵屋敷の代わりに領内に40ヵ所余(あま)りの貯倉(ちょそう)を設けたことで凶作(きょうさく)の際の飢餓対策(きがたいさく)に大いに役立ちました。
その他、産業振興を名目として道路や河川の改修といった公共投資(こうきょうとうし)も積極的に行いました。交通の便が良くなったことが藩内における人々の行き来や物資輸送の円滑さを生み出し、さらなる経済効果をもたらしたのです。
「不況の際は積極的に公共投資を行うべし」。20世紀の経済学者であるケインズよりも80年以上も前に実践(じっせん)した方谷の優秀さには驚くしかありません。
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ぴーち おはようございます!
敵が安易に攻めて来られない様に
わざと道を狭くしたり、複雑に入り組ませたり
しいていた日本の
それまでの道は、確かに国内で起こっていた内戦では自分の身を守る為だけには威力を発揮していたでしょうけれど、いざ、戦う事が必要にならなくなった時代では負の財産と化してしまいますものね。
道路と言えば・・・
こちらではようやく平成の世の中になってから
お隣の県へ続く大動脈が建設され、開通したばかりですもん(^^ゞ
そういう重い腰を容易に上げさせた方谷氏の功績を考えるといかに素晴らしい人物であったか想像出来ます。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 江戸時代初期までは仰るとおり道をわざと複雑にすることに大きな効果がありましたが、太平の世ではかえって成長の阻害になりましたからね。
方谷の柔軟な発想による功績は大きいと思います。
近代国家への種まき
鹿児島のタク 黒田先生
方谷さん,すごいですね。
ケインズ政策の先取りですね。
近代国家の青写真ができているように思いました。
ところで,この「方谷」さんは,あまり現代人から見ると,有名ではないと思うのですが,高等学校レベルの教科書にも出てくる人物なのでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 残念ながら山田方谷は高校レベルの教科書でも出てきません。
後述のように明治維新後の政府における活躍がなかったことが遠因かもしれませんが。
そこで、方谷は藩校の有終館を拡張(かくちょう)したり、領内に「学問所(がくもんじょ)」や「教諭所(きょうゆじょ)」を設けたりしたほか、郷学(ごうがく、藩士の教育や庶民の教育のために各地に設けられた学校のこと)や私塾、あるいは寺子屋を次々と設置したことで、教育の施設(しせつ)の充実ぶりは他藩をはるかにしのぐようになりました。
方谷は藩士以外の領民の教育に力を注(そそ)いだだけでなく、特に成績優秀な者は農民や商人出身でも藩士へ取り立てたことで、子弟(してい)はすべて向学心(こうがくしん)に燃え、藩の教育水準が向上するとともに、方谷の財政改革への理解度も高まりました。
こうした思い切った教育改革も、方谷自身が農商の出身でありながら元締役と吟味役を兼任するまでに出世したという経験が下地(したじ)にあったからに間違(まちが)いありません。
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オバrev 方谷の財政改革は私はもちろん知りませんでしたが、もっと一つ一つの改革がどのくらいの経済効果があったのか深く掘り下げて検討して欲しいですね。
それにしても江戸時代は平和が続いて、様々な産業や文化が発展するとともに、財政破綻や財政改革など現在の経済状況と非常によく似ていると思います。
財政改革という点から、歴史学者や経済学者が一緒になって、しっかり江戸時代を洗いなおす事が求められているような気がします。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 方谷の財政改革は私はもちろん知りませんでしたが、もっと一つ一つの改革がどのくらいの経済効果があったのか深く掘り下げて検討して欲しいですね。
今回は方谷の改革全般について紹介しておりますので、具体的な効果については物足りないところがあるかもしれません。申し訳ないです。
ただ、全体の効果については近日中に回答することになると思います。
> 財政改革という点から、歴史学者や経済学者が一緒になって、しっかり江戸時代を洗いなおす事が求められているような気がします。
仰るとおりですね。経済学が机上の空論とならないように、歴史的な背景をも見つめ直す必要があると思います。
ぴーち おはようございます!
生まれた所は貧しくても、
そこにやる気や向上心があるなら
高水準の教育を受ける事が出来る制度というのは
考えてみれば、素晴らしいことですね!
生まれてきた所の家の家業などを引き継いでいく
ことも勿論大切だとは思いますが、
生まれてきたからには、自分の夢や希望が
叶う世の中で生きてみたいと思うのが人間ですものね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
家業を継ぐだけでなく、様々な人生を選択できるように幅を広げることができる教育の振興は非常に重要ですね。
身分社会の壁!?
鹿児島のタク 黒田先生
「方谷自身が農商の出身でありながら元締役と吟味役を兼任するまでに出世したという経験…」という部分についてですが…。
日本の江戸時代の身分制度・社会についてですけど,そりゃ厳しかったんでしょうけれども,この方谷さんのように士農工商等の身分が変わることって意外とあるみたいなんですけどいかがでしょうか。
例えば,私は鹿児島ですが,薩摩藩においても武士の「株」を買うことができるみたいで,いろいろな有能な人が,親の代までは武士階級じゃないのですが,「士」になっている例が結構多いのです。
また,武士の中でも,特に幕末になるとですが,門閥の家老もいるのですが,実力の家老というのがよく出てきますよね。家老じゃなくて全く身分の低い武士(茶坊主)が,財政改革をやっています。例の調所広郷もです。
江戸時代の身分社会・制度…どうなっているのでしょうか。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 確かに士農工商と言われる身分の厳格な区別は、時代が下るにつれて緩くなりました。
株を買えば武士になれるものもいたのも事実ですが、同時に華々しい出世を果たすとすれば、やはり本人の努力が不可欠ですね。
ともあれ、他国とは違って人種差別的な思想のない我が国ならではの展開だと思います。
方谷は自ら学んだ砲術(ほうじゅつ)をもとに大砲を鋳造(ちゅうぞう)して洋式兵術を導入したほか、嘉永5(1852)年には領内の庄屋(しょうや)の家の壮健(そうけん)な若者を選んで銃(じゅう)と剣を学ばせ、帯刀(たいとう)を許して「里正隊(りせいたい)」という農兵制を組織しました。
方谷は里正隊の教育や指導に力を注いだほか、領内の漁師や一般農民の中からも壮健な者を集めて西洋式の砲術や銃の訓練を行い、国境の防備の一部を担当させました。陽明学という実践に重きを置く学問を究めた方谷ならではの柔軟(じゅうなん)な発想が生み出した軍制改革といえるでしょう。
これらの方谷による藩を挙げた財政改革が実を結び、備中松山藩は改革の開始からわずか7年後の安政(あんせい)4年(=1857年)頃には10万両あった借財をすべて返済して、逆に10万両の蓄財を成し遂げたのみならず、実質2万石にも満たなかった藩の収入は20万石にも匹敵(ひってき)するといわれるようになり、領内の治安の良さや領民の安定した生活と教育の振興ぶりは、他藩からの旅行者がうらやむほどとなりました。
方谷による藩政の改革は、歴史的にも稀(まれ)に見る素晴(すば)らしい成果を上げたのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
ペリー来航という思っても見なかった事態が
起こった事をキッカケに直ぐに次なる方策を
考え、行動に起こしていく所がまた見事ですね。
国防の為の軍備の発端は、方谷氏の提案だったとは。
それまでの経験の豊かさ、または引き出しの多さに改めて感心させられますね!
それもきっとそれまでの人生、人の話を良く聞き、または自身でも沢山の書物を読み
様々な経験をしてきた賜物だったのでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
山田方谷の器量の大きさには今さらながら驚くばかりですね。
大砲の鋳造
鹿児島のタク 黒田先生
「方谷は自ら学んだ砲術(ほうじゅつ)をもとに大砲を鋳造…」…すごいですね。
大砲を鋳造するには,一般的には反射炉が必要だと思うのですが,私の地元の鹿児島では反射炉跡が残っています。反射炉を作ったのは,薩摩藩と肥前鍋島藩くらいかなと思っていました。
薩摩も肥前も大藩ですが…
それを方谷さんたちがやったのはすごいですね。
陽明学について
鹿児島のタク 黒田先生
陽明学と言えば,「知行合一」ですね。
私は,と言うか多くの人がそうだと思うのですが,大塩平八郎のことを思い出します。
陽明学は,その要素が孔子の儒学に見えていると思いますが,…現代社会に生きる我々が日々の日常の中で,陽明学的な活動をしようとすると,浮いて見えたり,批判を浴びたり,命がけになったりするような気がします。
人間は,「妥協」しながら生きていかねばならないのでしょうが,大事なところで「知行合一」ができるといいでしょうね。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、大砲を鋳造しようと思えばそれまでの準備も大変ですからね。
方谷だからこそできたとも言えそうです。
鹿児島のタクさんへ
黒田裕樹 大塩平八郎が反乱を起こし、結果として大坂が火の海と化しても誰もが大塩の悪口を言わなかったという事実が「知行合一」の大切さを間接的に証明していますね。
行動力あっての指導力とも言えそうです。
備中松山藩の改革成功の噂(うわさ)を耳にした越後長岡藩士(えちごながおかはんし)の河井継之助(かわいつぎのすけ)は、本当かどうかを自分の目で確かめたくなって安政6 (1859)年に方谷を訪ねました。当初は農商出身の方谷を「山田」と呼び捨てにしていた継之助でしたが、方谷による言行一致(げんこういっち)の見事な振(ふ)る舞(ま)いや、彼が進めた藩政改革の成果を見て「山田先生」とすぐに態度を改め、深く心酔(しんすい)するようになりました。
方谷から多くを学んだ継之助は帰藩後に越後長岡藩の藩政改革を断行して多くの成果を収(おさ)めましたが、後に北越戦争(ほくえつせんそう)において官軍(かんぐん)と戦った際に負傷し、慶応(けいおう)4年(=1868年)に42歳で亡くなりました。
臨終(りんじゅう)の際、継之助は「もし備中松山に行くことがあれば、河井は生涯先生の教えを守ったと方谷先生に伝えてもらいたい」と言い残したそうです。
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晴雨堂ミカエル 幕末ファンの間では、継之介はガトリング砲で有名ですね。
奥羽諸藩の多くが、火縄銃やヤーゲルやゲベールなど先込め銃で薩長を相手に戦いましたが、越後長岡藩は最新のスナイドル銃で武装し日本で当時3機しかなかったガトリング砲を1機を配備、すべて継之介の手配です。
今週の大河ドラマ「八重の桜」で、會津の佐川官兵衛と河井継之介がガトリング砲の図面を見ながら意気投合、「奥羽越一丸となって薩長を返り討ちにすんべし!」「おう!」という場面がありました。
タイムリーですね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 偶然ではありますが確かにそうですね。
ぴーち おはようございます!
言行一致。
言うは易しですが、
これが普通の人間にはなかなか
到達できない境地ですよね(^^ゞ
己の口から発せられた言葉通りに
行動も伴える人間こそ、
もっとも信頼を勝ち得る存在と
確信しています。
また、逆に
口先ばかり、その場限りの
逃げ口上ばかりで
全く行動を起こさない、あるいは
口では大層な事を言っていても
態度はいい加減だったりする場合は
信用ならない人物というレッテルを
直ぐに貼られてしまいますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
陽明学の神髄でもある知行合一が、言行一致の素晴らしい実行力を生んだとも言えるでしょう。
山田方谷の実績の確かさを証明するエピソードでもあると思います。
里正隊を中心とする見事な訓練ぶりに感嘆(かんたん)した久坂は、単なる財政改革の成功だけではなく、教育面や軍事面など身分制度にとらわれない様々な改革によって優秀な人材を輩出(はいしゅつ)しているところに軍政の神髄が存在することを理解しました。
後に久坂は元治(げんじ)元年(=1864年)の禁門(きんもん)の変において負傷して自刃(じじん)しますが、生前(せいぜん)の久坂から方谷の話を聞いていたとされる高杉晋作(たかすぎしんさく)によって「奇兵隊(きへいたい)」が組織され、幕末における長州藩を軍事面から支えましたが、方谷による里正隊は奇兵隊よりもおよそ10年近くも早く結成されていたことになります。
これらのように、方谷による藩政改革の成果は全国的な評判を呼んで他藩の改革にも多大な影響を与えましたが、それは同時に備中松山藩自体にも数奇(すうき)な運命をもたらすことになりました。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
奇兵隊の方は確かに記憶に残っていますが、
方谷氏の里正隊の方は今回黒田さんの記事にて初めて知ることが出来ました。ありがとうございます。
しかしながら、高校の教科書でも習った記憶が無いのですが(私が忘れているだけかも知れませんが(^^ゞ)
何故にこれほどまでの功績を残した方なのに、
もっと人々の記憶に残るほどの教育がされなかったのか疑問です・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 山田方谷は現在の歴史教科書でも紹介されておりません。
その理由は色々ありますが、また後半でお知らせしたいと思います。
勝静がこれらのような出世街道(しゅっせかいどう)を歩んだ理由としては、元々の血筋が松平定信の孫であったこともあると思われますが、やはり方谷による藩政改革の成功によって藩財政が豊かになったことや、それに伴って勝静自身の評判も高まったことが考えられます。
しかし、時は幕末の動乱期であり、やがて大政奉還(たいせいほうかん)が行われて戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まると、老中首座(しゅざ)である勝静を藩主とする備中松山藩はいわゆる「朝敵(ちょうてき)」となり、朝廷から松山藩の征討(せいとう)を任じられた備前岡山藩(びぜんおかやまはん)など近隣(きんりん)の藩の大軍が押し寄せてくるという騒(さわ)ぎになりました。
このとき、藩主勝静は旧幕府軍側の立場で参戦して不在であり、重臣たちは抗戦(こうせん)か降伏(こうふく)かをめぐって激(はげ)しい議論が続きましたが、最後には方谷が独断で降伏を決めました。
「戦争になって一番困るのが藩民である以上、彼らの生命を救うのが我が天命である」。場合によっては自身の切腹(せっぷく)も辞さないという決死の覚悟でした。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
なるほど、方谷氏は主と同じ権限を与えられていた事で、独断で判断したのですね。
降伏という決断が藩民にとっては良い結果となったとしても、方谷氏自身にとってはその判断は本当に良かったのでしょうか。。
その後の行方が気になります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
方谷の判断は正しかったのかどうか、次回の更新をお待ちください。
「親殺しや主君殺しを意味する大逆無道を加えるとは何事か。我が藩は一度たりとも朝廷に刃(やいば)を向けたことがない以上、この四文字は自らの命に代えても受けいれられない」。
方谷による命がけの抗議(こうぎ)に対して官軍も折れ、最終的に「軽挙暴動(けいきょぼうどう)」に変更することで備中松山藩は無血開城(むけつかいじょう)しました。また方谷は旧幕府軍に随行(ずいこう)していた藩主の勝静(かつきよ)を強引に東京へ連れ戻して新政府へ自首(じしゅ)させたことで、5万石を2万石に削(けず)られこそしたものの、明治2(1869)年には藩の再興が認められました。
藩主が老中首座という重職にありながら備中松山藩の処分(しょぶん)が他藩に比べて軽かった背景には、方谷が組織した里正隊が本格的な軍隊であったことによる抑止力(よくしりょく)や、方谷が地元の農民から「生き神様」と慕(した)われていたこと、そして何よりも方谷の財政家としての類稀(たぐいまれ)な手腕(しゅわん)を惜(お)しんだからではないかと考えられています。
なお、方谷は慶応3(1867)年に行われた大政奉還において上奏文(じょうそうぶん、なお「上奏」とは天皇に意見や事情などを申し上げること)の草案を作成したという説もあります。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
大勢の命を救う為に、(松山藩)自ら体を張り、また間違った認識を是が非でも正そうとする信念に感服しました。
そうですよね。間違った認識ならば、命がけで撤回し、覆すくらいの押しが必要ですよね!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
無血開城に導いたのは弱腰だったからではなく、「ならぬものはならぬ」という強い意志でもあったわけですね。
しかし、江戸幕府の老中首座だった藩主の板倉勝静(かつきよ)に長年仕(つか)え、同時に彼を支え続けてきた方谷は、年齢(ねんれい)のこともあって新政府への出仕を断りました。
その後の方谷は備中へ戻って私塾を開いたほか、我が国最古の庶民(しょみん)のための学校であった閑谷学校(しずたにがっこう)を再興するなど弟子の育成に力を尽(つ)くしましたが、明治10(1877)年に73歳でこの世を去りました。
方谷が亡くなってから約50年経(た)った昭和3(1928)年、方谷ゆかりの地に国鉄(現在のJR)伯備線が開通した際に、地元民の熱意によって「方谷駅」がつくられたほか、21世紀の平成18(2006)年には、それ以前の昭和52(1977)年に岡山県出身の天文学者が新たに発見した小惑星(しょうわくせい)に対して「山田方谷」と名づけることが認められました。
藩のためだけでなく、名もない多くの領民のために心血(しんけつ)を注いだ山田方谷の生き様は、時代を超えた今もなお多くの人々に慕われ続けているのです。
いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
小惑星にも方谷氏の名前が付けられていたのは
凄いですね!
方谷氏の事は何もかも存じておりませんでしたが、惑星にまで名を残すなんて・・
いかに彼の功績が偉大であったかということが
計り知れますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
小惑星も駅名も、地元の熱意がなければ名前には残りません。
方谷がいかに慕われていたかを証明しています。
昨年11月の衆議院解散以後、1ドル70円台の超円高だった円相場は100円台にまで変化し、また日経平均株価も8,600円台から15,000円台を突破(とっぱ)するなど、アベノミクスは今のところ世界の投資家を中心に好意的な評価を受けているようですが、今後のさらなる戦略に大いに期待が持たれるところではあります。
しかし、経済政策の神髄は単なるデフレ脱却だけではなく、我が国の歴史や伝統、あるいは文化に根差(ねざ)した環境の下において、各人の努力や創意工夫(そういくふう)が正当な評価を受けるという「当たり前のこと」が実現できるところにあり、そのためにも次代を担(にな)う子弟に対する歴史や道徳を始めとする教育の正常化や、他国からの侵略(しんりゃく)を防ぐための防衛力の強化も同時に必要なのではないでしょうか。
そんな私たちに対して、大きな歴史の流れは格好(かっこう)のお手本を目の前に示してくれています。それはもちろん山田方谷のことです。
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ぴーち こんにちは!
仰るとおり、各人の努力や創意工夫が正当な評価を受けることが出来る世の中が一番ですよね。
そうは言っても、これがなかなか100%完全に評価の対象として認めて貰えるようになるには
難しいもので、それこそ各人が本気になって、そういう世の中を目指していこうとする意欲や、努力がこれからも
必要になって来るでしょうね・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
意欲や努力なくして我が国の未来はないでしょうね。
山田方谷は大胆な改革によって藩の財政を立て直しましたが、その基本となったのは彼が長年務め上げた教育者としての矜持(きょうじ、自分の能力を優れたものとして誇る気持ち)でした。士農工商の身分を超えて多くの優れた人材を育て上げた教育精神が、彼の経済政策を成功に導いたことは間違いありません。
また、いかに財政が豊かになろうとも、藩を守るためには軍制の改革が欠かせません。方谷が壮健な者を選(え)りすぐって里正隊という独自の軍隊をつくり上げたことは、戊辰戦争の際の大きな「抑止力」として備中松山藩を救う結果となりました。
これらの例を見ても分かるように、経済政策の成功のカギは単なる金融政策や財政政策だけでなく、将来を見据(みす)えた「教育」や「防衛」こそが握(にぎ)っているのであり、アベノミクスの成功の可否もこれらの問題の解決にかかっているとしても過言ではないでしょう。
10万両の借財を短期間ですべて返済したばかりか逆に10万両の蓄財を達成し、実質2万石に満たなかった藩を20万石の実力があると周囲に認めさせるほどの改革を成し遂げた山田方谷。
今年(平成25年=2013年)1月に行われた衆議院本会議の代表質問において平沼赳夫(ひらぬまたけお)議員が発言されたように、我が国が本当の意味で「強い国家と豊かな生活を取り戻す」ためにも、私たちは今こそ山田方谷の精神に学ぶべきではないでしょうか。
(※第36回歴史講座の内容はこれで終了です。次回[6月21日]からは通常の更新[=昭和時代・戦前]に戻ります)
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ぴーち おはようございます!
仰るとおり、教育は一番の柱だと思います。
教育が廃れた国は亡国の一途を辿るのではないかと懸念します。
それを考えると「ゆとり教育」の浅はかさは
今更ながら、許しがたい方策だったと悔やまれてなりません。
この方策を打ち立てたのも、自民党でしたので
今度はしっかりとした政策の元、教育改革への
巻き返しへも意欲を示していただきたいものです。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
政治主導はもちろん、現場においてもこつこつと頑張っていきたいと考えております。
オバrev コメントが遅くなって申し訳ないですm(_ _)m
株価や為替の乱高下は、海外の投資ファンドに行き先のない有り余ったマネーが流れているためと言われていますが、やはりアベノミクスの矢がまだ細く不安定なこともあると思います。
それを図太く確固たるものにするために、やはりベースとしての教育、人材育成が支えとなることは仰るとおりだと思います。未来を見据えて力を入れて欲しいです。
しかし現実は最近の若い人の社会人としての甘さと、仕事を追求して行こうという職人的モチベーションの無さに戸惑っています(?o?)
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
教育の欠如は様々な弊害をもたらしますから、将来を見据えた政策が望まれます。
特効薬と漢方薬の両方が必要ですね。
富国強兵が大事
- 黒田先生
青田です。
あらためて、この動画を一通り
拝見させて頂きましたが、
山田方谷の財政再建の本当の
目的は、『富国強兵』だった気がします。
この『強兵』の概念がなく、単に富国だけなら
間違いなく、官軍に蹂躙されていたと思います。
それは、現代の日本にも通じることですし、
間違いなく世界常識です。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、山田方谷は世界の常識にのっとって「富国強兵」を実現させましたよね。
だからこそ現代の私たちが学ばねばならないのです。