当時の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)はアメリカとの通商に理解を示しましたが、幕府の独断で通商条約を結べば、開国に反対して外国を排斥(はいせき、受け入れられないとしりぞけること)しようとする攘夷派(じょういは)の諸藩の激しい反発を招く可能性があることを警戒(けいかい)しました。
そこで、堀田は条約の締結(ていけつ)に際して天皇の許可、すなわち勅許(ちょっきょ)を得ることで世論を納得させようと考えました。封建社会(ほうけんしゃかい)においてそれまでは独断で何事も強行してきた幕府でしたが、この頃には朝廷の顔色をうかがわなければならないまでに権威(けんい)が低下していたのです。
しかし、堀田の狙(ねら)いは裏目(うらめ)に出てしまいました。当時の孝明天皇(こうめいてんのう)をはじめとして朝廷には攘夷派の意見が強く、容易に勅許が下(お)りなかったのです。自分で仕掛けた足枷(あしかせ)により行きづまった幕府に対して、ハリスは当時の世界を揺(ゆ)るがした大きな出来事を利用して、追い打ちをかけるかのように通商を迫りました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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クラチー あ、牛乳大好き腹黒独身米人さんだ!
∑(・w・)←
日本の「押し・反論の弱さ」は、
このときも大きく感じますね。
しかし、ぶっちゃけこの頃の幕府って、
「この頃の将軍、誰だっけ?」って感じですねぇ。
勝海舟さんどうのこうの・井伊直弼さんどうのこうのってのは、すぐにわかるのに。
(^^;)
クラチーさんへ
黒田裕樹 > あ、牛乳大好き腹黒独身米人さんだ!
> ∑(・w・)←
はい、ハリスさんの登場です(^^ゞ
彼によって我が国は様々な影響を受けることになりますね。
> しかし、ぶっちゃけこの頃の幕府って、
> 「この頃の将軍、誰だっけ?」って感じですねぇ。
> 勝海舟さんどうのこうの・井伊直弼さんどうのこうのってのは、すぐにわかるのに。
> (^^;)
当時の将軍は13代の徳川家定ですね。
彼に関しては後日に詳しく紹介することになりますが、確かに印象が薄いです(´・ω・`)
アロー戦争で清はまたしても敗北し、1858年にさらに不平等となる天津条約(てんしんじょうやく)を結ばされましたが、ハリスはこの条約を口実(こうじつ)として、以下のように幕府に対して通商条約を強く要求しました。
「清に勝ったイギリスやフランスが勢(いきお)いに乗って日本を侵略する可能性が否定できないから、これを防ぐには日本と友好的なアメリカと通商条約を先に結んで、彼らに戦争の口実を与えないようにする以外に方法はない」。
ハリスによる最後通牒(さいごつうちょう、交渉の決裂も辞さないという態度で相手に一方的に示す最終的な要求のこと)ともいえる警告を受けて、当時の大老(たいろう)であった井伊直弼(いいなおすけ)は、勅許を得ないままアメリカと通商条約を結ぶことを決断しました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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晴雨堂ミカエル 日本は誰が責任者か判らない組織。奉行や老中は複数名、独裁を防ぐには適しているが、厳しい決断を即座に行うには足枷です。
ハリスは一定の権限があり、いちいち大統領に伺いをたてずに自分の才覚で判断し実行する。
大老は井伊一人ですが、実際の交渉は諸大夫に任せる。
日本の組織は造りは変わったが感覚は当時も今も変わりません。
アメリカの交渉力
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
アメリカ側の立場に立って考えると
ハリスというのは、非常に有能な交渉能力を持っていますね。
最初に日米和親条約を結んでいるから、
国際情勢のパワーバランスを利用して、
自国に有利な条約を結ぶ。
日本の価値観では、ハリスのやり方は
『卑怯』という言い方をうるでしょうが。
これが、むしろ世界の常識なんだと思います。
日本人も見習うべきだと思います。
(聖徳太子の隋との対等外交においてもそうですが)
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、決断力に格段の差がありますね。
もっとも、井伊の独断が非難を浴びるというのがまた我が国なのですが…。
青田さんへ
黒田裕樹 そのとおりです。
外交問題は綺麗事では済まされません。
聖徳太子の精神を思い出したいものですね。
1.神奈川(かながわ)・長崎・新潟(にいがた)・兵庫を新たに開港し、江戸や大坂で開市(かいし、市場を開くこと)を行うこと。
2.通商は自由貿易とすること。
3.外交官の江戸駐在(ちゅうざい)や日本国内の旅行を認めること。
4.開港場に居留地(きょりゅうち)を設けるが、一般外国人の国内旅行を禁止すること。
ここまではまだ良かったのですが、問題だったのは以下の2つでした。
5.アメリカに対して領事裁判権を認めること(=治外法権)。
6.関税はあらかじめ両国で協議すること(協定関税制=きょうていかんぜいせい)。
5.の問題については先述したとおりですが、もっと深刻(しんこく)なのは6.でした。協定関税といえば聞こえは良いですが、実際には日本に関税自主権が認められなかったのです。
なお、1.について、実際には神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港しました。ちなみに日米和親条約で開港した下田は、横浜の開港後に閉鎖(へいさ)されています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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晴雨堂ミカエル TPP参加とISD条項は新たな開国と治外法権ですな。
野田首相は知らんとか言っているが、もうアメリカとは話がついているだろうし、野田政権はアメリカに従う選択肢しかないと考えているはずです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 TPP問題は、参加する市内はもちろん、国益にかなうかどうかということも大問題のはずですが…。
今の政権に「国益」という概念が存在しているかどうかすら疑わしいですからね。不信感が募ります。
安保も
ろっぽん 安保も同じですね。このあと日本は日露戦争、日清戦争と勝利して権利を勝ち取っていく
司馬遼太郎が「坂の上の雲」でその状況を描いていますね。司馬遼太郎と言うと国粋主義者の作家と勘違いしてる読者がいますが、左にも右にも愛読者がいますね
司馬遼太郎は指揮権の曖昧さが軍部の独裁を招いたと記してますね
それから大衆が勝利したことで大衆がもっと戦争というナショナリズムの機運がわいたことが
破滅へ招いたという
そのへんをよく読まずに日本が好きになったなどという上面だけをなぞってる人がいる。
外交とは戦い
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
この時の幕府は、あまりにも、無知すぎましたね。
今の野田政権も私は、五十歩百歩のような気がします。
というのも、外交という目に見えない戦いをするには、相当な能力が要求されるからです。
陸奥宗光、小村寿太郎は
◆ 目が潰れると周りが心配するほど、本を読んで勉強したそうです。
◆ しかも、アジアの植民地支配の実態を知っているから、交渉とは命懸の駆け引きだとわかっていました。
今の
素人集団の野田政権では、初心者マークのついた
ドライバーがいきなり、F1レースに出場するようなものなので、不安でしかたありません。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 確かに仰る一面がありますね。
物事の表面だけをとらえることは道を誤ることにつながります。
戦争の善悪とともに、治安維持法や生類憐みの令のような「見た目が悪法」の真実も知っておきたいものです。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、国と国とのやり取りは命のやり取りに近いものがあります。
民主党に限らず、今の甘すぎる政治家にそれだけの覚悟があるでしょうか。
相手の言うことを聞くことだけが外交ではないのですから。
例えば、国内にて100円で販売(はんばい)されている商品に対し、外国の同じ商品が50円で買える場合、関税を40円に設定して合計90円での販売となれば十分対抗できることになります。
このためには関税自主権が必要となるのですが、日米修好通商条約によって我が国には認められませんでした。このため、外国の安い商品が低い関税で輸入されることで、国内の産業が大きな打撃(だげき)を受けるとともに、関税による収入が見込(みこ)めないことで、我が国は二重の苦しみを味わうことになってしまいました。
なお、日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ、条約に対する国家の確認・同意を示す文書のこと)を交換(こうかん)するため、幕府は1860年に外国奉行をアメリカに派遣(はけん)しましたが、その際に勝海舟(かつかいしゅう)や福沢諭吉(ふくざわゆきち)らが乗船した幕府の軍艦(ぐんかん)の咸臨丸(かんりんまる)が、使節に同行して太平洋横断に成功しています。
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ぴーち こんにちは!
少しお休みさせていただいている間に随分と
お話が進みましたね^^
またこれから追々と勉強させてくださいね!
凸
福翁自伝。
晴雨堂ミカエル 渡米の状況を福沢諭吉は詳しく書いていますね。当時、15歳くらいの写真館の女の子と諭吉がツーショットが印象に残っています。
勝海舟のことを悪く書いているのが面白かったです。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いつの間にか幕末ですからね(^^ゞ
これからゆっくりと学習していきましょう(^_^)v
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 福沢諭吉が咸臨丸に乗船していた事実は有名ですよね。
勝海舟とは相性が悪かったのでしょうか?
小栗忠順
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
咸臨丸、たしか小栗忠順も乗船していた気がします。
知名度では、勝海舟が有名ですが
小栗忠順は、地球を一周して、日本に帰国していることもあり、非常に優秀な人物だった気がします。
◆ フィラデルフィアで、通貨の交換比率の交渉をし、
◆ 横須賀製鉄所を建設し、明治の海軍の原動力となり
◆ 株式会社兵庫商社を設立し
◆ 日本初の築地ホテルを建設しました。
これらの政策を明治維新の前に実行し
しかも、歴任した役職が
勘定奉行・陸軍奉行・江戸南町奉行・外国奉行などです。
ドラマで、勝海舟は、ドラマになりますが
小栗忠順のほうがよほど、日本の明治の近代化の礎を創ったと思います。
出来れば、明治の世も生き残って、日本の近代化のためにその力を活かして欲しかったです。
黒田先生は、どう思われますか?
青田さんへ
黒田裕樹 勝者の歴史が中心となっている以上、小栗忠順が不当な評価を受けている面は確かにあると思います。
ただし、小栗による戊辰戦争の際の慶喜への策は、一時的には幕府の勝利をもたらした可能性はあっても、江戸付近における内乱が史実よりずっと続くことになり、江戸城の無血開城もあり得なかったでしょう。混乱が長く続けば、外国に付け入るスキを与えるだけです。
小栗の弱点は「幕府中心の政治」にこだわったことであり、それが現実に不可能であった以上は、近藤勇同様に幕府滅亡と運命を共にする存在だったのかもしれません。
榎本武揚
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
主戦論者の小栗忠順が、幕府と運命を共にしたのは、仕方ないとして
超主戦論者で、しかも、蝦夷共和国まで、創った榎本武揚が、その後、明治政府の要職を歴任したのは、私は、以下の仮説を考えました。
①小栗忠順よりも、榎本武揚のほうが優秀で、
明治政府に必要だと明治政府が判断したから
② 官軍の総大将の黒田清隆が、榎本武揚の才能を高く、評価し、助命運動を起こした。
①②の理由だと思うのですが、いかがでしょうか。
青田さんへ その2
黒田裕樹 先述の小栗も今回の榎本もこれからの通史で出てきますし、時代背景を詳しく紹介するとネタバレになるのであまり書けませんが(笑)、榎本の場合は優れた才能に惚れ込んだ黒田の尽力が大きかったでしょうね。
あとは、榎本に新政府で働くことの抵抗感がなかった(といっても幕府への忠誠心がなかったわけではないと思います)ことでしょうか。
いずれにせよ、将来出てくる事項はここで書くよりも、今後の更新で折に触れて紹介することになるでしょう。
ありがとうございました
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
また、フライングをしてしまいました。
失礼しました。(苦笑)
これからの更新を楽しみにしていますね。
ありがとうございました。
青田さんへ その3
黒田裕樹 ご理解いただきありがとうございます。
今後の更新にご期待下さい。
注目すべきことは、我が国が長年貿易を行ってきたオランダとも不平等条約を結ばされたという現実でした。オランダの立場からすれば「他国が不平等な条約を結んでいるのに、自分の国だけが平等というわけにはいかない」という思いは当然ではありますが、幕府が以前にオランダ国王からの開国勧告に従っていれば、少なくともこんな事態にはならなかったはずなのです。
これらはすべて、鎖国にこだわり国際的な常識や外交知識を持たなかったことで、相手の言われるままに不平等条約を結ばされた幕府によるとてつもなく大きな失政のツケでした。ちなみに、領事裁判権が撤廃(てっぱい)されるのは明治27(1894)年、関税自主権の回復に至(いた)っては明治44(1911)年まで待たなければならなくなります。
さて、こうして我が国は開国して他国との貿易が開始されたのですが、開国に向けての準備を何一つ行わなかったことで様々な問題が発生し、庶民の生活を大きく圧迫することになってしまうのでした。
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ぴーち こんにちは!
ただ闇雲に他国と歩調を合わせる為という理由で
言いなりになってしまい、ふと気づくと自国の情勢や、態勢に不備があることに気づきもしなかったとしたら、失政であると言わざる負えないですよね。
実はこの所の日本の失政を思いながら、先日まで日本を訪れていたブータン王国の考え方に共感していた所です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、失政の一面が強すぎる思いがします。
幸いにも優秀な民間がフォローして滅亡だけは免れましたが、現在は果たしてどうでしょうか…。
ブータン国王のご来日は、私たち日本人が忘れつつある様々なものを思い出させて下さった思いがしますね。
開国勧告
ろっぽん オランダ国王からの開国勧告に従っていれば
それはアメリカの前ですか
寺島実郎教授は日本とオランダの関係を研究していて 我々は意外とオランダのことを知らないですよね
国王というのを設置したのはフランス革命の後だそうですね
国王といっても、象徴のようなもので
自由というとフランスが最初のような気がしますが、オランダが最初なんだってね
今でもその気風が残っていて
多様性を認めるみたいな気風で同性愛の結婚を認めるとか、マリファナが合法化されてるとか
そういった部分に現れていますね。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 オランダ国王の開国勧告は1844年ですから、アメリカのビッドルが来航した1846年より前ですね。
もしオランダの段階で受けいれていれば、少なくともペリーによる脅迫外交はなかったでしょう。
オランダに限らず、最近は移民問題でどこも苦しんでいるようですね。
条約の『重み』と『軽さ』
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
日本人は、条約の重さへの認識が非常に小さい気がします。
◆ 子の時の不平等条約が改正されるのに50年掛ったという事実。(半世紀)
◆ 香港が、100年間イギリスに租借されたという事実。
にも、関わらず、外国が条約を平気で、破っても
強硬に主張しない姿勢。
◆ ロシアの北方領土の占領(ロシアによる条約違反。)についての交渉力。
◆ 日韓基本条約で、補償問題が解決しているのに今だに、補償問題にキッチリとした主張が出来ていない。
こう考えると、日本は、国際社会で、お人好しの
世間知らずのような気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
繰り返しになりますが、歴史に学ぶ姿勢は重要です。
何も考えないのは一番良くありません。