平城天皇の皇太子(安殿親王)時代に、一人の娘が親王の妃(きさき)として迎え入れられました。その娘はまだ幼かったので、後見として母親も娘と一緒についていったのですが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。何と親王と妃の母親が「男女の仲」になってしまったのです。そして、その母親こそが藤原薬子でした。
安殿親王と薬子の不倫ともいえる関係に激怒された桓武天皇によって、薬子は朝廷から追放されてしまいましたが、桓武天皇が崩御されて平城天皇が即位されると、薬子は再び召し出され、二人の関係はさらに深くなっていきました。と同時に薬子の兄にあたる藤原仲成(ふじわらのなかなり)も出世を重ね、朝廷では仲成・薬子兄妹による政治の専横が続きました。
809年、平城天皇は病気のために退位され、弟の嵯峨天皇(さがてんのう)が第52代天皇として即位されました。平城上皇は平城京に移られて療養されましたが、やがて健康を回復されると、仲成・薬子兄妹の助言もあって再び政治に意欲を持たれて嵯峨天皇と対立し、さながら「二所朝廷」(にしょちょうてい)の様相を呈(てい)するようになりました。
いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
そうですか。。。薬子さん、寵愛を受けて
お育ちになられただけあり、結構我がままなご性格
だったのかもしれませんね。
不倫という道徳に反した行いも平気で
行えるというのは、自己中心的な性格の
表れですものね。
チャールズ皇太子とカミラ夫人の関係にも
似ていたりして・?
ダイアナは哀れでしたね。。
今頃はまだお忙しい最中ですね^^
では、またお邪魔します☆
ケンシロウ こんにちは。
今日は講座は如何でしたでしょう?
お疲れ様でした。
この時代に不倫とは珍しい関係ですね。
一夫多妻制を容認するイ○ラム教の信者だったとかw
年上が好み?
オバrev 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
明智光秀の話、楽しみにしております。
藤原薬子ですが、娘が幼すぎたということは、
安殿親王とは、まあ薬子が年下ということはないかもしれないけど年が近かったんでしょうか?
スポーツ選手でも2~3才年上の姉さん女房も結構いるし・・・まさか10才年上なんてことはないですよね (゚Д゚;)
しかし、このケースでは、薬子が平城天皇を惑わしたこともあるでしょうが、年上が好みの平城天皇が惚れ込んでいたように思えます(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 藤原薬子の存在はあまり知られていませんが、彼女の「不倫」によって、平城天皇をはじめ多くの人の生き様が変化しました。このあたりは今も昔も変わらないようですね。
ただ、薬子には薬子の言い分もありました。今日(30日)の更新で詳しく触れています。
昨日(29日)は大盛況でしたよ!
また別の記事で詳しく紹介しますので、今しばらくお待ち下さいm(_ _)m
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 お気遣い有難うございます。昨日(29日)の講座は大盛況でしたよ(^o^)丿
子孫を残すことが第一とされた時代は、仰るような「一夫多妻制」が当たり前でもありました。しかし、薬子のような「逆」のパターンは珍しいうえに、今回のような政変にまで発展したのは他に例がないですね。それだけに印象深い歴史でもあります。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 黒田先生 歴史講座お疲れ様でした。
> 明智光秀の話、楽しみにしております。
有難うございます。別の記事でも書きますが、光秀については9月1日からブログ上の更新を始めます。今回からはそれだけではなくて…?
> 藤原薬子ですが、娘が幼すぎたということは、
> 安殿親王とは、まあ薬子が年下ということはないかもしれないけど年が近かったんでしょうか?
> スポーツ選手でも2~3才年上の姉さん女房も結構いるし・・・まさか10才年上なんてことはないですよね (゚Д゚;)
> しかし、このケースでは、薬子が平城天皇を惑わしたこともあるでしょうが、年上が好みの平城天皇が惚れ込んでいたように思えます(^_^;)
薬子の生年は不詳ですが、おそらく年上だったと思います。というのは、最後のお言葉とも関連するのですが、「早良親王のタタリ」によって病気がちになったうえに、若くして母親を亡くしてしまわれるという環境でお育ちになったので、年上の女性にひかれる可能性は十分にあったからです。
天皇ご即位後の薬子との二人三脚の政治ぶりを振り返れば、二人は不倫の関係にありながら「相思相愛」の関係にあったかもしれませんね。
810年9月、平城上皇はついに平城京への再遷都を宣言されましたが、事前に察知された嵯峨天皇に動きを封じられ、上皇は東国へ逃れようとされましたが、先回りした坂上田村麻呂らによって阻止されました。進退窮(きわ)まった平城上皇は出家されることで許され、仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害しました。この事件を「薬子の変」といいます。
藤原仲成と藤原薬子の兄妹は、長岡京の造営責任者で暗殺された藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の子でした。薬子の変の背景には、種継が命がけで造営しようとした長岡京を結果的に「捨てた」桓武天皇に対する激しい憤りがあったとされています。尚、射殺された仲成以来、朝廷で死刑が執行されることはなくなりました。死刑の復活は12世紀半ばの「ある事件」まで待つことになります。
薬子の変の結果、藤原四兄弟の宇合(うまかい)を始祖とする式家(しきけ)は没落し、房前(ふささき)の子孫である藤原冬嗣が率いる北家(ほっけ)が力をつけるきっかけになりました。また、薬子の変の際に嵯峨天皇の側について勝利の祈祷を行い、後の出世につながる働きをした僧がいました。その名を空海(くうかい)といいます。
いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
monariz 一番乗りかな?
再遷都なんて話は始めて聞きましたねー
確かに阻止されたのであれば、まぁ重要ではないのかもしれませんけど・・・ ていうか嵯峨天皇とか聞いたことないです。
長岡京でそんなつながりがあったんですか。それは知りませんでした。これも歴史的には面白い話だと思うんですけどねー。やはり授業時間の問題ですよね。
ある事件ってなんでしょう。木になります。待ちます。
空海さんがここで出てくるんですか!それと絡めれば授業にだせないことも・・・ ま、そんなに覚えられませんよね。 空海さんがかつやくするタイミングを待ってます。
紗那 申し訳ありません。さきほどのコメントは自分のものでした。
友人の家からのアクセスなもので。変更するのを忘れていました。
紗那さんへ
黒田裕樹 > 一番乗りかな?
ハイ、一番乗りです(笑)。
> 再遷都なんて話は始めて聞きましたねー
> 確かに阻止されたのであれば、まぁ重要ではないのかもしれませんけど・・・ ていうか嵯峨天皇とか聞いたことないです。
このあたりは高校の日本史で初めて学びますからね。まぁ今回で理解しておいて損はないですよ(^^ゞ
> 長岡京でそんなつながりがあったんですか。それは知りませんでした。これも歴史的には面白い話だと思うんですけどねー。やはり授業時間の問題ですよね。
薬子の変によって、桓武天皇―長岡京―藤原種継―藤原薬子―平城天皇―嵯峨天皇が全部つながるんですよ。話の内容も面白いし(特に女性向き)、生徒のためにもなるんですが、仰るとおり授業時間が…。
> ある事件ってなんでしょう。木になります。待ちます。
いずれ紹介しますよ。その時に「あぁ、薬子の変以来か!」と思い出せればOKですね(^_^)v
> 空海さんがここで出てくるんですか!それと絡めれば授業にだせないことも・・・ ま、そんなに覚えられませんよね。 空海さんがかつやくするタイミングを待ってます。
さすがに欲張りすぎかな(^^ゞ
まぁこれも覚えていて損はないですよ。空海が活躍できたのにはそれなりの理由があったということです。
> 申し訳ありません。さきほどのコメントは自分のものでした。
> 友人の家からのアクセスなもので。変更するのを忘れていました。
いえいえ、お構いなく。ご友人のmonarizさんにも、是非私のブログを勧めて下さいね(^^♪
ぴーち こんばんは!
講座、今回もご盛況だったとのこと、
喜ばしい事です!
ここまで藤原家一族の末路というのは、何やら
まともな最期を迎えられていない様な気がするのですが・・^^;
空海は存じております。
こういう繋がりがあったんですね。
それでは、また、お邪魔します!
安眠癒しグマ こんばんは☆
ようやくパソコンができる状態になりました。。。
下のコメントかえしありがとうございました。講座、たくさん予定されていますもんね♪またの機会に是非。そして、記事たのしみにしてますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 講座は皆様のお陰で大盛況でした。詳しくはこの後の別記事で紹介しますね(^^♪
そうですね。これも藤原氏の激しい勢力争いが呼んだ結末なのでしょうか…。ただ、今回の「薬子の変」によって藤原北家が勢力を伸ばしたことで、今後の展開が変わることになります。
空海も歴史の表舞台に突然姿を現したわけではないんですよね。歴史の流れを実感する一場面だと思います。
安眠癒しグマさんへ
黒田裕樹 > こんばんは☆
> ようやくパソコンができる状態になりました。。。
体調ご回復されましたか?
良かったですね(^^♪
> 下のコメントかえしありがとうございました。講座、たくさん予定されていますもんね♪またの機会に是非。そして、記事たのしみにしてますね。
いえいえ。講座につきましては今後も続けてまいりますので、是非ご参加下さいね!
ケンシロウ こんにちは。
講座は大盛況だったようですね。
薬子の変と呼ばれるので自害ではなく
殺されたものと記憶しておりました。
やはりおいらの記憶は曖昧で
いい加減に覚えてきたということが立証されましたw
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 講座の件、お言葉有難うございます。
薬子の変ですが、仰るとおり自害で決着しています。いつもの言葉ですみませんが、これを機会に理解くださればと思いますよ。
徳薙零己 お初にお目にかかります。平安時代初期を舞台とする小説をブログで書いている徳薙零己(とくなぎ・れいき)と申します。
藤原薬子については50日に渡って公開し、その後の藤原冬嗣については120日かけて公開するという長さになっていますが、簡潔にまとめるとこうなのだな、という思いにさせられます。
また、嵯峨天皇は法制の整備にも力を入れられました。大宝律令や養老律令が制定されて以来、年月の経過や社会の変化によって様々な法令が出されましたが、これらは律令の規定を補足・修正する格(きゃく)と、律令の施行細則(しこうさいそく、法令などを施行する上で必要なことを定めた細かい規則のこと)である式(しき)とに分類・編集されました。
820年にまとめられた格と式は、当時の年号から「弘仁格式」(こうにんきゃくしき)と呼ばれました。その後、第56代の清和天皇(せいわてんのう)の時代に「貞観格式」(じょうがんきゃくしき)が、第60代の醍醐天皇(だいごてんのう)の時代に 「延喜格式」(えんぎきゃくしき)が相次いで編さんされました。これら三つの格式は、あわせて「三大格式」と呼ばれています。
弘仁格式の編さん後に、令(りょう)の解釈を統一するために833年に第53代の淳和天皇(じゅんなてんのう)が作成を命じた、法的効力を持つ「令義解」(りょうのぎげ)が清原夏野(きよはらのなつの)らによってまとめられました。一方、法的効力はもたないものの、惟宗直本(これむねのなおもと)が独自にまとめた「令集解」(りょうのしゅうげ)も伝えられています。
(明日からは第4回歴史講座の内容を、6時と18時の二回に分けて更新します)
いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
オバrev 格式というのは、各省庁が、詳細が示されてない法律の具体的な解釈について、国会のチェックも受けずに、各省庁独自にだしている通達のようなものですね。
でも我々零細業者はこの通達に右往左往させられてます(T_T)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 格式というのは、各省庁が、詳細が示されてない法律の具体的な解釈について、国会のチェックも受けずに、各省庁独自にだしている通達のようなものですね。
そうですね。法律というものは今も昔も難解で、解釈にも様々な学説があるものです。そんな法解釈を出来るだけ分かりやすくまとめたものが格式だったのですが、時代が下るにつれて我が国の実情に沿った内容に変えられているのも大きな特徴です。
> でも我々零細業者はこの通達に右往左往させられてます(T_T)
現在の施行細則は政令で定められますから、国会の決議を必要としないんですよね(内閣で勝手に決められる)。確かに頭痛の種ではあります。