我が国は独立を守るためにロシアに宣戦布告(せんせんふこく)して日露戦争が始まりましたが、開戦前の日本陸軍は満州(まんしゅう)でのロシア軍主力との早期決戦を想定しており、遼東半島の一大軍事拠点であった旅順の攻略はそれほど重要視していませんでした。
一方、日本海軍は旅順港を根拠地(こんきょち)とするロシア太平洋艦隊(たいへいようかんたい)を壊滅(かいめつ)させたうえで、ヨーロッパから回航(かいこう)してくるであろうバルチック艦隊との決戦を想定しており、その前提として旅順を自力で陥落させる心積(こころづ)もりでした。
このため、海軍は陸軍に対して「旅順攻略への援助(えんじょ)は不要である」と言い切って旅順港を攻撃(こうげき)しましたが上手(うま)くいかず、ロシアがバルチック艦隊の東航(とうこう)を公表したこともあり、旅順の太平洋艦隊との合流を避(さ)ける意味でも早期の旅順攻略を陸軍に要請(ようせい)しました。
しかし、海軍が旅順攻略を陸軍に正式に要請したのが開戦から5ヵ月も経(た)った7月であり、ロシア軍が旅順の要塞を強化する時間を十分に与えてしまったことが、その後の陸軍の旅順攻略戦を大いに苦しめる原因となってしまったのです。
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- 黒田先生
青田です。
ロシアの旅順の要塞化は、
CGの復元で、観ましたが、驚きました。
ロシアは、世界最強の陸軍国だけあって、
何をすべきかという戦略・戦術を十分に分かっていた気がします。
逆に日本は、初めての近代戦の経験だったので、
首脳部も初期の対応が、大きく、間違った気がします。
ただ、これらのことは、結果論で後から、考えてわかることなので、仕方ないですね。
現代の教訓としては、戦いは、時間との戦いということを痛感します。
後2年経って、某国が膨張した場合、尖閣諸島が。。。
ぴーち こんばんは!
何故に海軍は、陸軍に対して正式要請が
そんなに遅れてしまったのでしょうね?
何か決定的な原因があったのでしょうか?
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、未経験による失敗は致し方ない面もあります。
過去の経験に学ぼうとしない姿勢は大いに問題ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 日露戦争に限りませんが、陸軍と海軍とはずっとライバル関係にありました。
海軍だけで大丈夫と豪語してしまった以上は引くに引けないところもあったのではないでしょうか。
いずれにせよ、このタイムラグが乃木将軍率いる第三軍を苦労させたことに変わりはなく、悔やまれる問題です。
乃木が第三軍の司令官に選ばれた理由は、先述(せんじゅつ)のように日清戦争において乃木が旅順の要塞をわずか一日で攻略したからでした。そんな流れがあったからか、陸軍はロシアが守る旅順要塞も容易(ようい)に落とせると錯覚(さっかく)し、敵の兵力を約15,000人と見積もったうえで、その約3倍となる約50,000人の兵力を第三軍に与えました。
しかし、それは児玉源太郎参謀次長(さんぼうじちょう、後に総参謀長=そうさんぼうちょうに昇任)を始めとする陸軍参謀本部の完全な誤解でした。1898(明治31)年に清国から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること)して以来、ロシアが旅順の要塞工事に多大の労力を費(つい)やしたことで、旅順要塞は兵力約47,000人を誇(ほこ)る世界一の堅城(けんじょう)と化し、いかなる敵を引き受けても「3年は支えることができる」という「永久要塞」となっていたのです。
そんな事情も知らず、乃木は旅順攻略の司令官としてロシアとほぼ同じ数だけの兵数しか与えられずに現地で指揮をとることになりました。想像を遥(はる)かに超越(ちょうえつ)した堅固(けんご)な要塞と化した旅順を、バルチック艦隊が合流するまでに一日も早く攻略しなければならない。乃木率いる第三軍の苦難(くなん)に満ちた死闘(しとう)が始まろうとしていました。
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ぴーち こんにちは!
いかなる無敵な巨大勢力だとしても
弱点が微塵も無い作戦など存在しないと
思いますので、乃木将軍がどうそこを見つけ出し、突破することが出来たのか
その後のお話に期待したいと思いますが。。
大丈夫でしょうか^^;
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに深刻な問題ですからね。
乃木将軍の手腕にも注目いただければと思います。
そもそも要塞を攻略しようとすれば、攻撃側は守備側の少なくとも3倍以上の兵力を要する一方で、犠牲者(ぎせいしゃ)は相手に倍するのが通常でした。
陸軍参謀の情報不足から結果的にロシア軍とほぼ同数の兵力しか与えられなかった第三軍の苦闘は、前哨戦からすでにその兆候(ちょうこう)を見せるという結果となったのです。
しかし、前途多難(ぜんとたなん)を思わせた前哨戦を制した第三軍は、兵力と火力の絶対的不足にもかかわらず意気軒昂(いきけんこう、意気込みの盛んな様子のこと)でした。決死の覚悟(かくご)で旅順に乗り込んだ乃木の「腹を括(くく)ったリーダー」ぶりに、多くの兵士がロシアに対する闘志(とうし)をみなぎらせ続けたからです。
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ぴーち こんにちは!
「腹を括ったリーダーぶり」は、
それ以前に犯してしまった旗喪失の一件が
乃木将軍を強靭な精神力に仕立てたのでしょうね。
死をも恐れぬ攻撃というのは、相手にとっては
最強に怖い存在となりますものね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 「腹を括ったリーダーぶり」は、
> それ以前に犯してしまった旗喪失の一件が
> 乃木将軍を強靭な精神力に仕立てたのでしょうね。
> 死をも恐れぬ攻撃というのは、相手にとっては
> 最強に怖い存在となりますものね。
なるほど、そういう観点もありますね。
いずれにせよ、厳しい戦いになると「腹を括った」乃木将軍と、彼を慕った前線の将兵たちとの精神力がその後の我が国の運命を変えたといえそうです。
もし西北正面を中心に攻めるとすれば、第三軍を西方に移動させなければならず、時間がかかるうえに軍の背後が脅かされて挟み撃(う)ちにあう危険性(きけんせい)があったからです。一方、要塞の心臓部である東北正面に大きな打撃(だげき)が与えられれば、速やかに旅順を攻略できるというメリットがありました。
第三軍は海軍から「ロシアのバルチック艦隊が旅順の太平洋艦隊と合流する前に一刻も早く旅順を落としてほしい」という要請を受けており、旅順の早期攻略は至上命令(しじょうめいれい)でもありましたから、日数のかかる西北正面の攻撃ははじめから考慮(こうりょ)されなかったのです。
さらに付け加えれば、東北正面への攻略は第三軍が独断(どくだん)で決めたのではなく、満州軍総司令部(まんしゅうぐんそうしれいぶ)の大山巌(おおやまいわお)総司令官も児玉総参謀長も全く異存(いぞん)がなく、そもそも参謀本部が旅順攻略について作戦を立てた当初においても東北正面への攻撃を優先していたという事実も私たちは知るべきでしょう。
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ぴーち こんにちは!
私は囲碁は嗜んだことがありませんが、
囲碁は互いの国同士の戦に似ていると
聞いた事があります。
きっと戦術に長けた方の頭の中には、碁盤お目のような展開が常に駆け巡っているのでしょうね。
一触即発になるやもしれないリスクを犯してまでも、その地雷をわざと踏むことで
解決のスピードを速める戦略もあるのですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 私も囲碁は趣味としておりませんが、一口に戦いと言っても様々な手法がありますからね。
旅順攻略の場合は時間的制約もありましたから、乃木将軍の判断には当然の理由もありました。
事後の理屈はいくらでも述べられますが、当時の状況を理解してから論ずるべきでしょうね。
さて、先述のとおり旅順の早期攻略を要請されていた第三軍は、旅順要塞の総攻撃にあたり強襲法(きょうしゅうほう)を採用し、8月19日から総攻撃を開始しました。
しかし、永久要塞を自称(じしょう)する旅順要塞の堅固さは、第三軍の度重(たびかさ)なる砲撃(ほうげき)にびくともせず、ロシア軍の守兵もほぼ無傷(むきず)でした。第三軍は圧倒的なロシア軍の攻勢に苦しみながらも健闘(けんとう)を重ね、一時は重要な堡塁(ほうるい、土塁や石塁などを巡らした堅固な砦のこと)を2つ占領(せんりょう)するなどの戦果を挙げましたが、無念にも砲弾(ほうだん)が尽(つ)きてしまい、同月24日に乃木は攻撃を中止せざるを得ませんでした。
後に第一次総攻撃と呼ばれたこの戦いは敗北に終わり、第三軍は総兵力約50,000人のうち約16,000人という3割以上の膨大(ぼうだい)な死傷者を出してしまいました。
さて、後年になって第一次総攻撃の失敗は乃木の無能な突撃(とつげき)によるものとして非難(ひなん)されることが多いようですが、そもそも海軍の遅すぎた攻撃要請がロシア軍による旅順の永久要塞化をもたらしたという事実があるうえに、事前に情報入手を怠(おこた)った陸軍参謀本部にこそ主因(しゅいん)があるのではないでしょうか。
ましてや第三軍の兵力がロシア軍とほぼ同数であるという絶対的な兵力不足や、一時は堡塁を占領するなど奮戦(ふんせん)していながら攻撃を中止せざるを得なかったという砲弾不足もありましたし、さらに付け加えれば、当時の日本軍は知る由(よし)もなかったのですが、第一次総攻撃でロシア軍が受けた打撃も決して少なくなかったのです。
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ぴーち こんばんは!
任命されたのなら、成功するのが当たり前
だと認識されてしまうのは、きついですね(^^ゞ
少しでも失敗が生じれば、全責任を主導者が
請け負わなければいけなくなるのも、腑に落ちないこととは言え、それも人間である以上、一番犯しやすい罪なのかも知れませんね。人のせいにすれば、気が楽ですから(^^ゞ
それにしても、戦争で圧勝すれば、敵を多く作ることにも繋がる事ですし、これはあくまで個人的な意見ですが、国の為には何も圧勝出来なくても良いのでは
無いかと思うんですよね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、様々な原因が重なっての失敗を、現場だけの責任で済ませるのはあまりにも無責任です。
なお、いわゆるパーフェクトゲームに関しては確かに恨みなどが残りそうですが、中途半端で済ませてしまうと後々息を吹き返す原因ともなりかねませんし、難しいですね。
つまり、第三軍に今少しの兵力とあと数日分の砲弾があれば、旅順はこの時に陥落した可能性が高かったのです。第一次総攻撃自体は確かに第三軍の敗北に終わりましたが、その一方でロシア軍に精神的なものを含(ふく)めた大きな打撃を確実に与えていたことを私たちは忘(わす)れてはならないでしょう。
また、第一次総攻撃において第三軍は約3割の死傷者を出しましたが、これだけの犠牲を出せば通常であれば全軍が意気消沈(いきしょうちん)し、壊滅しても決しておかしくはありません。しかし、軍の将兵は「次こそはきっと勝てる」と大敗北を喫(きっ)したにも関わらず意気軒昂でした。
最悪の環境(かんきょう)や不利な条件の下でも決して希望を失わず、敗れてなお闘志を燃やし続けた第三軍を支えたのが、乃木という「腹を括(くく)った」司令官の存在であったことは言うまでもありません。
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ぴーち こんにちは!
これまで色々と日本の戦いぶりを拝見していると、日本の戦い方というのは、日本人独特な要素が随所に見られますね。最終的に相手を追い詰めても、最後の一撃は加えない。それ以上執拗に追い詰めない。武士の情けという武士道精神がそれを許さないのかも知れませんが、確かに戦争というのは、徹底的に相手国にダメージを加え、二度と立ち上がれない程に追い詰めなければいけないのでしょうけれど、人道的な思いと戦争である現実の狭間で戦争とは自分を先に殺さないと、相手を殺害することが出来ない惨いものだと感じました。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 我が国の戦争には仰る一面が確かにありますね。
史実の日本軍の健闘ぶりや武士道精神を鑑みれば、大東亜戦争の頃の残虐行為とされるものがいかに「眉唾物」であるか理解できるというものです。