備中松山藩の改革成功の噂(うわさ)を耳にした越後長岡藩士(えちごながおかはんし)の河井継之助(かわいつぎのすけ)は、本当かどうかを自分の目で確かめたくなって安政6 (1859)年に方谷を訪ねました。当初は農商出身の方谷を「山田」と呼び捨てにしていた継之助でしたが、方谷による言行一致(げんこういっち)の見事な振(ふ)る舞(ま)いや、彼が進めた藩政改革の成果を見て「山田先生」とすぐに態度を改め、深く心酔(しんすい)するようになりました。
方谷から多くを学んだ継之助は帰藩後に越後長岡藩の藩政改革を断行して多くの成果を収(おさ)めましたが、後に北越戦争(ほくえつせんそう)において官軍(かんぐん)と戦った際に負傷し、慶応(けいおう)4年(=1868年)に42歳で亡くなりました。
臨終(りんじゅう)の際、継之助は「もし備中松山に行くことがあれば、河井は生涯先生の教えを守ったと方谷先生に伝えてもらいたい」と言い残したそうです。
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晴雨堂ミカエル 幕末ファンの間では、継之介はガトリング砲で有名ですね。
奥羽諸藩の多くが、火縄銃やヤーゲルやゲベールなど先込め銃で薩長を相手に戦いましたが、越後長岡藩は最新のスナイドル銃で武装し日本で当時3機しかなかったガトリング砲を1機を配備、すべて継之介の手配です。
今週の大河ドラマ「八重の桜」で、會津の佐川官兵衛と河井継之介がガトリング砲の図面を見ながら意気投合、「奥羽越一丸となって薩長を返り討ちにすんべし!」「おう!」という場面がありました。
タイムリーですね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 偶然ではありますが確かにそうですね。
ぴーち おはようございます!
言行一致。
言うは易しですが、
これが普通の人間にはなかなか
到達できない境地ですよね(^^ゞ
己の口から発せられた言葉通りに
行動も伴える人間こそ、
もっとも信頼を勝ち得る存在と
確信しています。
また、逆に
口先ばかり、その場限りの
逃げ口上ばかりで
全く行動を起こさない、あるいは
口では大層な事を言っていても
態度はいい加減だったりする場合は
信用ならない人物というレッテルを
直ぐに貼られてしまいますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
陽明学の神髄でもある知行合一が、言行一致の素晴らしい実行力を生んだとも言えるでしょう。
山田方谷の実績の確かさを証明するエピソードでもあると思います。
里正隊を中心とする見事な訓練ぶりに感嘆(かんたん)した久坂は、単なる財政改革の成功だけではなく、教育面や軍事面など身分制度にとらわれない様々な改革によって優秀な人材を輩出(はいしゅつ)しているところに軍政の神髄が存在することを理解しました。
後に久坂は元治(げんじ)元年(=1864年)の禁門(きんもん)の変において負傷して自刃(じじん)しますが、生前(せいぜん)の久坂から方谷の話を聞いていたとされる高杉晋作(たかすぎしんさく)によって「奇兵隊(きへいたい)」が組織され、幕末における長州藩を軍事面から支えましたが、方谷による里正隊は奇兵隊よりもおよそ10年近くも早く結成されていたことになります。
これらのように、方谷による藩政改革の成果は全国的な評判を呼んで他藩の改革にも多大な影響を与えましたが、それは同時に備中松山藩自体にも数奇(すうき)な運命をもたらすことになりました。
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ぴーち おはようございます!
奇兵隊の方は確かに記憶に残っていますが、
方谷氏の里正隊の方は今回黒田さんの記事にて初めて知ることが出来ました。ありがとうございます。
しかしながら、高校の教科書でも習った記憶が無いのですが(私が忘れているだけかも知れませんが(^^ゞ)
何故にこれほどまでの功績を残した方なのに、
もっと人々の記憶に残るほどの教育がされなかったのか疑問です・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 山田方谷は現在の歴史教科書でも紹介されておりません。
その理由は色々ありますが、また後半でお知らせしたいと思います。