1791年、工藤平助と親交があった林子平(はやししへい)が我が国における海岸防備の必要性を説いた海国兵談(かいこくへいだん)を著(あらわ)しましたが、定信は「世間を騒がす世迷言(よまいごと、わけの分からない言葉のこと)を言うな」とばかりに直ちに海国兵談を発禁処分にし、ご丁寧(ていねい)に版木(はんぎ)まで燃やしてしまいました。
海国兵談の出版がもし田沼時代であれば、意次はまず間違いなく子平の考えを支持したでしょう。だとすれば、我が国は現実より半世紀以上も前に開国し、幕末に黒船に迫られて、相手の言われるままに欠陥(けっかん)だらけの不平等条約を結ばずに済んだかもしれません。それを思えば、海国兵談の発禁処分は定信による幕府の痛恨の失政でした。
ちなみに、定信は海国兵談の他にも政治を風刺(ふうし)したり、批判したりする書物の発行を禁じるとともに、黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)なども風俗を乱すという理由で発禁処分にしました。これらの命令を出版統制令(しゅっぱんとうせいれい)といいます。
また、定信は自らが学んできた幕府公式の学問である朱子学を、幕府ゆかりの湯島聖堂(ゆしませいどう)で学ぶ唯一の学問とし、それ以外の学問を学ぶことを禁止しました。これを寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)といいます。寛政異学の禁によって、諸藩(しょはん)も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学(らんがく)が衰退(すいたい)する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策(ぐさく)ぶりです。
いつも有難うございます。
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えめる 定信は、醜い嫉妬や身勝手な恨みの心に負けてしまったダメダメ将軍様だったのニャね?
意次が下地を作った、世のため人のためになる善い政策も、
文化としての人々の心のゆとりも、一国として世界と交わるチャンスさえ、
そのせまーい心がダメにしてしまったのニャね。
一生、本当の穏やかな心には、なれずに終わってしまったんでしょうか?
だとしたら、可哀相なお人ニャね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
憎しみや嫉妬で上まで登った人間の行う政治が
どんなものになるかの見本を見事に現してますね。
今とは比べ物にならない程
権力争いが激しい時代なので
こういった人物が上に立つのも仕方ない事しれませんが
この人の下を付いて行く事になった民衆はいろいろ苦労したと思いますね。
えめるさんへ
黒田裕樹 > 定信は、醜い嫉妬や身勝手な恨みの心に負けてしまったダメダメ将軍様だったのニャね?
嫉妬や恨みがつのると、確かに人間がダメになりますね。
定信なんかは典型的な感じがします。
> 意次が下地を作った、世のため人のためになる善い政策も、
> 文化としての人々の心のゆとりも、一国として世界と交わるチャンスさえ、
> そのせまーい心がダメにしてしまったのニャね。
そのとおりです。定信がダメにしたことは、幕府のみならず、国民全体を不幸にしてしまうあたりがひどい話ですよね(´・ω・`)
> 一生、本当の穏やかな心には、なれずに終わってしまったんでしょうか?
> だとしたら、可哀相なお人ニャね。
はた目から見れば可哀想ですが、本人は「自分が正しい」と死ぬまで思い込んでいたふしがありますね。肝がすわっているというか何というか…。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 憎しみや嫉妬で上まで登った人間の行う政治が
> どんなものになるかの見本を見事に現してますね。
全くです。
自身の意趣返しやうさ晴らししか考えていない。こんな人間に政治は任せられません。
> 今とは比べ物にならない程
> 権力争いが激しい時代なので
> こういった人物が上に立つのも仕方ない事しれませんが
> この人の下を付いて行く事になった民衆はいろいろ苦労したと思いますね。
後々の影響を考えれば、現代に生きる我々にも影響を与えていますよね。
国家百年の計を誤るとどうなるかという見本にもなっているような気がします。
.
ぴーち 人を呪わば、穴二つ・・
結局、相手を恨めば、自分もやがて
同じ様な運命を辿らなければ、ならない訳ですものね。
それにしても、冒頭の部分の蝦夷地開発の打ち切りの件ですが、
現代でも、八ッ場ダム建設中止に揺らいでいる状況に、似ているように
感じました。
それでは、応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 人を呪わば、穴二つ・・
> 結局、相手を恨めば、自分もやがて
> 同じ様な運命を辿らなければ、ならない訳ですものね。
そういうことですね。
人を冷たく追い出した人間は、やがて自分も同じような目にあう…。
ただ、定信の残された人生が長かっただけの差なんですけどね。
> それにしても、冒頭の部分の蝦夷地開発の打ち切りの件ですが、
> 現代でも、八ッ場ダム建設中止に揺らいでいる状況に、似ているように
> 感じました。
なるほど、確かに進みつつある計画を問答無用で中止するあたりはそんな感じがしますね。
民主的な現代と違って、この時代はある意味やりたい放題なのかもしれません。
こんばんは
スカイラインV35 定信には今までは漠然と良いイメージのほうが強かったのですが、そうではないんですね。今で言えば、ある種の朱子学か徳川家の祖法の理想主義者か原理主義者みたいな感じだったんですかね。それにしても現在でも気を付けないと、会社や、そして政府でも形を変えて、この種の人間はいるかもしれませんね。。。
ところで私はブログのマナーというか作法を良く知らなかったのですが、黒田先生の歴史講座のリンクを張らせて頂きました。これからもよろしくお願いします。
スカイラインV35さんへ
黒田裕樹 > 定信には今までは漠然と良いイメージのほうが強かったのですが、そうではないんですね。今で言えば、ある種の朱子学か徳川家の祖法の理想主義者か原理主義者みたいな感じだったんですかね。それにしても現在でも気を付けないと、会社や、そして政府でも形を変えて、この種の人間はいるかもしれませんね。。。
仰るとおり、定信は朱子学の理想主義をとことんまで極めた原理主義者の傾向が見られますね。それゆえに自分に逆らう者、自分が許さない者は何があっても容赦はしない。
確かに現代にもいそうなタイプですね。
> ところで私はブログのマナーというか作法を良く知らなかったのですが、黒田先生の歴史講座のリンクを張らせて頂きました。これからもよろしくお願いします。
リンク有難うございます。私からもリンクさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
理想主義と自己満足は紙一重。
晴雨堂ミカエル 私が意次を高く評価するのは、現実主義の実務派で、目的意識がハッキリしていて達成の為の段取りを組み立て実行して行く能力でした。
それに比べて定信は、理想主義と呼べば聞こえは良い。善い政策もあるにはあります。が、その根底は自己満足です。
むかし某市民運動に参加した時、団体の運営を維持させるため財源を問題にしたら守銭奴よばわりされた事がありました。
彼ら彼女らは有志の寄付で全額賄うつもりでいて、運営資金のことは全く考えていなかったし考えることは卑しいことと思っていました。
案の定、私を守銭奴呼ばわりした人たちは運動が本格的に動き出した頃にサッサと抜けられた。私と対立して抜けたと聞こえの良い事を言いふらしていましたが、実態は花火を打ち上げておきながら責任を私に押し付けて逃げた、ということです。
こういった体験は一度や二度ではありません。だから定信型の人間には嫌悪しか感じません。
何が目的なのか、それを実現させるためにはどうすれば良いのか、これが基本です。
定信の場合は天下国家の安寧が目的であり実現させねばならぬ職責であって、朱子学は単なる手段・道具に過ぎません。それが目的になってしまています。
定信型の人間は左右いろんな政治勢力に存在して、せっかくの主義主張を矮小化させていきます。
右翼の定信人間は頑迷な男尊女卑軍国主義暴力集団のイメージを増幅させるし、左翼の定信人間は幼稚な世間知らずの身勝手集団と化す。
困ったものです。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 なるほど、ご経験に基づいた貴重なお話を有難うございました。
> 何が目的なのか、それを実現させるためにはどうすれば良いのか、これが基本です。
本当にそうですね。私も目標を定めていろいろと行動しているつもりですが、定信のようにならないように注意をしなければなりません。
重農主義に戻すということは、吉宗の時代と同じく、現実には不可能な米本位制(こめほんいせい)を続けるということですから、そのままの政策で農村へ帰されたところで、待っているのは今までと同様の生活に苦しむ日々でしかありません。だとすれば、いずれは再び江戸へ出て来ざるを得なくなるわけです。かくして、後の天保の改革(てんぽうのかいかく)の際に、再び同じような法令である人返しの法(ひとがえしのほう)を出す結果になってしまいました。
結局、定信は「儒教と商行為」の呪縛にがんじがらめにされている自分に気づくことなく、商業を徹底的に排除(はいじょ)し、農業を奨励(しょうれい)する自らの思想を貫き通しました。その背景には「商人など不要だ。国には政治家と農民だけがいればいい」という極端な理想主義者としての本質がうかがえるのですが、実は20世紀の海外においても、定信とほぼ同じ考えを持つ政治家が存在しました。皆さんは誰かご存知ですか?
それはカンボジアのポル・ポトです。ポル・ポトは定信と同じく「国には政治家と農民だけがいればいい」という思想を持っており、そのために商人や教師、あるいは医者などのいわゆるインテリ層を次々と虐殺(ぎゃくさつ)しました。この結果、人口800万人の国で約200万人がこの世から消えたとされています。ポル・ポトのように国民を虐殺したわけではありませんが、思想的には一致することから、定信は「元祖ポル・ポト」と呼ばれることもあります。
いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル まったくその通りです。なまじ吉宗の改革が一応の格好がついたせいで、定信は幻を観たのでしょう。
天明の大飢饉当時は意次への不当な悪評と定信の不当な好評は仕方がないとしても、200年以上経った現代では歴史家界も正当に評価してもらいたいものです。
いまなお黒田氏や私の見解は主流ではなく、時代劇や学校教科書で不当な評価が続いているのはケシカラン事です。
ご心配いただきありがとうございました。.
まり姫 こんにちは☆
事故後には温かいコメントありがとうございました。
まだ完全ではありませんが一言御礼の挨拶にお邪魔しました^^
.
イルカ お久しぶりです^^
ポル・ポト…。
なんかもう覚えてしまったようです笑
あーここらへんの改革、ごちゃごちゃになりやすいですorz
.こんばんは!
なみなみ コレが絶対正しい!
ってヘンに正論を主張する人って、
ソレ、お前だけのルールやろ!!
って、突っ込み入れたい人多いですけど、
定信はまさにその典型ですね!
自分のルールの中でしか生きられない
かわいそうな人です。
でも、そういう人ってなぜか
組織内政治が上手いw
そして、自分の考えと違う人を
どんどん排除していきますよね!
自分は間違ってない!
という自負心があるので強いのでしょうか。。。
なんにせよ、こんなのに負けた意次は
悔しかったでしょうねー!
意次から見れば、何にもわかってない
ぼんくらなんですから。
でも、そんなぼんくらに敗れざるをえない自分・・・どんな思いだったんでしょう?
.
ぴーち こんばんは!
ご存知の通り、私は歴史上の出来事を比較して、判断するだけの知識は持ち合わせてはいませんが、
人間一人の考えることには、必ず
偏見や、偏りがあるものですので、それを我が物顔に牛耳り、自分の思い通りに物事を展開しようとすると、
必ず、歪が生じるものですよね。
本来、人が人の存在を否定したり、
ましてや、殺害する権利はあるはずもなく、それを正当化する教えというものが存在するのなら、それこそ、非難されるべき考えだと思いますね。
しかし、理不尽な理由付けで
人は平気で、人を殺めて来たものですね。
殺される者にも、殺されるだけの納得がいく理由があれば、浮かばれましょうに。。
定信には、思い切り天罰が下されるような気がしますね。(先の結果を全く知らない発言ですがw)
それでは、応援凸
.初耳です
オバrev 広島県南部にも雪が降っています。今日は寒さで目が覚めました(>_<)
しかし、視野の狭い原理主義的なやり方ってのは息苦しくなりますね。
>定信は「元祖ポル・ポト」と呼ばれることもあります。
これは初耳です。よほど定信が嫌いだった人が呼び始めたんじゃないでしょうか。
実は以前ポル・ポト派の虐殺を体験し、ベトナムに逃げてから日本にやってきて、広島の工場で働きながら勉強していた若者の話を聞いたことがあります。
1年間で、風呂には一度も入れず、裸足のうえ、同じ1着のシャツとズボンを着て過ごしていたらしいです。虐殺については相当残虐だったようです。
.
橘 満柚子 ポルポトって初めて聞きました!!
のびのびとした正月を過ごせましたw
今年の目標達成できるように
頑張りますね!
これからもよろしくお願いします♪
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 「元祖ポル・ポト」とは、上智大学名誉教授の渡部昇一氏が仰られたのですが、まさにピッタリだと思います。
一度不当な評価を下されると、名誉が回復されるまでに相当の時間がかかりますね。逆に定信の表面上の評価ばかりが誉めそやされる…。歴史の捏造の罪は本当に深いです。
まり姫さんへ
黒田裕樹 > 事故後には温かいコメントありがとうございました。
> まだ完全ではありませんが一言御礼の挨拶にお邪魔しました^^
大変でしたね。
まずはご回復しつつあるようで何よりです。
また急に寒さが強くなってまいりましたので、くれぐれもご自愛下さい。
イルカさんへ
黒田裕樹 > お久しぶりです^^
お久しぶりです(^o^)丿
元気に勉強されてますか?
> ポル・ポト…。
> なんかもう覚えてしまったようです笑
それは何よりです(笑)。
世界史の近現代史では重要な人物ですから、覚えていて損はないですよ。
> あーここらへんの改革、ごちゃごちゃになりやすいですorz
今回の私の講座がお役に立てれば幸いです(^_^)v
定信は吉宗同様に庶民に倹約令(けんやくれい)を強制させました。このこと自体は町人文化の衰退を招くなど、経済的には失政でしたが、町での費用を節約させる一方で、浮いた分の7割を積み立てさせ、飢饉の際などの非常時用の資金としました。これを七分積金(しちぶつみきん)といいます。
また定信は、現代の刑務所の原点ともつながる職業訓練施設である石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を設置しました。もっとも、これは定信自身の案ではなく、池波正太郎(いけなみしょうたろう)の小説「鬼平犯科帳」(おにへいはんかちょう)で有名な火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長谷川平蔵(はせがわへいぞう)が考えたものです。
定信の倹約令は大名や旗本にも求められましたが、いくら倹約に励んでも、彼らの借金は増える一方でした。そこで定信は、幕府の旗本や御家人(ごけにん)の救済のために棄捐令(きえんれい)を出して、武士に金を貸していた札差(ふださし)からの借金を帳消しにしました。しかし、棄捐令はいわゆる徳政令(とくせいれい)と同じですから、旗本や御家人の収入を増やすといった抜本的(ばっぽんてき)な改革がない限り、結局は一時しのぎに過ぎないばかりでなく、再び借金をする際には、棄捐令で痛い目にあった札差から断られる可能性もあり、効果があったとはいいがたい面もありました。
いつも有難うございます。
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スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
刑務所の原点である「石川島人足寄場」には定信のイメージあいまって何となく似合っている政策だと思ってしまいましたね。
しかし定信の政策もかつての吉宗の政策をなぞる程度のレベルに終わったと思うので、根本的に解決にはなりませんでしたね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > 刑務所の原点である「石川島人足寄場」には定信のイメージあいまって何となく似合っている政策だと思ってしまいましたね。
刑務所と定信…懲罰的なところが確かにイメージにあっているような感じがしますね(^^ゞ
> しかし定信の政策もかつての吉宗の政策をなぞる程度のレベルに終わったと思うので、根本的に解決にはなりませんでしたね。
そのとおりだと思います。吉宗のような善政面がほとんど見られない点で、定信の「改革」のレベルが知れようというものですね。
.
オバrev なるほど、確かに理にかなったいい政策だと思います。
まあ、何を重視するかによって政策も違うし、光があれば陰ができる訳で、全体を見て、そのバランスを考えながらやっていくのは、実際は難しいんでしょうね。
だからこそ広い視野ときちんとした理念が重要だと思います。今の政治にも言えることですか・・・
それにしても陰の部分が多い寛政の改革ですが、意次は評価されず、定信が評価されているのは何故なんだろう?
この答えはまだ後ですか^^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 > まあ、何を重視するかによって政策も違うし、光があれば陰ができる訳で、全体を見て、そのバランスを考えながらやっていくのは、実際は難しいんでしょうね。
> だからこそ広い視野ときちんとした理念が重要だと思います。今の政治にも言えることですか・・・
私もそう思います。広い視野を持てれば、バランスが取れた良い政策ができるのですが、一部の人間の利害関係を重視するあまり、国民全体の目線の政治がいつまで経ってもできないんですよね。
> それにしても陰の部分が多い寛政の改革ですが、意次は評価されず、定信が評価されているのは何故なんだろう?
> この答えはまだ後ですか^^;
すみません(^^ゞ
お気づきのとおり、最後の回での謎解きとなりました。
寛政の改革の当時に在位されておられた第119代の光格天皇(こうかくてんのう)は、閑院宮家(かんいんのみやけ)から天皇にご即位されましたが、天皇の父君であられる閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)のお立場が、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の規定によって摂関家より下となり、天皇の御尊父(ごそんぷ)が摂関家を目上にしなければならないという奇妙なことになっていました。このため、天皇は父君に太上天皇(たいじょうてんのう、いわゆる上皇のこと)の尊号を贈られようと考えられました。
「皇位についていない皇族に尊号を贈る」というのは、鎌倉時代の後高倉院(ごたかくらいん)と室町時代の後崇光院(ごすこういん)という先例が過去に2回もあり、特に問題はないだろうと思って朝廷側は幕府にお願いしたのですが、定信によって問答無用で拒否されてしまいました。
この一件によって光格天皇が気分を害されるなど、これ以降の朝幕関係(ちょうばくかんけい)は微妙となり、また幕府への信頼が低下することによって天皇の権威(けんい)が高まり、幕末における討幕運動(とうばくうんどう)への遠因(えんいん)ともなってしまいました。尊号一件における定信の行動が、結果として幕府の運命を暗転させてしまったのですが、そればかりでなく、定信自身が政権の座から転がり落ちるきっかけをもつくってしまったのでした。
第11代将軍である徳川家斉の実父は御三卿(ごさんきょう)の一橋治済(ひとつばしはるさだ)でした。家斉は親孝行の思いから、父の治済に対して前の将軍を意味する大御所(おおごしょ)の尊号を贈ろうと考えました。しかし、定信は朝廷に対して太上天皇の尊号を拒否した以上、治済に対しても同じように大御所の尊号を拒否せざるを得ませんでした。
このことで家斉は機嫌を損ねて定信と対立し、やがて1793年に定信は老中を辞めさせられてしまい、寛政の改革は幕を閉じました。尚、定信の失脚後も老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)らが寛政の遺老(かんせいのいろう)として幕政を行っています。
いつも有難うございます。
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紗妃ママ どの時代もご機嫌取りってあるんですね~
大変。
.遊び
オバrev 機械であれば、杓子定規にきちっとやることは理想的かもしれませんが、人間となるとやはり遊びが必要だと思います。
これは車にも当てはまりそうで、最近の車はエコや機能ばかりで、遊び心がなくて面白くないです。
しかし改めて思いましたが、歴史ってのはある人間の感情によっても大きく動くものなんですね。
.
スポーツ猫 こんばんわお邪魔します。
礼儀を逸し、礼儀に報いを受ける
今回の定信の話はそんな印象を受けましたね。
「寛政の遺老」は初めて知りましたね。
また一つ勉強になりましたね
ありがとうございます。
紗妃ママさんへ
黒田裕樹 > どの時代もご機嫌取りってあるんですね~
> 大変。
そうですね。上司のご機嫌を取ることで政権を維持することも可能なのですが、あちらが立たずばこちらが立たず…。定信もしくじったものです(´・ω・`)
オバrevさんへ
黒田裕樹 > 機械であれば、杓子定規にきちっとやることは理想的かもしれませんが、人間となるとやはり遊びが必要だと思います。
> これは車にも当てはまりそうで、最近の車はエコや機能ばかりで、遊び心がなくて面白くないです。
機能性重視は確かに効率がいいのですが、仰るとおり景気を刺激するとは思えないんですよね。気持ちに余裕ができてこその文化なのですから。
> しかし改めて思いましたが、歴史ってのはある人間の感情によっても大きく動くものなんですね。
為政者の胸三寸でどうにでも世の中が動いてしまう…。
今の私たちも歴史を見ているのかもしれませんね。
スポーツ猫さんへ
黒田裕樹 > こんばんわお邪魔します。
> 礼儀を逸し、礼儀に報いを受ける
> 今回の定信の話はそんな印象を受けましたね。
朝廷への無礼が幕府政権の維持につながるとでも思ったのでしょうか。あるいは別の思惑でもあったのか…。いずれにせよ、朝廷を粗末にする人間の末路は哀れなものです。
> 「寛政の遺老」は初めて知りましたね。
> また一つ勉強になりましたね
> ありがとうございます。
高校の日本史で出てくるのですが、地味なのであまり有名ではないですよね。ただ、「寛政の遺老」の時期があったればこそ、相変わらず家斉は政治をさせてもらえなかったんです。時間が余った家斉にできたことといえば…というワケなんですよね(^^ゞ