白河法皇は、孫の鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)との間にお生まれになった顕仁(あきひと)親王を大変可愛がられ、親王が5歳になられた保安(ほうあん)4(1123)年旧暦1月に崇徳(すとく)天皇として即位させました。
祖父の白河法皇によって無理やり退位させられた鳥羽上皇(のち法皇)は、いつしか自身の退位の引き金となった我が子の崇徳天皇に対して良い感情を持たれなくなられたのです。そんな中、大治(だいじ)4(1129)年旧暦7月に白河法皇が崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)され、鳥羽上皇が待望久しい「治天の君」になられました。
鳥羽上皇は藤原得子(ふじわらのなりこ)との間にお生まれになった躰仁(なりひと)親王を可愛がられ、永治(えいじ)元年旧暦12月(1142年1月)に近衛(このえ)天皇として即位させ、崇徳天皇を退位に追い込みました。
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我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天の君」として院政を行うことができません。鳥羽法皇による冷酷ともいえる仕打ちに激怒された崇徳上皇は、保元(ほうげん)元(1156)年旧暦7月に鳥羽法皇が崩御されるとクーデターを計画され、兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と関白の座を争って敗れた藤原頼長(ふじわらのよりなが)を味方に引き入れられるとともに、自前の軍をお持ちでなかったので、武士である平忠正(たいらのただまさ)や源為義(みなもとのためよし)らを呼び寄せられました。
しかし、崇徳上皇のお考えを先読みされた鳥羽法皇は、ご自身の崩御の前に後白河天皇や関白の藤原忠通に味方する武士団を準備され、ご自身の信頼が厚かった平忠盛の子であり、忠正の甥(おい)にあたる平清盛や、源為義の子である源義朝(みなもとのよしとも)らが参集しました。
こうして保元元(1156)年旧暦7月に兄弟や親子、さらには叔父と甥という血族同士が争う事態となってしまいました。これを当時の年号から「保元の乱」といいます。この戦いは、機先を制して夜襲をかけた後白河天皇側が一日で勝利を収めました。崇徳上皇は出家されたものの許されずに讃岐(さぬき、現在の香川県)に流罪となられ、頼長は矢傷が原因で死亡し、源為義や平忠正らは処刑されました。
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一方、保元の乱の戦功によって平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じられ、チャイナの宋と貿易を行って経済的実力が高まった清盛に対して、義朝には十分な恩賞が与えられなかったばかりか、父である源為義を自らの手で処刑したことで、周囲から「父殺し」とさげすまれていたのです。
義朝は信西に不満を持っていた藤原信頼に協力して、平治(へいじ)元年旧暦12月(1160年1月)に清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけた隙(すき)をついてクーデターを起こし、後白河上皇や二条天皇を軟禁したほか、信西を追い込んで自害させることに成功しました。
しかし、急を聞いて京へ戻った清盛によって、後白河上皇と二条天皇とが脱出に成功されると、形勢は一気に逆転しました。清盛軍と戦って敗れた義朝は再起を期して逃亡中に襲われて死亡し、逃げ切れないと思った信頼は後白河上皇を頼って自首しましたが、最期には処刑されました。この戦いは、当時の年号から「平治の乱」と呼ばれており、近年の歴史教育では1159年に起きたとされています。
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選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵とみなされた人物は本人のみならず子供であろうが一族もろとも殺されるのが常でした。なぜなら、身内を殺されたことで残った恨みは消えることなく、当時の子供がそのまま大人になれば、復讐(ふくしゅう)のために生命を奪おうとする可能性が十分考えられたからです。
こうした原則からすれば、清盛によって捕らえられた頼朝や義経らの運命は風前の灯(ともしび)であり、処刑されてもおかしくないはずでした。しかし、清盛は結果として彼らの生命を奪おうとはしませんでした。なぜ清盛は頼朝や義経を助けたのでしょうか。
その背景には、二人の女性が存在していたのです。
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はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(=清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議したため、仕方なく頼朝を伊豆国(いずのくに、現在の静岡県南東部など)へと流罪にしました。
一方、赤ん坊だった源義経の場合は、義経の母であった常盤御前(ときわごぜん)が絶世の美女であったことで、御前が清盛の愛人となることを条件に義経が助命されたと伝えられています。
いずれにせよ、この時に頼朝・義経兄弟を生かしてしまったことが、やがては平氏の将来に暗い影を落とすことになるのですが、当時日の出の勢いであった清盛が気づくはずもないことでした。
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