清和源氏は、先述した藤原純友の乱の鎮圧に成功した源経基が始祖とされており、経基の子である源満仲(みなもとのみつなか)は、摂津国多田(せっつのくにただ、現在の兵庫県川西市多田)に土着していましたが、安和2(969)年に起きた「安和の変」で謀反を密告し、源高明を失脚させた功績によって摂関家に接近しました。
源満仲の子のうち、源頼光(みなもとのよりみつ)は各地の国司(=受領)を歴任し、その際に蓄えた財産を利用して藤原道長の側近として仕えることによって、武家の棟梁としての地位を高めました。
そして、その頼光の弟にあたるのが、平忠常の乱を鎮圧した源頼信でした。忠常の反乱によって平氏の勢力が衰えた一方で、源氏は頼信の活躍によって、東国における勢力を広げるきっかけをつくったのです。
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こうした豊富な経済力に支えられて、東北地方では現在の太平洋側を安倍(あべ)氏が、日本海側を清原(きよはら)氏が地方豪族として支配し、その力は次第に強くなっていきました。
永承(えいしょう)6(1051)年、安倍氏の棟梁であった安倍頼時(あべのよりとき)が反乱を起こしました。朝廷では源頼信の子である源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥守(むつのかみ)・鎮守府(ちんじゅふ、軍政をつかさどる役所のこと)将軍に任じて、頼義の子である源義家(みなもとのよしいえ)とともに鎮圧を命じましたが、平将門を滅ぼした藤原秀郷の子孫とされる藤原経清(ふじわらのつねきよ)が安倍氏側に寝返ったことで、朝廷側は苦戦し、戦いは長期化しました。
源頼義が同じ陸奥の豪族である清原氏に助けを求めると、清原氏がこれに応じたことで戦局は一変し、康平(こうへい)5(1062)年に安倍氏や藤原経清が滅ぼされて、戦いは終結しました。永承6(1051)年から康平5(1062)年まで続いた安倍氏による一連の反乱は「前九年(ぜんくねん)の役(えき)」もしくは「前九年合戦」と呼ばれています。
反乱の後、安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(=陸奥)の覇者となりました。なお、滅ぼされた安倍氏の中で流罪(るざい)となり、生き残った安倍宗任(あべのむねとう)の子孫が九州で松浦党(まつらとう)と呼ばれる武士団として活躍したと伝えられ、また、その血脈は現代にまで残り、21世紀には国政のトップにまで登りつめました。
安倍晋三(あべしんぞう)元内閣総理大臣のことです。
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武貞には既(すで)に嫡子(ちゃくし、跡継ぎのこと)である清原真衡(きよはらのさねひら)がいましたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡(きよはらのきよひら)を養子とし、また未亡人との間に清原家衡(きよはらのいえひら)が生まれました。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらしてしまいました。
こうした兄弟同士の不仲が清原氏の内紛を引き起こし、ついには大きな戦乱になってしまいました。永保(えいほう)3(1083)年から寛治(かんじ)元(1087)年まで続いたこの戦いのことを「後三年(ごさんねん)の役(えき)」もしくは「後三年合戦」といいますが、この内紛に乗じて源氏による陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して、後三年の役に積極的にかかわりました。
戦いは、寛治元(1087)年に藤原経清の遺児である清原清衡が勝利して終わりましたが、清原氏の私闘に参加しただけの源義家には朝廷から何の恩賞も与えられず、陸奥守の官職も翌寛治2(1088)年に辞めさせられました。途方(とほう)に暮れた義家は、仕方なく自腹を切って部下に恩賞を与えましたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰(あお)ぐ深い信頼関係が生まれたのです。
なお、前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのに、なぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては様々な説が挙げられていますが、正確には分かっていません。
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藤原清衡は奥州の平泉(ひらいずみ、現在の岩手県平泉町)を本拠地として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(ふじわらのもとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)が全盛を極める基礎を固めたのです。なお、当時の地方では各地の武士が館(たち)を築き、一族や地域の結び付きを強めていました。
さて、平忠常による反乱以来ふるわなかった平氏でしたが、桓武平氏の流れをくむ伊勢(いせ)平氏が次第に頭角を現しました。源義家の子である源義親(みなもとのよしちか)が嘉承(かしょう)2(1107)年に出雲国(いずものくに、現在の島根県東部)で反乱を起こしましたが、翌嘉承3(1108)年に平正盛(たいらのまさもり)によって滅ぼされました。
この功績によって、正盛は白河法皇の厚い信頼を受け、直属の警備機関である北面の武士として登用されると、正盛の子の平忠盛(たいらのただもり)も、瀬戸内海の海賊を討ったことで白河法皇の孫の鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿を許されました。いわゆる「殿上人(てんじょうびと)」のことです。
忠盛は西国を中心に多くの武士を従え、平氏が繁栄する基礎をつくりましたが、昇殿が許された武士の実力は留まることを知らず、12世紀半ば頃に起きた二つの反乱によって、平氏が朝廷にかわって政治の実権を握る道を切り拓(ひら)くことになりました。その背景には朝廷内の権力争いがあり、またそれを上手に活用した人物こそが、有名な平清盛(たいらのきよもり)だったのです。
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