朝廷にとって重要な行事ですから、大臣(おおおみ)の蘇我入鹿も必ず出席します。これを好機と見た二人は、儀式の途中で入鹿を殺害する計画を立て、当日までに刺客を二人準備して、彼らとともに儀式が行われる大極殿(だいごくでん)の物陰に隠れました。
すべての準備を終えた645年旧暦6月12日、大雨が降る中で儀式が始まり、朝鮮半島からの上表文を蘇我倉山田石川麻呂が読み始めました。事前に練られた計画では、上表文を読んでいる途中で刺客が飛び出し、入鹿を亡き者にする手はずでした。
ところが、肝心の刺客たちが出てきません。極度の緊張と入鹿の尊大さに怖気(おじけ)づいてしまっていたのです。「このままではまずい」。鎌足の顔に焦りが浮かび始めました。
なかなか出てこない刺客たちに、上表文を読んでいた石川麻呂も焦り出しました。上表文に残された文字は、あと数行分しか残されていません。
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入鹿「どうして震えているのだ!」
石川麻呂「へ、陛下(へいか)の御前(おんまえ)ですから、ふ、不覚にも緊張しまして…」
しどろもどろで返答する石川麻呂に対して、入鹿がさらに不信感を持ちました。このままでは計画が失敗するどころか、すべてが発覚してしまうのが目に見えていました。
「だめだ。もはやこれまでか」。鎌足が観念したその瞬間でした。
「ヤーッ!」
凄まじい気合とともに、手に剣を持った一人の若者が飛び出しました。この若者こそが、中大兄皇子その人でした。皇子が入鹿に向かって突進すると、はじかれたように刺客たちも駆け出しました。入鹿は皇子を含んだ三人がかりで攻められ、激しく斬りつけられました。
瀕死(ひんし)の重傷を負った入鹿は、皇極天皇に向かって命乞(いのちご)いをしました。
「なぜ俺がこんな目に…。何の罪があるというのだ…」。
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「何事ですか、これは!」
天皇の息子である中大兄皇子は、母の皇極天皇の前へ進み出ると、きっぱりと理由を述べました。
「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして自分が皇位につこうとした大悪人ですから、誅殺(ちゅうさつ)したまでのことです」。
理由を聞かれた皇極天皇は、黙って席を立たれました。その間に刺客たちが入鹿に止めを刺し、ついに入鹿は殺害されてしまいました。
入鹿の死は、直ちに父親の蘇我蝦夷にも伝えられました。配下の者が逆賊になるのを恐れて次々と朝廷に投降していく姿を見た蝦夷は抵抗を諦(あきら)め、翌日に屋敷に火をかけて自殺しました。こうして栄華を極めた蘇我氏の本家は、わずか一昼夜で滅亡してしまったのです。
なお、最近の教科書などでは、大化の改新のきっかけとなった蝦夷・入鹿親子が滅ぼされた一連の政変のみを取り上げて「乙巳(いっし)の変」と紹介しています。
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中大兄皇子は都を難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや、現在の大阪市中央区)に遷(うつ)すと、我が国史上初めての元号となる「大化」を制定し、645年は「大化元年」となりました。
続いて朝廷内の役職の改革に着手した中大兄皇子は、それまでの大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の制度を廃止し、新たに左大臣・右大臣・内臣(うちつおみ)の制度を設けました。そして、左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、内臣には中臣鎌足がそれぞれ任じられました。
翌大化2(646)年正月に、中大兄皇子は強固な中央集権体制における国家をつくるための大原則をうたった「改新の詔(みことのり)」を公布し、公地公民制など、聖徳太子以来の朝廷の悲願の実現に向けて大きく前進しました。今日では、こうした一連の国政の改革を総称して「大化の改新」と呼ばれています。
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例えば、中大兄皇子が新たな冠位制度を導入した際に、左大臣の阿倍内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が新しい冠の着用を拒否しています。これが遠因となったのか、649年に阿倍内麻呂が病死すると、その直後に石川麻呂が朝廷への謀反(むほん)を疑われて自殺に追い込まれました。
また、中大兄皇子は孝徳天皇と不和になり、653年に中大兄皇子が飛鳥へ戻ると、有力な家臣が次々とこれに従い、孝徳天皇は難波の都に取り残されて、翌年に寂しく崩御されました。
中大兄皇子は次の天皇に自らが即位せず、母親の皇極天皇が再び皇位につかれて、斉明(さいめい)天皇となられました。なお、一度退位された天皇が再び即位されることを「重祚(ちょうそ)」といいます。
このようにして、中大兄皇子が様々な矛盾(むじゅん)を抱えながら政治を実行している間に、東アジアの情勢は風雲急を告げていました。
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