街道のLandscape 93
下妻街道を歩く旅である。2月9日号では草加市柿木町から南下し、八潮市八條まで歩いたが、今回は草加市柿木町から北へ向かって歩いてみた。
東武の獨協大学前駅から出ているコミュニティバス「パリポリくんバス」を柿木二区で下車し、歩き始めた。パリポリは草加せんべいを食べる音か。
越谷市東町に入ると路傍に木々が生えている。これらの樹木に由来するのかもしれないが、この辺りは「東町くぬぎ通り」と呼ばれている。
東町一丁目からは新中川水管橋が見える。水管橋だが、人や自転車も渡ることができる。
画面の奥に見えるのは武蔵野線の鉄橋である。その手前に薄紫色の絨毯にように見えるのは、ホトケノザの群落である。
武蔵野線を過ぎて前方に見えてくる橋は、吉越橋である。平成2年に吉川橋の渋滞緩和のために架橋されたものである。
吉越橋の上流に架かる吉川橋である。昨年7月に4車線化工事が完了している。
吉川橋から見た中川である。左から流れてくるのは元荒川である。元荒川の水の方が澄んでいるように見えた。
橋を渡ると吉川市である。中川沿いに天保8年創業の川魚料理店がある。
吉川橋東側のスロープの左手に延命寺の仁王門、右手に八角堂が見える。
延命寺の仁王門である。前面道路の拡幅に伴い立て直されている。
これは2019年8月に撮影した延命寺である。旧山門の左右は空き地となっていた。山門の右手にあった松は撤去されたようだ。
見づらいのだが、旧山門の右手には青面金剛などが祀られていた。
これらの石塔はどうなったのだろう。
道路を挟んで新しく八角堂が建てられたが、その脇に石塔が見える。行ってみよう。
2019年9月15日号で報告した青面金剛などは、八角堂の横に並べられていた。場所は変わったが、横一列に並んでよく見えるようになったと言うべきだろう。
下妻街道は、吉川一丁目の交差点で北上する。二郷半用水に沿って桜が列植されており、この通りは「さくら通り」と呼ばれている。
吉川の桜は訪れた時はまだ蕾であった。
二郷半用水に沿って下塚街道を歩く旅はまだ続く。
- [ edit ]
- 街道
- / trackback:0
- / comment:0
街道のLandscape 92
会津鉄道芦ノ牧温泉駅修繕のクラウドファンディングの返礼として乗車券を入手したので、東武鉄道、野岩鉄道、会津鉄道経由で会津若松を訪れた。
これまで東山温泉や喜多方などを訪ねた際に通過したことは何度かあったが、街中を歩くのは初めてである。
会津若松市中町、街灯に野口英世のイラストが掛けられている。野口英世が青春時代を過ごした町で、この通りは野口英世青春通りと呼ばれている。
この通りの路傍に建つ医院である。ギャンブレル屋根を配した瀟洒な洋館である。昭和11年の建築で、市の歴史的景観指定建造物に指定されている。
医院の洋館の先には、明治時代から大正時代に繁栄した商家の重厚な黒漆喰の見世蔵がある。こちらは国登録有形文化財である。
見世蔵から西へ歩くと、日新町の路傍に酒蔵がある。
軒下に巨大な杉玉が吊り下げられている。嘉永3年(1850)の創業である。
酒蔵の電話番号票である。四角の中に「長」の文字。どのような意味があるのだろう。
酒蔵からさらに西へ歩くと阿弥陀寺が境内を構えている。新選組の斎藤一の墓がある寺院である。
境内にある「御三階」と呼ばれるこの建物は、明治初年まで鶴ヶ城本丸にあり、明治3年に移築されたもので、鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物である。
阿弥陀寺は七日町通りに面している。七日町通りは、藩政時代には、会津五街道のうち日光、越後、米沢街道の主要道路が通り、城下の西の玄関口として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねていたという。
阿弥陀寺近くの交差点角には、江戸時代から続く問屋があり、会津の郷土料理を味わうことができる。
2階のアーチ窓の上部にはカブのレリーフがある。窓手摺にもカブの切り抜きがある。元は種苗を商う店舗として建てられたものだが、今は甘味処として利用されている。
これは大正15年に呉服店として建築された建物だが、現在はスポーツ用品店となっている。
上の元呉服店から東へ歩くとまた酒蔵がある。店頭に立っているキャラは「会津中将くん」である。
この建物は、2枚上の今はスポーツ用品店になっている元呉服店の第二営業所である。昭和2年の建築で、上部の「Department Store」の筆記体が洒落ている。
七日町通りである。大正浪漫の雰囲気が漂う。画面右手のギリシャの神殿を連想させる建物は、銀行の建物として建築されたものだが、世界恐慌の影響でクライアントの銀行として開店できなかったという。現在は、建設会社が使っている。
神殿様の西に建つ漆器店である。土蔵造り3階建ての店舗は大正3年の竣工である。
大町四ツ角近くにあるアンティークショップの看板である。懐かしいマッチのラベルがモチーフである。
大町四ツ角に旧郡山商業銀行若松支店の建物がある。会津若松で初めての鉄筋コンクリート造の建物として大正10年に竣工したものである。現在はカフェとなっている。
上の建物の角に若松市道路元標が建っている。ここが会津5街道の起点である。この後、会津若松駅まで歩き帰途に就いた。
帰宅後、戦災を免れて戦前の建物が数多く残る会津若松の街並みを思い出しながら、鶴乃江酒造の清酒を頂いた。
- [ edit ]
- 街道
- / trackback:0
- / comment:0
青面金剛のLandscape 493
柏市布瀬、県道282号を西へ歩いて行くと、路傍にずらりと庚申塔が並んでいる。百庚申である。
文字庚申塔の間に青面金剛が建っている。この青面金剛が抱いているのはショケラではなく邪鬼のように見える。踏み付けられている下の邪鬼は渋い顔である。このようなスタイルは初めて見た。
こちらはショケラ持ちである。下部の邪鬼は片目を閉じているのか。
中央には背の高い剣、ショケラ持ちの青面金剛が祀られている。
この像は剥落が激しいが、邪鬼はゆったりとした構えである。
こちらはユーモラスな感じの邪鬼である。彫りが浅いのが難。近くの説明文によると、この場所は布瀬地区の入口にあたるという。村への悪霊が入るのを防ぐために庚申塔が安置されたのだろう。
百庚申の近くの林の中に青面金剛が一体、スポットライトを浴びたように建っている。
剣、ショケラ持ちの六臂像であった。寛延4年(1751)に造立されたものである。
さらに県道を歩いていくと、手賀の路傍にポツンと石仏が建っている。
大日如来の庚申塔であった。下部に三猿がいて、庚申塔であることが分かる。寛文8年(1668)の造立。
柳戸の路傍に庚申塔が並んでいる。
右端は生首持ち型の青面金剛である。六臂像だが、後手は線刻で目立たない。
さらに800m程西へ進むと一段高くなった路傍に石塔が並んでいる。
手前に青面金剛が祀られている。
この青面金剛も生首持ち型である。この青面金剛の後手は陽刻されているが、彫りは浅い。
県道282号から北上し、手賀の丘公園へ向かった。
公園入口近くの園路沿いに石塔が並ぶ一角がある。
16基の庚申塔が2列に並んでいる。手前に2体の青面金剛が見える。
六臂の合掌像はシャープな彫りで、傷みも無く素晴らしい像である。安永7年(1778)の造立。
こちらは生首持ち型の青面金剛である。これまで見てきた生首持ち型とは異なり、きっちり後手も陽刻されている。綺麗な像である。宝暦8年(1757)に造立されたものである。
この後、手賀の丘公園バス停から東武バスに乗って柏駅へ向かい、帰途に就いた。
- [ edit ]
- 青面金剛
- / trackback:0
- / comment:0
青面金剛のLandscape 492
宝暦11年(1761)に造立された地蔵尊が参拝者を迎えてくれる。
光線の状態が悪く見づらいが、山門を潜ると右手に青面金剛が祀られている。
六臂の合掌像は、心の中を見通すような眼をしている。
邪鬼は困惑の表情である。明和9年(1772)の造立である。
布瀬バス停の近くにある布瀬農業構造改善センター前、大師講供養碑、新四国巡拝塔の後ろに石仏が並んでいる。
その中に青面金剛が1体祀られている。青面金剛は六臂の合掌像で、宝永7年(1710)に造立されたものであった。
農業構造改善センターから南へ歩くと路傍に大谷石積の蔵があった。
県道282号との交差点に石塔が建っている。
文字が不明瞭だが、グーグルマップを見ると「布瀬の道標」との表記がある。どのような文字が刻されていたのだろう。
県道282号を西へ歩くと、高野バス停の先に石仏2体並んでいる。
右の石仏には二十三夜の文字が見える。左に奉供養としかないが馬頭観音だろうか。右は延宝3年(1675)、左は元文2年(1737)の造立である。
黄色の実はキンカンである。後ろに咲いている梅の花との対比が面白いので撮ってみた。
キンカンの先の雑木林の中に石塔が見える。
近づいて見ると、大乗妙典六十六部日本廻国塔であった。法華経を66部造り、66カ所の霊場に奉納し、巡礼したことを記念して建てた石塔である。どうして、このような所に建てたのだろうか。この塔が造立された明和6年には寺があったのか? うーむ、路傍学会の興味は尽きない。
柏市東部の青面金剛を訪ねる旅はまだ続く。
- [ edit ]
- 青面金剛
- / trackback:0
- / comment:0
青面金剛のLandscape 491
江戸川区上篠崎三丁目、コンクリート平板舗装の道があり、ノウゼンカズラのような蔓が絡みついたアーチがある。そのアーチの手前に石塔が見える。この道は水路跡だろうか。
台石の中央に講中とあり、その右側に「右 かわら道」とある。上部には青面金剛が載っている。
青面金剛は、剣、ショケラを持つ六臂像だが、顔、剣、ショケラなどは形を失っている。文化13年(1816)の造立である。
この青面金剛から東へ歩くと篠崎街道に出る。
篠崎街道を少し北上すると篠崎町一丁目、「通り抜け困難」立て看板の傍らに石塔のようなものが見える。
うーむ。頭部が失われた地蔵尊であろう。線香をあげる人がいるようだが、どのような謂れのある地蔵尊なのだろう。
地蔵尊の先、上篠崎二丁目のお宅のブロックに凹んでいるところがある。
凹んだ箇所には青面金剛が祀られていた。
剣、ショケラ持ちの六臂像であるが、彫はやや平板である。邪鬼のポーズが面白い。文化2年(1805)に造立されたものである。
篠崎街道から西に入ると、弥陀堂跡の墓地があり、その中にコンクリートの屋根に護られた地蔵菩薩像庚申塔がある。
端正なお顔の地蔵尊である。寛文5年(1665)の造立で、江戸川区の登録有形民俗文化財である。
篠崎街道に戻り南下すると、篠崎町三丁目に篠崎ポニーランドがある。篠崎ポニーランドの案内看板の左に石塔が建っている。
上部に青面金剛と刻され、その下に三猿、さらにその下に「此方 江戸道」とある。文政8年(1825)に建てられた庚申塔道標であった。
江戸川の土手に上がると、河川敷に整備されたコースから戻ってくるポニーに出会えた。後ろに見えるゲートは江戸川水閘門である。
篠崎街道に戻り南下すると、篠崎町四丁目に五差路がある。
路傍には2017年2月25日号で報告した、2童子を従え、2邪鬼を踏み付けている青面金剛が交通事故にも遭わず健在であった。
さらに篠崎街道を南下すると2016年3月5日号で報告した西光寺がある。
西光寺の先、南篠崎町二丁目の路傍に青面金剛碑が祀られている。
下部に彫られた三猿は楽し気に見える。文政9年(1826)に造立されたものである。
上の庚申塔の先で篠崎街道は柴又街道と交差する。画面の右手は旧江戸川である。この旧江戸川を跨ぎ千葉県に至る橋梁が計画されている。この橋によって以前歩いた木下街道と柴又街道が結ばれることになるが、完成はいつ頃になるのだろうか、などと思いつつ帰途に就いた。
- [ edit ]
- 青面金剛
- / trackback:0
- / comment:2
街道のLandscape 91
3月12日号の続きである。
市川市河原、木下街道を歩く。
本行徳の路傍に行徳神明神社が鎮座している。扁額には豊受大神宮と刻されている。
手水舎の後ろに行徳町道路元標がある。この神社に近い木下街道と寺町通りの交差点にあったものである。
道路元標がある神社の先に医院のレトロな建物がある。大正5年に建てられた木骨石張りの2階建てである。洋館風だが懸魚もある和洋折衷である。
消防署出張所の路地を覗くと、旧江戸川の護岸の先に大きな屋根が見える。行ってみよう。
旧江戸川の対岸は、東京都江戸川区である。大きな屋根があり、その下に船舶が陸揚げされている。ここは造船所であった。中央の船を見ると「こすもす」と記されている。東京都公園協会が運航している水上バスで、ドッグ入りしているところだった。
街道に戻り歩き始めると路傍で建築工事が行われていた。よく見ると出桁造りのリノベーションである。古い部材に新しい木材を継ぎ足して利用していた。こうした取り組みは宿場らしい沿道の景観を保つ方策の一つとなるだろう。
これは現役の酒店である。昭和元年の建築。
軒下には琺瑯の「塩小売店」票があった。
近くに建つ酒店の倉庫にはキッコーマンの琺瑯看板が貼り付けられていた。
酒店の先では、2014年12月13日号で報告した加藤家住宅の煉瓦塀が健在であった。10年の間に塀の右側の建物は建替えられたようだ。
加藤家住宅の先に笹屋うどん跡がある。かつては、立ち寄らない人はいないと言われたほどの繁盛店であったという。屋号の「笹屋」については、源頼朝が源氏の家紋にちなんで名づけたという伝説もある。
笹屋うどん跡の先にある路地の奥に常夜灯が見える。
この常夜灯は、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中の人々が航路安全を祈願して、文化9年(1812)に建てたものである。
常夜灯から見た旧江戸川の下流方向である。江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは、寛永9年(1632)のことで、江戸川を下り、新川、小名木川を経由して、日本橋小網町まで、約12.6キロメートルを就航していたという。ここが木下街道の起点であった。説明板には「新河岸」とある。「新」があるならば「旧」があるのだろうか。探してみよう。
街道に戻り南へ歩くと、以前報告した浅子神輿店があり、その先は枡形となって、街道はクランク状に曲がっている。老舗畳店が見える。
後藤神輿店の先、伊勢宿の路傍に理容店があり、その右の道は豊受神社の参道である。
さらに南下するとまた枡形がある。二つの枡形が連なっていて、防御が厳重な宿場だったのではないか。
押切で旧江戸川護岸へ歩くと、押切排水機場がある。その前に建つ説明板をみると、ここはかつての貨物専用の河岸で、最初の河岸は寛永8年(1631)までに設置されたとある。こちらが「旧河岸」なのかもしれない。貨物専用の河岸を設けるほど、大量の物資が流通していたのだろう。
木下街道の踏破を終えて、行徳駅から帰途に就いた。
- [ edit ]
- 街道
- / trackback:0
- / comment:0
街道のLandscape 90
青森を訪ねる機会があった。3時間ほど時間が取れたので市内を歩いてみた。
新青森から特急つがるに乗り換え青森駅に到着。
県庁前の国道である。左の建物が青森県庁である。
この国道を進むと、公園の一角に大きな石柱が建っている。これは国道の碑である。東京日本橋を起点とする国道4号と、新潟市を起点とする国道7号は、青森市長島の地を終点としている。
国道の碑の前には、7号の終点、4号の起点を示す距離標が建っている。
距離標のすぐ傍に、国道4号と7号の分岐点であることを示す標識がある。
とても奥州街道の全てを踏破する体力は無いが、街道歩きが大好きな路傍学会としては、いつか訪ねてみたいと思っていた場所であった。
国道をはさんだ反対側にも同じ距離標が建っている。日光街道を歩いた際に宇都宮まで歩き、また、昨年訪れた白川宿を通る奥州街道の終点がここであることを心に刻み、歩を進めた。
青森市長島、国道4号の路傍に廣田神社が鎮座している。陸奥守が陸奥国長久の平安を祈願したのが創建という。
手水鉢には、りんご王国らしくリンゴが浮いていた。
道路を挟んで末社の金生稲荷神社が鎮座している。
鳥居前の行灯はねぶたを思わせる造りである。
参道は雪に埋もれており、横から参拝する。
向拝脇には納められた黄金色の狐がずらりと並んでいる。
廣田神社から国道を渡って北上すると、安方に善知鳥神社が境内を構えている。善知鳥は「うとう」と読む。
鳥居前の路傍に、青森市道路元標がある。大正11年に設置されたものであり、かつてはここが奥州街道の終点だったのだろう。
允恭天皇の時代に、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として日本の総主祭神である天照大御神の御子の三女神を祭った事に由来する神社である。
善知鳥神社から船客ターミナルに向かうと青函連絡船として活躍していた八甲田丸が係留されている。手前に見えるレールを通って連絡船内に列車が運ばれていたのだ。路傍学会も乗船したことのある青函連絡船で、ほぼ半世紀ぶりの再会となった。
この後、青森駅近くの食堂でいただいた「いかメンチ青森りんご黒酢餡」である。青森でいかメンチをどうしても食べたかったのだ。
いかメンチの次に「十三湖しじみラーメン」をすすり、慌ただしく青森の旅を終えた。
帰京後、次の機会にはもう少しゆっくり散策したいものだ、などと思いつつ土産に買った清酒を頂いた。
- [ edit ]
- 街道
- / trackback:0
- / comment:0
街道のLandscape 89
木下街道を歩く旅である。
前回辿り着いた葛飾八幡宮前から歩き始めた。
八幡三丁目手前の交差点で木下街道は千葉街道から分かれて南下する。前方に総武線の高架橋が見える。
東大和田二丁目で東京外環自動車道と交差する。
世田谷区の東名ジャンクションから、埼玉県を経由して、市川市の高谷ジャンクションへ至る道路である。
大和田二丁目、前方に京葉道路の高架橋が見えてくる。
大和田二丁目、京葉道路手前の路傍に甲大神社が鎮座している。大和田村の総鎮守である。
二の鳥居の手前に、山王宮、稲荷大明神などと並んで庚申塔が祀られている。正面、両側面に三猿が陽刻されている。造立年は読み取れなかった。
庚申塔の背後に、壊れた鳥居の部材とともに力石が置かれていた。
木下街道は、京葉道路の下を潜る。
京葉道路の先には、2020年11月18日号で報告した一本松跡の延命地蔵尊が祀られている。
稲荷木三丁目の路傍で見かけたたばこ看板である。横書きの「たばこ」の文字が斜めになっているが、設置当初はどうだったのだろう。
稲荷神社、雙輪寺を過ぎると江戸川の土手が見えてくる。
江戸川土手からの眺めである。旧江戸川との分岐点の奥に東京スカイツリーが見える。
これは2019年4月に撮影した行徳橋である。老朽化した旧橋の上流側に新橋を架ける工事が進められていた。
右に見える新しい行徳橋は令和2年に完成した。橋の左側に見えるのは行徳可動堰で、古い行徳橋は可動堰の左側に架けられていた。
橋を渡った南詰である。画面の左側が旧行徳橋に接続していた道路である。
橋を渡って間もなく、市川市河原の路傍に春日神社の鳥居がある。春日神社は、大正3年、江戸川放水路の工事のためにこの地へ遷座したという。
境内の奥、末社の背後に石塔が見える。
水神宮の石祠の右に2体の青面金剛が祀られている。共に6臂の合掌像で、右は享保11年(1726)、左が元禄10年(1697)の造立である。
春日神社の参拝を済ませ、木下街道・行徳宿を歩く旅を続けた。
- [ edit ]
- 街道
- / trackback:0
- / comment:2
界隈のLandscape 220
2月下旬、東京都美術館で今年も「出張!江戸東京博物館」が開催された。現在大規模改修工事が行われている江戸東京博物館の常設展示の一部を展示するものである。特集展示として「移りゆく上野の風景」が紹介されていた。展示物は撮影可能で、SNSで発信して欲しいとあったので、現在の姿を交えつつ紹介したい。
これは、会場でいただいた「名所江戸百景 下谷広小路」の絵ハガキである。画面右の建物は、呉服問屋の「いとう松坂屋」で、後の百貨店松坂屋である。画面左奥に三橋が描かれ、その奥に上野の山が見える。
これは大正6年に完成した松坂屋である。木骨石張りの4階建てとなっている。
現在の上野広小路と松坂屋である。
大正時代に完成した木骨石張りの店舗は関東大震災で焼失し、昭和4年(1929)に地上7階、地下1階のルネサンス様式の建物に建替えられた。
現在の松坂屋である。近代的な外壁であるが、昭和4年築の本館の内部には、当時から変わらないレトロなデザインの大階段やエレベーターがあり、歴史を感じることができる。旧南館は、商業施設のほかにシネマコンプレックスやオフィス機能を備えた高層複合ビルに建替わっている。東京で江戸時代から現在まで同一の場所で続く百貨店は、この松坂屋上野店と日本橋三越だけである。
これは三橋から見た上野公園である。明治40年から大正6年の間に撮影されたものだが、樹木も今ほど茂っておらず、西郷隆盛の銅像がある山王台の石段が見える。
江戸時代には不忍池から広小路を横切るように川が流れていて、その川に3つの橋が架けられていた。
現在の三橋付近から見た上野公園である。上の絵葉書から100年以上が経過して、木々は成長し鬱蒼とした森となった。正面の石段脇の桜の蕾が綻び始めていた。
これは昭和7年に発行された主婦の友9月号の付録「上野山下附近」である。
現在の上野山下付近である。市電はさすがに走っていないが、ガード、道路の様子は余り変わっていないように見える。
「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」である。清水観音堂は、京都の清水寺を模して、崖の上にせり出すように建てられている。
現在の観音堂である。樹木が繁茂し、名所百景のような写真をとることは難しい。
そこで、崖下から観音堂を写してみた。清水寺と同じ舞台づくりである。観音堂の前にはくるりと輪を描いた松がある。
「名所江戸百景 上野山内月のまつ」。「清水堂不忍ノ池」にも描かれている松である。不忍池の向こうに広がる池之端の街並みなどが描かれている。画面右下に見えるのは弁天島だろう。
清水観音堂の舞台から月の松越しに弁天堂を見ることができる。
これは上野公園内に設置されている小松宮彰仁親王の銅像である。明治45年(1912)に、彰仁親王が総裁を務めた日本赤十字社が建立したものである。
現在の上野公園の様子である。銅像は不変だが、手前に植込みが増えているようだ。
昭和時代中期の上野駅前である。昭和時代中期とはいつ頃だろう。昭和生まれとしては気になるところである。ネットで調べると1955年~1964年とする記事があった。高度経済成長を突き進む日本が元気な時代だった。
現在の上野駅である。宇都宮線・高崎線・常磐線(快速)の一部列車が東京駅やその先の東海道本線へ乗り入れたり、上野駅発着の寝台特急列車、夜行列車が全て終了するなど、駅としての機能は低下しているが、昭和7年に落成した駅舎は貫禄十分で、老舗の風格を漂わせている。
- [ edit ]
- 界隈
- / trackback:0
- / comment:2
界隈のLandscape 219
3月5日号に続いて品川用水を辿る旅である。
三鷹市下連雀四丁目、品川用水跡はむらさき橋通りとなっている。
下連雀六丁目でむらさき橋通りを逸れる。流路跡を辿って脇道に入ると、病院に行く手を阻まれる。
病院、小学校を迂回し、下連雀八丁目地内の用水跡を歩いて行くと、吉祥寺通りに出る。吉祥寺通りの路傍に見える建物は杏林大学井の頭キャンパスである。
新川六丁目で人見街道へ入る。
三鷹市新川六丁目、八幡社の鳥居の左側に路傍祠があり、青面金剛が祀られている。
六臂の合掌像で、元禄5年(1692)に造立されたものである。
八幡社の鳥居の右手にも路傍祠があり、その中に地蔵尊が祀られている。優しいお顔の地蔵尊である。享保4年(1719)の造立。
足元には木彫りの地蔵尊が2体祀られていた。
牟礼七丁目で人見街道は東八道路に合流する。
新川二丁目、東八道路の路傍に新川天神社の鳥居が見える。新川天神社は新川宿の総鎮守である。
牟礼五丁目でコンビニの角を北へ入ると、交差点の角に石塔が見える。
青面金剛であった。六臂の合掌像で、明和3年(1766)に造立されたものである。
北野二丁目で用水は東八道路から離れ、南下していく。
世田谷区北烏山八丁目では、まだ農地が残されていた。今回の旅で初めて見た農地である。キャベツ畑であった。
岩崎学生寮の前を過ぎた先に中央自動車道が見えてきた。
中央道の高架の下を潜り、北烏山九丁目で甲州街道(国道20号)を越える。
さらに200m程南下して旧甲州街道を越える。
南烏山六丁目の品川用水跡である。千歳烏山の駅も近く繁華な道となっている。
この後、千歳烏山駅から京王線に乗って帰途に就いた。
- [ edit ]
- 界隈
- / trackback:0
- / comment:0
プロフィール
Author:路傍学会長
路傍学会へようこそ!
東京東部を拠点として、路傍の風景について学際的に考察するブログです。
最新記事
- 街道のLandscape 93 (03/29)
- 街道のLandscape 92 (03/26)
- 青面金剛のLandscape 493 (03/23)
- 青面金剛のLandscape 492 (03/22)
- 青面金剛のLandscape 491 (03/19)
- 街道のLandscape 91 (03/16)
- 街道のLandscape 90 (03/15)
- 街道のLandscape 89 (03/12)
- 界隈のLandscape 220 (03/09)
- 界隈のLandscape 219 (03/08)
- 界隈のLandscape 218 (03/05)
- 界隈のLandscape 217 (03/02)
最新コメント
路傍学会訪問者
月別アーカイブ
- 2025/03 (13)
- 2025/02 (12)
- 2025/01 (13)
- 2024/12 (13)
- 2024/11 (13)
- 2024/10 (13)
- 2024/09 (13)
- 2024/08 (13)
- 2024/07 (13)
- 2024/06 (14)
- 2024/05 (13)
- 2024/04 (12)
- 2024/03 (14)
- 2024/02 (12)
- 2024/01 (14)
- 2023/12 (13)
- 2023/11 (13)
- 2023/10 (13)
- 2023/09 (13)
- 2023/08 (13)
- 2023/07 (14)
- 2023/06 (12)
- 2023/05 (13)
- 2023/04 (14)
- 2023/03 (13)
- 2023/02 (12)
- 2023/01 (13)
- 2022/12 (13)
- 2022/11 (13)
- 2022/10 (14)
- 2022/09 (12)
- 2022/08 (13)
- 2022/07 (14)
- 2022/06 (13)
- 2022/05 (13)
- 2022/04 (13)
- 2022/03 (13)
- 2022/02 (12)
- 2022/01 (13)
- 2021/12 (13)
- 2021/11 (12)
- 2021/10 (14)
- 2021/09 (13)
- 2021/08 (13)
- 2021/07 (13)
- 2021/06 (13)
- 2021/05 (14)
- 2021/04 (12)
- 2021/03 (13)
- 2021/02 (12)
- 2021/01 (14)
- 2020/12 (13)
- 2020/11 (13)
- 2020/10 (13)
- 2020/09 (13)
- 2020/08 (14)
- 2020/07 (13)
- 2020/06 (12)
- 2020/05 (14)
- 2020/04 (13)
- 2020/03 (13)
- 2020/02 (13)
- 2020/01 (13)
- 2019/12 (13)
- 2019/11 (13)
- 2019/10 (13)
- 2019/09 (13)
- 2019/08 (13)
- 2019/07 (13)
- 2019/06 (14)
- 2019/05 (13)
- 2019/04 (12)
- 2019/03 (14)
- 2019/02 (12)
- 2019/01 (14)
- 2018/12 (14)
- 2018/11 (12)
- 2018/10 (13)
- 2018/09 (14)
- 2018/08 (13)
- 2018/07 (13)
- 2018/06 (13)
- 2018/05 (13)
- 2018/04 (13)
- 2018/03 (13)
- 2018/02 (12)
- 2018/01 (14)
- 2017/12 (14)
- 2017/11 (13)
- 2017/10 (13)
- 2017/09 (13)
- 2017/08 (13)
- 2017/07 (14)
- 2017/06 (12)
- 2017/05 (13)
- 2017/04 (14)
- 2017/03 (13)
- 2017/02 (12)
- 2017/01 (13)
- 2016/12 (13)
- 2016/11 (13)
- 2016/10 (14)
- 2016/09 (12)
- 2016/08 (13)
- 2016/07 (15)
- 2016/06 (13)
- 2016/05 (13)
- 2016/04 (14)
- 2016/03 (13)
- 2016/02 (12)
- 2016/01 (14)
- 2015/12 (13)
- 2015/11 (13)
- 2015/10 (13)
- 2015/09 (13)
- 2015/08 (14)
- 2015/07 (13)
- 2015/06 (12)
- 2015/05 (14)
- 2015/04 (13)
- 2015/03 (13)
- 2015/02 (12)
- 2015/01 (14)
- 2014/12 (13)
- 2014/11 (14)
- 2014/10 (13)
- 2014/09 (12)
- 2014/08 (14)
- 2014/07 (13)
- 2014/06 (13)
- 2014/05 (14)
- 2014/04 (12)
カテゴリ
メールフォーム
検索フォーム
QRコード
