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このハーバート・J.ガンズさんは、かなり有名だと思うが、長い間邦訳がなかった。
2006年にようやく『都市の村人たち : イタリア系アメリカ人の階級文化と都市再開発』が 松本康訳でハーベスト社から出た。都市社会学って、この国では社会学以上に、人気がないのだ。
最近では日本経済新聞社からも邦訳が出るほどの人気者である、J.ジェイコブズさんが『アメリカ大都市の生と死』という本を書いて、都市計画や再開発が都市のコミュニティを滅ぼすってなことを書いたのと、相前後して、Gansさんも、その『都市の村人たち』(長い間「アーバン・ヴィレンジ」と言って来たから、その方が口になじむけれど)というのを書いた。
どちらも主唱するところは、都市スラムは環境的には荒廃しているようにみえても、社会的には非常に機能しており、むしろスラムの再開発はそれをかえってめちゃくちゃにしちゃう、というものである。
最近はなんでもかんでも「まちづくり」というが、ジェイコブスさんはまちづくりの守護聖人みたいなところがある。
土地利用を純化させるモダンな都市計画への批判、人々の交流をさまたげる高層住宅やストリートから隔絶した住宅の批判、まちの住宅の、そして人々の多様性が大切だという主張、なによりも人々の交流あるコミュニティの重視など……、いまでもありがたいまちづくりのコンセプトが並んでるしてる。
似ているようで違うガンズさんは、ジェイコブスさんの仕事の重要性を認めながらも、いくつかの留保をつけている。
ひとつは、ジェイコブスさんはあまりにデザインの問題に集中しすぎていて、大きな問題を見落としてしまっているのじゃないか、ということ。
もう一つは、ジェイコブスさんの言う事って、つっこんでみると、ミドルクラスによる、下町コミュニティや古い建築へのノスタルジーに過ぎないんじゃないか、ということ。
ひとつづつ見ていこう。
ジェイコブスが批判している建築家たちと同様に、彼女自身も物理的決定論に陥っている。
ジェイコブスは、多様性がないから町に活力がなくなり、人々がでていくことになり、まちがスラムになるという。そして多様性を許容するデザイン、例えば様々な人種・階層(人々)の共存、様々な機能の共存(たとえば職住共存)を実現するデザインが町を救うのだという。
ぶっちゃけ、よいデザイン、望ましい物理的環境を作り出せば、人々は自然に集まり、活気ある暮らしを営んでいくというのだ、と。
けれど、たとえばマイノリティのコミュニティは、建築的にも人種的にも、ちっとも多様性がないが、ちゃんとストリートのにぎわい=コミュニティがあるじゃないか。
物理的決定論に陥るあまり、社会・経済的な側面を見落としているのもまずい。
ジェイコブスは、人々を不幸にするまちのデザインが、都市計画家やプランナーの報じる伝統的な都市計画思想、たとえば人口密度を下げたり、土地の高度利用を目指すことから生まれるという。
けれども、そうした「デザイン」はただデザイナーの頭から出てきた訳ではなく、むしろ社会的社会的な力に強いられているんじゃないのか?
またスラムは多様性の欠如から生じるというが、それもお門違い。
人々はよそに多様性を求めて移転するでなく、多様性が増えるとむしろ、とどまりたくなくなるのだ。
少なくともミドルクラスの子育て世代が郊外に移るのはそういう理由だ。
ミドルクラスは、ストリートでなく、互いの家庭内で社会活動する。
ストリートのにぎわいよりも、マンションや低密度公害でのプライバシーを重視する。
彼らの「コミュニティ」や友人、仕事、余暇を過ごす場所は、向こう三軒両隣のストリートでなく、都市のあちこちに、もっと外に広がっている。
彼らはもはや近隣だけにとどまっておれないのだ。
職住共存なんて真っ平。
子供の教育=社会化に、文化混合の近隣はふさわしくない。
近所の商店よりも、通信販売がもたらす「選択の自由」を求める。
上昇志向をえじきにする、足引っ張り合い的なご近所ゴシップを嫌う、等々。
ジェイコブスはプランナーの思想に悪因を求めるが、かれらや市場はミドルクラスの欲求の反映なのではないか。
ジェイコブスは結局のところ、民間ディベロッパーにできもしなければやる気も起きない働きを要求している。
それから、連中がワシントンへの有力なロビー集団であること、そしてその結果うまれた政策が現在の窮状を招いたのだということも、ジェイコブスは忘れてる。
ジェイコブスは、ミドルクラスのノスタルジーを描いて、同様にミドルクラスの、その反政府、反官僚、反計画、反専門家の姿勢(これらはニュー・ライトのお好みでもあった)を言葉にして、人気者になった。
むしろジェイコブスの人気は、ちょうどよく社会経済のしくみを「忘れて」いることにあるとも言える。
そこでは問題もやられ役も、分かりやすく「目に見えるもの」にすり替えられている。
だからこそ、人は頑張りようがある。
「デザイン」は意図されたものであるから、正しい意図を持ちさえすれば変えることができる、と信じやすい。
実は、「デザイン」は決してデザイナーの自由な感性によって生まれた中空に浮いたものではなく、社会経済的なさまざまな力に強いられ翻弄されるものなのだけれど。
と、ガンズさんの批判をひろっていくと、彼がいまいち受けない理由(邦訳のなかった理由)が、なんだかわかってきた。
でも、全国の自称「まちづくり」野郎に読ませたいとは思わない?
2006年にようやく『都市の村人たち : イタリア系アメリカ人の階級文化と都市再開発』が 松本康訳でハーベスト社から出た。都市社会学って、この国では社会学以上に、人気がないのだ。
最近では日本経済新聞社からも邦訳が出るほどの人気者である、J.ジェイコブズさんが『アメリカ大都市の生と死』という本を書いて、都市計画や再開発が都市のコミュニティを滅ぼすってなことを書いたのと、相前後して、Gansさんも、その『都市の村人たち』(長い間「アーバン・ヴィレンジ」と言って来たから、その方が口になじむけれど)というのを書いた。
どちらも主唱するところは、都市スラムは環境的には荒廃しているようにみえても、社会的には非常に機能しており、むしろスラムの再開発はそれをかえってめちゃくちゃにしちゃう、というものである。
最近はなんでもかんでも「まちづくり」というが、ジェイコブスさんはまちづくりの守護聖人みたいなところがある。
土地利用を純化させるモダンな都市計画への批判、人々の交流をさまたげる高層住宅やストリートから隔絶した住宅の批判、まちの住宅の、そして人々の多様性が大切だという主張、なによりも人々の交流あるコミュニティの重視など……、いまでもありがたいまちづくりのコンセプトが並んでるしてる。
似ているようで違うガンズさんは、ジェイコブスさんの仕事の重要性を認めながらも、いくつかの留保をつけている。
ひとつは、ジェイコブスさんはあまりにデザインの問題に集中しすぎていて、大きな問題を見落としてしまっているのじゃないか、ということ。
もう一つは、ジェイコブスさんの言う事って、つっこんでみると、ミドルクラスによる、下町コミュニティや古い建築へのノスタルジーに過ぎないんじゃないか、ということ。
ひとつづつ見ていこう。
ジェイコブスが批判している建築家たちと同様に、彼女自身も物理的決定論に陥っている。
ジェイコブスは、多様性がないから町に活力がなくなり、人々がでていくことになり、まちがスラムになるという。そして多様性を許容するデザイン、例えば様々な人種・階層(人々)の共存、様々な機能の共存(たとえば職住共存)を実現するデザインが町を救うのだという。
ぶっちゃけ、よいデザイン、望ましい物理的環境を作り出せば、人々は自然に集まり、活気ある暮らしを営んでいくというのだ、と。
けれど、たとえばマイノリティのコミュニティは、建築的にも人種的にも、ちっとも多様性がないが、ちゃんとストリートのにぎわい=コミュニティがあるじゃないか。
物理的決定論に陥るあまり、社会・経済的な側面を見落としているのもまずい。
ジェイコブスは、人々を不幸にするまちのデザインが、都市計画家やプランナーの報じる伝統的な都市計画思想、たとえば人口密度を下げたり、土地の高度利用を目指すことから生まれるという。
けれども、そうした「デザイン」はただデザイナーの頭から出てきた訳ではなく、むしろ社会的社会的な力に強いられているんじゃないのか?
またスラムは多様性の欠如から生じるというが、それもお門違い。
人々はよそに多様性を求めて移転するでなく、多様性が増えるとむしろ、とどまりたくなくなるのだ。
少なくともミドルクラスの子育て世代が郊外に移るのはそういう理由だ。
ミドルクラスは、ストリートでなく、互いの家庭内で社会活動する。
ストリートのにぎわいよりも、マンションや低密度公害でのプライバシーを重視する。
彼らの「コミュニティ」や友人、仕事、余暇を過ごす場所は、向こう三軒両隣のストリートでなく、都市のあちこちに、もっと外に広がっている。
彼らはもはや近隣だけにとどまっておれないのだ。
職住共存なんて真っ平。
子供の教育=社会化に、文化混合の近隣はふさわしくない。
近所の商店よりも、通信販売がもたらす「選択の自由」を求める。
上昇志向をえじきにする、足引っ張り合い的なご近所ゴシップを嫌う、等々。
ジェイコブスはプランナーの思想に悪因を求めるが、かれらや市場はミドルクラスの欲求の反映なのではないか。
ジェイコブスは結局のところ、民間ディベロッパーにできもしなければやる気も起きない働きを要求している。
それから、連中がワシントンへの有力なロビー集団であること、そしてその結果うまれた政策が現在の窮状を招いたのだということも、ジェイコブスは忘れてる。
ジェイコブスは、ミドルクラスのノスタルジーを描いて、同様にミドルクラスの、その反政府、反官僚、反計画、反専門家の姿勢(これらはニュー・ライトのお好みでもあった)を言葉にして、人気者になった。
むしろジェイコブスの人気は、ちょうどよく社会経済のしくみを「忘れて」いることにあるとも言える。
そこでは問題もやられ役も、分かりやすく「目に見えるもの」にすり替えられている。
だからこそ、人は頑張りようがある。
「デザイン」は意図されたものであるから、正しい意図を持ちさえすれば変えることができる、と信じやすい。
実は、「デザイン」は決してデザイナーの自由な感性によって生まれた中空に浮いたものではなく、社会経済的なさまざまな力に強いられ翻弄されるものなのだけれど。
と、ガンズさんの批判をひろっていくと、彼がいまいち受けない理由(邦訳のなかった理由)が、なんだかわかってきた。
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<<レファレンスこの1冊/哲学史ならTotok, W.“Handbuch der Geschichte der Philosophie" | Home |
エピクロス、あるいは「最小の哲学」について>>
塩沢由典
都市社会学からのジェイコブズ批判、一読の価値がありそうですね。ご教示、ありがとうごさいます。ところで、以下の(ガンスさんの)ご指摘、正確でしょうか。
>むしろジェイコブスの人気は、ちょうどよく社会経済のしくみを「忘れて」いることにあるとも言える。
たしかにこういう見方もできるかもしれません。しかし、ジェイコブズには、経済社会に関する4部作ともいうべき一連の本があります。『市場の倫理 統治の倫理』以外は、山形浩生さんにさんざんにけなされていますが、じつはそれらは経済学の現在の主流の枠組みを超える深い洞察にあふれています。ハーバート・J.ガンズさんは、それらも視野に入れて上で批評されているのでしょうか。
いずれにしても、今年、2016年はJane Jacobs生誕100周年です。
日本でも、いくつか企画が進んでいます。その一つが「ちくま大学」の「ジェイン・ジェイコブズの思想と行動」 http://peatix.com/event/136573 です。関心のありそうな方にご紹介いただければ幸いです。2月には絶版になっていた『市場の倫理 統治の倫理』がちくま学芸文庫から再刊されます。
このほか、藤原書店の『環 別冊』でも、ジェイコブズ特集が進行中です。6月ごろには明治大学での国際シンポジウムも計画されています。『知られざるジェイン・ジェイコブズ』も翻訳されます。いまちょっと予定は立ちませんが、Max PageとTimothy Menne編の『ジェイン・ジェイコブズ再考』も翻訳されます
>むしろジェイコブスの人気は、ちょうどよく社会経済のしくみを「忘れて」いることにあるとも言える。
たしかにこういう見方もできるかもしれません。しかし、ジェイコブズには、経済社会に関する4部作ともいうべき一連の本があります。『市場の倫理 統治の倫理』以外は、山形浩生さんにさんざんにけなされていますが、じつはそれらは経済学の現在の主流の枠組みを超える深い洞察にあふれています。ハーバート・J.ガンズさんは、それらも視野に入れて上で批評されているのでしょうか。
いずれにしても、今年、2016年はJane Jacobs生誕100周年です。
日本でも、いくつか企画が進んでいます。その一つが「ちくま大学」の「ジェイン・ジェイコブズの思想と行動」 http://peatix.com/event/136573 です。関心のありそうな方にご紹介いただければ幸いです。2月には絶版になっていた『市場の倫理 統治の倫理』がちくま学芸文庫から再刊されます。
このほか、藤原書店の『環 別冊』でも、ジェイコブズ特集が進行中です。6月ごろには明治大学での国際シンポジウムも計画されています。『知られざるジェイン・ジェイコブズ』も翻訳されます。いまちょっと予定は立ちませんが、Max PageとTimothy Menne編の『ジェイン・ジェイコブズ再考』も翻訳されます
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asahi.com(朝日新聞社):「緑のオーナー制度」で水源林伐採 岐阜の国有林 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/0504/NGY201005040001.html
水源林として望ましい森は、多様な種で多様な樹齢が混在することだが
皆伐するような均一な針葉樹林な水源林として...
障害報告@webry 2010/05/04 Tue 23:46
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