8月には一面、蕎麦の白い花が咲いていた畑も秋が深まる頃には刈り取られて赤茶色になっていました。
[ 2009/05/25 21:00 ]
深名線 |
トラックバック(-) |
CM(0)
秋の風景の中を行くキハ53。のんびりした光景ですが、このようなところで鉄道を維持していくのは難しいのはやむを得ないのでしょうね。
[ 2009/05/24 21:00 ]
深名線 |
トラックバック(-) |
CM(1)
北母子里周辺は牧場地帯が拡がっていて、線路沿いに開けているところもあり、ロケーションのいい撮影ポイントがいくつか点在していました。
[ 2009/05/23 21:00 ]
深名線 |
トラックバック(-) |
CM(1)
駅の柱にかかっていたタブレット。野上電気鉄道はタブレット閉塞を施行していました。
連絡口から日方駅を望むと様々な個性を持った車両が留置されていました。このうちの何両かは廃止後、阪神電鉄に里帰りし保存されています。
電車から降りてきた人達が急ぎ足で家路についていきました。
車内に掲示されていた路線案内図。これも年季が入っていました。
野上電気鉄道の起点は日方駅でJR紀勢本線の海南駅と近接していますが、海南駅との直接的な接続は、日方駅から80m離れた(とはいっても日方駅構内扱い)連絡口駅で行われていました。
確かクハ104の車内だったはずですが、大正時代にルーツがある車両は車内もレトロ感いっぱいでした。
野上電気鉄道は、登山口駅へ向かうに連れて谷間に入っていくという感じでした。
元阪神701形だったモハ27と同じく元阪神1121形電車を野上電気鉄道が導入に際して電装解除したクハ104の2両編成の電車。クハ100形は3両が在籍していましたが、晩年はクハ104のみが運用についていました。
終着駅の登山口で発車を待つ電車。通勤帰りの人達を降ろした後の折り返し列車はさびしい雰囲気でした。
大正中期に製造された木造車を改造した阪神701形を導入したモハ20形の25・26・27電車。そのうちモハ26がモハ24とコンビを組んで運用についているところを撮るころができました。
元阪神601形604を1961年に譲り受けた上で、モハ24として廃線時まで運行されていました。丸みを帯びた5枚窓からなる前面形状が特徴で、野上電気鉄道で最も人気のある車両でした。現在では阪神に里帰りし保存されているそうです。
野上電気鉄道では、途中、重根駅が交換駅となっており、ここで交換するようにダイヤが組まれていました。
もともとは大正中期に製造された木造車を鋼体化改造した阪神1001形電車を1960年代に譲受したもので2両存在していました。側窓上に明かり窓があるのが特徴でした。
デ10形は元々は、1951年製造の富山地方鉄道デ5010形で、野上電気鉄道には1975年に3両が譲受されました。12m車で輸送力が小さかったことから昼間の閑散時間帯に主に使用されていました。
野上電気鉄道は、1916(大正5)年にたわしやロープなどの特産品を港のある海南市まで運ぶために日方から紀伊野上間で開業し、1928(昭和3)年には紀伊野上から生石口(のちの登山口)間が開通して全長11.4kmで運行されていました。長らく経営難と言われていて、国からの欠損補助の打ち切りが決まったことから1994(平成6)年4月1日に全線廃止となりました。車両などにも投資が行われてなかったようで廃止時まで旧型の電車が活躍していました。
すっきりした透明度の高い冬の青空の下。キハ600形の気動車が気持ち良さそうに走り去っていきました。
[ 2009/05/07 21:00 ]
鹿島鉄道 |
トラックバック(-) |
CM(0)
昨日に引き続き、筑波山と鹿島鉄道のコラボです。茨城県のこのあたりは山と言えば筑波山という感じですよね。廃止が近づいていたこともあり、やってきた気動車は結構なお客さんが乗っていました。
[ 2009/05/06 21:00 ]
鹿島鉄道 |
トラックバック(-) |
CM(0)