美声の理由
- 2013/01/12 17:48
- Category: 未分類
中世ヨーロッパにはカストラートという、去勢した男性歌手がいた。
当時のキリスト教教会では女性は沈黙を守らなければならぬという掟があったので、
教会で讃美歌を歌う女性役は声変わり前の少年のボーイ・ソプラノが担っていたが、
彼らが高音を出せる時期は短く限られていたので、声変わりする前に去勢手術を行い、
成年になってもソプラノ域の歌声が出せる男性歌手が登場するようになった。
物珍しいカストラートは世間からもてはやされ、スターとなって大金を稼ぐ者が現れ
始めると、貧しい家庭の親が一攫千金を狙って自分の子供に去勢手術を受けさせる
ようになった。 でも、当時の不衛生な医療現場の中で、術後の感染症で命を落とす
子供が増えるようになると、今度は手のひらを返したように、カストラートは
人道的理由から世間の非難を浴びるようになり、やがて姿を消した。
現代にはカストラートは当然いないが、カウンターテノールという存在がある。
裏声で高いオクターブを歌う男性のことで、その代表格がベラルーシ出身のスラヴァだ。
「アヴェ・マリア」と題された歌曲ばかりを録音したこのアルバムは素晴らしい出来で、
バッハ、シューベルト、ヴェルディらの手による楽曲に混じってカッシーニの曲が
収録されているが、これが知られざる名曲だったことが世界中の人々を驚かせた。
俺は歌曲やオペラが苦手で、例外的に、モーツァルトの「魔笛」とドニゼッティの
「ランメルモールのルチア」だけは好きでたまに聴くが、それ以外はまったく聴かない。
リュック・ベッソンの「フィフス・エレメント」という面白い映画の中で、歌姫が歌を歌う
シーンが出て来るが、あの時歌っていたのが「ランメルモールのルチア」の中の曲だ。
スラヴァのこのアルバムを聴くたびに、こんなにきれいな歌声が出せるんなら、
カストラートの存在なんてそもそも必要なかったじゃないか、と思う。
去勢されたカストラートたちはホルモンバランスが崩れて、内面は情緒が不安定になり、
外見は小太りになった。 そんな犠牲を払ってまで、人は去勢する必要なんかない。
一方、去勢するのがあたりまえとなっている家猫たち。
バースコントロールやマーキング防止、ストレス抑止のためというが、
それはあくまでも人間目線。
彼らはどんな代償を払っているのだろう。 いつか、それがわかる日は来るのだろうか。
レオも、生後6ヶ月に去勢した。
大人になっても下あごが発達せず逆三角形の小顔で、その表情はあどけないままだ。
声もきれいに澄んだソプラノのまま。
まるで、ある時期で時が止まってしまったかのようだ。
問題行為もなくて、見た目も愛らしいままだし、大人の込み入った悩みなどとは全く
無縁の様子で、そのこと自体はおおいに結構だけど、本当にこれでいいのだろうか、
という疑問は今でも拭いきれない。
去勢手術のお願いをした時、病院の先生からは、室内飼いなんだったら
手術の必要はないんですけどねえ、と少し抵抗された。
医師の純粋な立場からすれば、こういうのには反対だったんだろう。
あることについては、人間と同じ基準でなければならぬ、と言い、
あることについては、人間ではありえないことを強制する。
種が違うのだから当然だといえばそれまでだが、どうも首尾一貫しないこういう
我々のやり方には腑に落ちないところが多くて、どうしても違和感が残る。
行き過ぎた話や行為も時々見られて、それが一体何を代弁しているのかが
よくわからないことも多い。 それは、本当に猫の気持ちを代弁しているのか?
ごめんな、こんなことになって。
時々、そう呟かずにはいられない時がある。
俺がレオを甘やかすのは、ただかわいいからだけではないのかもしれない。
当時のキリスト教教会では女性は沈黙を守らなければならぬという掟があったので、
教会で讃美歌を歌う女性役は声変わり前の少年のボーイ・ソプラノが担っていたが、
彼らが高音を出せる時期は短く限られていたので、声変わりする前に去勢手術を行い、
成年になってもソプラノ域の歌声が出せる男性歌手が登場するようになった。
物珍しいカストラートは世間からもてはやされ、スターとなって大金を稼ぐ者が現れ
始めると、貧しい家庭の親が一攫千金を狙って自分の子供に去勢手術を受けさせる
ようになった。 でも、当時の不衛生な医療現場の中で、術後の感染症で命を落とす
子供が増えるようになると、今度は手のひらを返したように、カストラートは
人道的理由から世間の非難を浴びるようになり、やがて姿を消した。
現代にはカストラートは当然いないが、カウンターテノールという存在がある。
裏声で高いオクターブを歌う男性のことで、その代表格がベラルーシ出身のスラヴァだ。
「アヴェ・マリア」と題された歌曲ばかりを録音したこのアルバムは素晴らしい出来で、
バッハ、シューベルト、ヴェルディらの手による楽曲に混じってカッシーニの曲が
収録されているが、これが知られざる名曲だったことが世界中の人々を驚かせた。
俺は歌曲やオペラが苦手で、例外的に、モーツァルトの「魔笛」とドニゼッティの
「ランメルモールのルチア」だけは好きでたまに聴くが、それ以外はまったく聴かない。
リュック・ベッソンの「フィフス・エレメント」という面白い映画の中で、歌姫が歌を歌う
シーンが出て来るが、あの時歌っていたのが「ランメルモールのルチア」の中の曲だ。
スラヴァのこのアルバムを聴くたびに、こんなにきれいな歌声が出せるんなら、
カストラートの存在なんてそもそも必要なかったじゃないか、と思う。
去勢されたカストラートたちはホルモンバランスが崩れて、内面は情緒が不安定になり、
外見は小太りになった。 そんな犠牲を払ってまで、人は去勢する必要なんかない。
一方、去勢するのがあたりまえとなっている家猫たち。
バースコントロールやマーキング防止、ストレス抑止のためというが、
それはあくまでも人間目線。
彼らはどんな代償を払っているのだろう。 いつか、それがわかる日は来るのだろうか。
レオも、生後6ヶ月に去勢した。
大人になっても下あごが発達せず逆三角形の小顔で、その表情はあどけないままだ。
声もきれいに澄んだソプラノのまま。
まるで、ある時期で時が止まってしまったかのようだ。
問題行為もなくて、見た目も愛らしいままだし、大人の込み入った悩みなどとは全く
無縁の様子で、そのこと自体はおおいに結構だけど、本当にこれでいいのだろうか、
という疑問は今でも拭いきれない。
去勢手術のお願いをした時、病院の先生からは、室内飼いなんだったら
手術の必要はないんですけどねえ、と少し抵抗された。
医師の純粋な立場からすれば、こういうのには反対だったんだろう。
あることについては、人間と同じ基準でなければならぬ、と言い、
あることについては、人間ではありえないことを強制する。
種が違うのだから当然だといえばそれまでだが、どうも首尾一貫しないこういう
我々のやり方には腑に落ちないところが多くて、どうしても違和感が残る。
行き過ぎた話や行為も時々見られて、それが一体何を代弁しているのかが
よくわからないことも多い。 それは、本当に猫の気持ちを代弁しているのか?
ごめんな、こんなことになって。
時々、そう呟かずにはいられない時がある。
俺がレオを甘やかすのは、ただかわいいからだけではないのかもしれない。
ひろ
そのアルバム、私も持ってます。「アヴェ・マリア」が好きで「アヴェ・マリア」ばっかりのアルバムを探していて見つけました。
ソプラノとは違っていて、なんというか中性的な怪しい美しさに思います。
私はカッチーニの「アヴェ・マリア」が大好きで、カッチーニの「アヴェ・マリア」だけを集めたプレイリストを作って聞いています。
うちも完全室内飼いですが去勢しています。その時はそれが正しい選択だと思ってやりましたけど、自然ですめばそれにこしたことはないわけで人間の勝手な都合ですよね。
リアノンさんが書かれている罪悪感のようなもの、とてもよくわかります。
今日は雪ですね。うちのネコはずっと外を見ています。空から落ちてくる雪とか、外で遊ぶ子供とか。
明日はちゃんと会社に行けるのだろうか。。。。