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もしも生まれ変われるとしたら?? [随筆]


 もしも生まれ変われるとしたら?? 人間はもういい。

 わが人生に悔いなし、とはいかないが、人間は取り敢えず卒業したいという心境である。

 生まれ変わる、「生」と言う字があるからには、生き物でなければならない。としたら動物と植物と、どちらの方がいいだろう。キョトンとこちらを見上げているペット犬も悪くない。舐めるように可愛がられて、死ぬまで食べるものの心配もない。だが、これでは生かされているというだけで、目的意識もなにもない。もっとも、犬になってそこまで真剣に考えるかどうかは疑問だが。

 植物はどうだろう。原生林ですくすくと育つ木、やがて樹齢を重ねて見事な大木になる。だが、これもいつかは倒れる。大体そこまでいかぬうちに、私が生まれ変わった木などは、人の手にかかり、さしずめ割り箸が爪楊枝にでもなってしまうのがおちだろう。

 生き物に生まれ変わってもいつかは死が待ち受けている。死ぬのは一度で沢山だ。それでも、どうしてもと言うことならば、五冠馬シンザンみたいな競争馬がいいかも知れない。生まれも育ちもよく、富と名誉を手に入れ、種馬としての役目も果たしたあとは、余生をのんびりと牧草を食んですごし、人間でいえば百歳の長寿を全うした。世話係りに添い寝をしてもらい、立派な追悼会もしてもらった。ペット犬と違い、意義ある人生ならぬ馬生を送ったわけである。

 ところで、もしも「生き物」以外のもの、無機質で、死んだり壊れたり、廃棄処分にされたりする心配のないものなってもいいのであれば、私は「山」がいい。

 「今度、生まれ変われるとしたら何になりたい?」と聞かれるたびに、いつの頃からか「絶対、山になりたい」と答えるようになった。それも出来ればエベレスト級がいい。ゴミ問題が最近話題になっているが、削り取られてゴルフ場にされたりする心配は金輪際あるまい。

 山に死があるだろうか??噴火は山の成長の過程であって、ある日突然、山がこの世から姿を消したりはしない。

 いろいろゴタクを並べても、結局のところ、死ぬのがいやなだけの、年寄りのささやかな逃げ道をあれこれ考えているに過ぎないのである。

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 これも古い昔に書いたモノと、読み返してみて思います。シンザンなどという馬をご存知の方は少ないでしょう。 山の他に海も永久に滅びない、でもさまざまな魚がウヨウヨ、船舶の騒音やら廃棄物で汚れる、やっぱりあまり気乗りはいたしません。やっぱり、人間が登って来られない山になりたいです!
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ちょっと笑える話 そのⅠ(振り上げたステッキ) [随筆]


 急な用事を思い出して新宿まで出かけた。郊外を走る私鉄からJRに乗り継いで行かねばならぬので、億劫だが致し方ない。
 時間が二時をまわった頃だったせいか、車内はほどほどの込み具合で、空席もかなり目立っていた。シルバーシートに座る年にはなっているが、なるべく座らないようにしている。特別な理由があるわけではないのだが、心のどこかに抵抗感があるのかもしれない。

 その日もシルバーシートの片側は、座って当然の人たちで塞がっていた。が、反対側は中学生だろうか男の子が三人、学校帰りの話に興じていた。昨今、若者たちがこの老人及び身体障害者専用の席に平気で座っている姿には馴れっこになっていたから、別段深く考えるでもなく眺めていた。その時点で自分の後から老女が1人、続いて乗って来ているのには全く気付いていなかった。

 「オイ!キミたち、自分の後ろの窓に何と書いてあるのか讀めんのかっ!!」

 突然の大声にビックリして声の主を探すと、反対側のシルバーシートの真ん中に座っていた「矍鑠」とか「眼光炯炯」とかいう形容詞がぴったりの老人が、ステッキの先を男の子の1人に向けて睨み付けていた。刺された子は一瞬たじろいだが、「読めないわけないでしょ」と返した。

 「じゃあ、読んでみたまえ。大きな声で」老人の声のトーンはさらに高くなった。さすがに中学生の反抗もそれまでで、友だちと三人で空いていた私の前の席に崩れ込むようにしながら友だちに訴えた。
 「おれ、ああいうの弱いんだ~アッ!」まだ幼さの残る顔を紅潮させ、目は潤んでいる。いわゆる
「ワル」ではなさそうだ。

 老人は自分の一喝の効果に満足し、老女に向かって誘いかけた。

 「さあ、あんた、お座りなさい。なにも遠慮はいらん。当然のことなんだ」
 「有難うございます。でも、すぐに降りますので・・・」
 老女は恐縮しながら頭を下げた。人の良さそうなその顔には心なしか当惑した表情が浮かんでいる。そして何と言葉通り次の駅で降りて行ってしまった。

 この間、時間にすれば3分弱、まさにアッという間のできごとだった。関係のない傍観者としても、三竦み状態に置かれた三者三様の胸の内を想像すると、なにやら困惑を感じてしまったのである。 

 老人は自分が取った行動は正しかったと信じつつも、大上段に振りかぶった太刀の置き所に困っている武士の心境かも知れない。「なにもすぐに降りていかんでもいいのに、あの婆さん」
 
 乗客の注目を一身に浴びた男の子たちは、消えてしまいたいほど恥ずかしい。金輪際アノ席には座るまい、と決心したのであれば上出来である。
 そして、降りて行った老女は、「もう一駅ぐらい、用事はなくても乗って行ったほうがよかったかしらん」などと考えているかもしれない。

 喜劇とも悲劇ともつかぬ歯切れの悪い幕切れだった。電車の中はおもしろい。

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 最近は電車に乗ることもなくなりました。これはいつまでも忘れることが出来ない出来事です。
 難しい形容詞、今の時代では読めない方もいらっしゃるのでは??
 お粗末でした。

 
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晩酌の効用 [随筆]



 毎年、敬老の日が近くなると、さまざまな長生きの秘訣が紹介される。テレビマイクを向けられた長寿者の殆どが口を揃えたようにあげる主な秘訣は「くよくよしないこと」「魚と野菜をよく食べること」そして「毎日、晩酌を欠かさぬこと」である。

 実はこの秘訣を裏付ける証人がいる。年が明けて1月2日に96才を迎えた父である。若い頃はかなりいける口だったらしが、泥酔した父を目にした記憶はない。年を重ねるに従ってアルコールの量も減り、最近は呑むものも薬用酒に変わったが、それでも1日も欠かしたことはない。晩酌は食欲を増進し、寝付きもいいとご機嫌な顔で言う。

 「晩酌」という言葉には、慎ましやかに、ささやかに呑むという響きがあるように思う。「酒は百薬の長」「酒は天下の美禄」など、古来、酒にまつわる成句は多い。煙草と違って、飲酒に対する世間の風当たりもあまり強くない。酒の上のことだからと、風船に息を吹き込んで検査でもされぬ限りは大目に見てもらえる場合が殆どだ。飲み方さえ間違えなければ酒は人間にとって有益である、という考え方が我々の根底にあるからなのかもしれない。

 父の言うとおり、夕食時の「ちょっと一杯」は確かに美酒である。心身両面、その日の疲れを忘れさせてくれる。心ない友人の一言でささくれ立った心も、いつしか穏やかにその友人を許している。「晩酌」とは、まさにその「ちょっと一杯」であって、酒の呑み方の模範みたいなものと言えるだろう。

 話しはいささか飛躍するが、イスラム教は飲酒ご法度である。イスラムの国をいくつか旅して、この国の人たちは、晩酌のあの醍醐味を味わうことなく一生を終えるのかと、気の毒ににも似た気持ちになったものだ。その点、愛を説くキリスト教の方は、過度でなければ禁酒を強いてはいない。キリストの血であるワインを酌み交わすことによって、平和が保たれるであろうことを、キリストは願っていたのかも知れない。

 武力抗争の絶えぬイスラム諸国、一杯のビールで互いに心を開き、和解というわけにはいかないものだろうか。

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 これはかなり以前に書いたモノです!父が103才で没してはや何年になることやら??
 ところで、近年は高齢者社会、敬老の日など忘れらた存在なのかもしれません。少子化は進む一方とか、逆三角形もいいところです。私も明ければ1月には92才、年をとったものだと嘆息しております。
 
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私の好きな色 [随筆]



 下手の横好きで「色鉛筆教室」に通っている。油絵のように匂いがないうえに場所もとらず、好きな時にいつでも手軽に描けるところがよい。
 今の段階では、色は36色を使っているが、先生は「このうち、白と黒は使うことが殆どないから、初めからないものと思ってください」と言われた。因みに、12色の色鉛筆セットに白は入っていない。
 画用紙は、紙質の差こそあれ、特殊なものを除いて白と相場が決っている。なぜ白なのか、それはどんな色にでも塗り分けられ、その色を引き立てるためかも知れない。
 白く見える部分は最初から塗り残すように教えられたし、実際、絵を描く場合に限っても、真っ白な対象物はなきに等しいそうである。少女時代に、キイチのぬり絵を塗り分ける楽しみがあったのも、やはり地が白ならではのことだったろう。

 少し哲学的な言い方をすれば、白は「無」である。花嫁衣裳が白いのは嫁ぐ家の家風に染まる心意気を、そして切腹を賜った武士の白装束は文字通り「無」の心を意味している様に思われる。何かに驚いた時、「頭が真っ白になる」という表現を用いるのも「無」に通じるように思われる。

 趣味や稽古事を始める時、教える側は生徒が何の知識も持たないほうが教えやすいと聞く。つまり、
白紙の状態であるほうが、生半可な色に染まってしまっている人よりも、なんでも素直に受け入れてくれるから、ということだろう。

 白を効果的に塗り分けるのはこちらの責任である。真っ白で無垢な心で生まれてきた赤ん坊が、非行少年に成長するか、悪徳官僚に成り下がるか、これは親と周囲を取り巻く大人社会の責任である。白もこの辺りの話になってくると難しく、奥が深くなっていく。

 病床に臥せっていると、さまざまなお花をお見舞いにいただく。病人を元気づけようと、赤、ピンク、黄、紫と色鮮やかな物が多い。だが、そのどれにも、白のかすみ草や小でまりが主役を引き立てるように、必ずと言ってよいほど添えられている。
 何色にでも染まる白、引き立て役でありながら自分を殺すことのない白、自己反省も加えて、私の好きな色といえそうだ。

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 もう40年以上前のお話しです。色鉛筆のあと、大胆にも油絵に挑戦、「作品を持参して来て下さい」
個人の先生に言われ愚作を一点持って行きました。見るなり先生曰く「これは写真を見て描きましたね?」 その通り、でも何故分かったんだろう?「風景をはじめ建物その他、この世に直線というものは存在しないんですよ」なるほどね~、早速帰って狭い庭を描きました。及第点!
 所が、油絵は作品を置く場所にかなりの空間を必要とします。狭い家ではそこに難点が・・・で、諦めました。今、残っているのは3点だけ。ハイ、写真を見て描いたのはチャンと取ってあります( ´艸`)
 キイチのぬり絵、ご存知の方はいらっしゃらないでしょうね?
 貴方のお好きな色は何色ですか???

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ひし(孫とおじいちゃんの会話) [随筆]


 「ねぇ、三菱自動車って知ってる?」
 「近頃、欠陥車で問題になっておる車じゃろう?」
 「じゃあ、菱餅とか菱形、知ってる?」
 「人をばかにしておるのか?知らんでどうする」
 「剣菱っていう日本酒は?」
 「死んだ爺さまの大好物じゃ。じゃあお前、剣菱っていう紋所を知っとるか?」
 「剣先を菱形にかたどったもの、でしょ?」
 「そうか、で、いったいさっきから何をひし、ひしいっておるんじゃ?」
 「じゃあ、最後にひとつね。ひしってな~んだ?」
 「う~ん、菱は菱だ、それでいい。お前は知っておるのか?」
 「今朝ね、テレビ見ていたんだ。そしたら『ひしの収獲が最盛期を迎えています』って言うから、       
  ひしってどんな物だろうって。そしたらさぁ、水生植物で根っこの先に茶色の実が成っているの。
  小振りのジャガイモぐらいかな。その形が、菱形だったのね。茹でて食べると栗みたいにホクホク
  して美味しいんだってさ。あの実の形から菱形が出来たんだな、朝から悧巧になっちゃったよ」
 「そうか~、それはこの年になるまで知らなかったなぁ。という事は、戦国時代に敵が攻めてこない
  ように、道にばら撒いておいた菱も、鉄をその形にしたものだったんじゃ。悧巧になった。
   その土地の人にとっての常識が、こちらの無知につながったいい例じゃった」
 「案外みんなが知っていたことを、僕たちだけが知らなかったのかもね」
 「かも知れんなぁ。これからはきょろきょろ辺りを見回して、新しい発見をするかな」
 「そうだよ、年を取っているから何でも知っているなんて思っちゃだめだよ」
 「悪いが、そこにある天眼鏡を取ってくれ」
 「なにそれ???」  
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 これを書いたのは何年前でしょう、記憶にございません。三菱自動車の問題も闇の中です。
 無責任も甚だしい限りです。でも、菱形については、番組名は分かりませんが、菱の実を
 扱ったものであることに間違いはありません。時代劇大好き人間は、忍者と菱は切っても切れないご    
 縁です。相変わらず、つかみどころのない記事で失礼いたしました。
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義母(はは)と嫁 [随筆]


 ある日、雑談の途中でMさんが唐突に話題を変えて聞いた。

 「あなた、ご長男の奥さまを他人に紹介するとき、何ていう?」
 「う~ん、まあ平凡だけど(長男の嫁)ですかな? あんまりありきたりで抵抗感はあるけど」
 「でしょう?あたしもいやでね、(長男の連れ合い)ですって言うんだけど、何だかこれも落ち着か  
  ないのよ」
 「彼女は私のこと、(義母=ははです)とか(主人の母です)とは言うけど、(姑です)はあまり使 
  わないもんね」

  確かに言われてみれば、姑、嫁という漢字はあるが、話言葉になおした場合、義母(はは)はある  が義娘(むすめ)はない。聞き手は「むすめ」といえば血の繋がった娘だと思うし、義理の娘と紹介すれば、おおかたの察しはつくものの、若しかしたら養女かしら?とも解釈しかねない。

 その点、英語ではドーター・イン・ロウとアドプテッドではっきりと区別されているからやり易い。それならば何故、嫁という言葉にこだわるのか?と反論されそうだ。それは世間一般が嫁姑は未来永劫、厚い壁を挟んでしか付き合えぬという常識にも近い形で両者の関係を受け取っているからである。

 先日も、銀座の小さなスナックで1人昼食をとっていると、隣の席に向かい合って座っていた60代とおぼしき女性2人の会話が、初めから終わりまでこの話題に尽きていた。別に聴き耳をたてていたわけではない。あまりにテーブルの間隔が狭すぎて、お二人の会話は、時折急に声をひそめる以外は否応なしに耳に入ってしまうのだった。

 お定まりの嫁姑不仲ばなし、ご丁寧にもその場に居合わせぬ第三者の家庭の内紛も絡んでいるではないか。「嫁のほうが絶対に悪い!」が前提の会話は、私の食欲をすっかり減退させてしまった。

 人は十人十色、底意地の悪い人もいれば、根は善いのだが感情を上手に表現出来ぬ人もいる。様々な性格の人がいてこそ世の中は面白いし、お互いに協調し合って生きて行くのが大人社会のルールである筈だ。よそではそれが出来るのに、嫁プラス姑=犬猿の仲という特別枠の方程式だけが通用するのはどうも解せない。

 話は飛ぶが、私個人として「嫁」「姑」、どちらも漢字の形からして好感が持てない。女編に取ると書く難しい字もあるらしいが、『家』に入った女では『家』の方が優先する感じが強い。姑が古い女とはなにごとか!!と腹さえ立ってくる。どちらも封建的な武家社会の、いまや過去形の思考の上に成り立った漢字であるに違いない。(だいたい、『娘』がみな良い女とは限るまいに)

 家は二の次、息子個人と縁あって結ばれた人が現代の嫁である。

 親子の関係は、互いにいくら年をとっても変わらない。親の、子に対する責任や身の回りの世話は、相手が独り身のうちは親の務めである。それが愛する息子の面倒を全面的にみてくれる人が現れたのだから、感謝こそすれ文句など言えた義理ではない。

 それに当節の姑は家の中にじっとして、嫁いびりをする暇などない。高齢化時代を反映して、体力、気力ともまだまだ充実している。自分の趣味に、遊びに飛び歩き、息子や娘一家にまでは気がまわらない。頼まれれば孫の面倒もみるけれども、なるべく気儘に、自由過ぎる時間を使いたい、と言うのが大方の現代姑気質ではなかろうか。特に都会ではこの傾向が著しい。

 成長した家族の中には他人が2人いる。自分の夫と子どもの配偶者である。どちらとも血の繋がりはない。繋がりはないが、苦楽を共にする、自分にとって一番近い他人である、と思えば節度をもって付き合っていけないわけはないと思う。楽観的すぎるだろうか。

 若い人たちは、新鮮な知識と刺激を与えてくれる。姑の意識も少しづつ変化してきている。

 昔ながらの方程式が、嫁プラス姑=よき理解者に変化するように、お互いが努力しなければならない時代になった。

 どなたか、嫁を紹介するときに使うよい言葉を見付けてくださいませんか?

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 これは20年近く前に書いたものです。もう現在では嫁姑の関係はあまり話題にならないようで、何よりのこと。当家も円満に仲良く付き合っています。
 

      
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目線の高さ(2) [随筆]



 日本人は白人に比較すると概して背が低い。当然、目を合わせて話をしていても、目線の高低はかなりのものがある。言葉の障害と相俟って、相手を見上げなければ目が合わぬ状態は卑屈さや劣等感と背中合わせのような気がする。
 
 いつも思うことだが、先進国首脳会議サミットで、代表者が横一列に並んでの記念撮影は腰掛けて撮れぬものなのだろうか。体格の差を、胸を一杯に張ることでカバーしているように見える日本代表の姿が、痛々しくさえ感じられるのは私だけだろうか。対照的に、東洋系の相手に対しては、ともすれば見下した態度を取り勝ちな同胞がいるのはその反対、つまり目線の高さがたいして変わらないから自然と自信が湧くということである。

 目を合わせて話し合う大切さの中に、目線の高さが重要なポイントになっていることを、私は犬と孫に教えられた。いや、犬好きの、いまは天国で嬉々として愛犬ウインキー君と遊んでいるであろうTさんに教えられた。

 「頭ごなしに叱る」という表現があるが、親が子どもを叱るときにはその子と同じ目線まで自分は腰を折り、真面目に目を見据えて、しっかりと悪かったところを話してやるべきである。高圧的な叱り方よりもこの方が、子どもも自分の言い分を訴える余裕が出来そうな気がする。

 大きいことはいいこと、かも知れないが、その大きい物を見上げている人間や動物たちがいることを決して忘れてはならないのである。

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 パート1では、私が以前にもこのエッセーをアップしていたとのお知らせがあり、ビックリ!
 書いた当人は全然、覚えていないのです。我ながらビックリでした。
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目線の高さ (1) [随筆]



  人と話をする時には、相手の目をまっすぐに見て、とはよく言われる。

  会話を交わしているのに、目を逸らしながら、目を伏せたまま、或いはあらぬ方を眺めながらと、人さまざまであるけれども、相手をしている当人としてはあまり気持ちのよいものではない。相手の目線の行方が、その人の感情をそのまま表しているようにも思えてくる。
 だが、同じ目を合わせるでも、目線の高低について考えてみたことがあるだろうか?

 夫婦そろって犬好きだったので、結婚してから40年間に4匹のシーズー犬を看取って来た。どの犬も家族の風景にすっかり溶け込んでいた。その折々に気付いたのだが、それは犬が真っ先に親近感を見せる相手は子供、それも幼児に対してであった事である。体格的な相似点もあるだろうが、それ以上に、目線の高さが、一番近いからという理由もあったのではなかろうか。雑用に追われ続けていた自分がこんな事を思いついたのは、ごく最近になってからである。

 ある日、数人の友だちが遊びにきた。すでに年老いた老犬はおぼつかぬ足取りで近付いていき、シッポを振りながら大歓迎である。友人たちは口々に、「あら、可愛いわね~」「大人しいのねぇ~」と言いながら頭を撫でてくれた。

 その時だった。上にキ印が付くほどの犬好きなTさんが、いきなり床にゴロッと寝転がって犬の頭と同じ位置に頭を置き、「いい子ちゃんだね、元気かい?」と彼の鼻ずらを撫でてやったのである。

 犬とTさんの目線が同じになったその時の犬の喜びようは尋常ではなかった。体当たりするように身体全体で嬉しさを表現していた。呆気に取られている私たちに、彼女はこういった。

 「犬はネ、上から見ていられるのが、怖いのよ。高いところから見下ろされているんだもの」

 なるほど、犬の目の高さになって上を見上げてみると、なんと人間たちの巨大なこと、まさに怪物なみである。いくら優しく頭を撫でてもらっても、甘い声で話し掛けてくれても、餌をくれても、人間の大きさが威圧的に迫ってくることに変わりはない。相手が危害を加えないとわかってはいるが、これは
犬にしてみれば不快でありおそろしい。犬が吠えるのにはさまざまな理由があるだろうが、この恐怖心に対するものも含まれているのだろう。

 試みに頭の中で、小型犬の目線の高さで散歩をする自分の姿を想像してみよう。車から吐き出される排気ガスは、顔をまともに直撃する毒ガスである。風の強い日は埃が身体を宙に舞い上がらせる。白い被毛もすぐに灰色に変色してしまう。右も左も巨人だらけだ。

 傍目には平和な犬との散歩も、案外、犬にとっては迷惑千万、ストレスの塊なのかも知れない。

 ようやくそれに気が付いたとき、彼はすでに年老いてしまったが、それからは排泄が終わればあとは抱き上げて、外気だけは充分に吸わせてやったのである。

 ところで、何故いま急に犬の目線なのかと言うと、これと全く同じ状況に置かれているのがハイハイを始めた赤ちゃんではないかと思い当たったからである。
 
 大人が椅子に座り、ハイハイをしている子に向かってどんな笑顔を作って見せてもあやしたも、彼または彼女の目線よりは大人のそれの方が遥かに高い。身体も大きいし、得体の知れぬものが自分を見下ろしているような違和感を感じているかもしれない。ホラー映画の世界である。


 ある日、生まれて9か月になる孫息子が、何が気に入らぬのか、突然ぐずりだした。ガラガラを鳴らしてやっても、イナイイナイバア!をして見せても、哺乳瓶を差し出しても泣き止まない。その時、ハタッ!と思いだしたのが、そう、犬と合わせた目線である。
 相手は人間なのだから犬と同じわけにはいくまいが、ものは試しと彼の横に、ゴロンと仰向けに寝転がってみた。効果覿面!今まで遥か上にあった顔を、反対に自分がいきなり見下ろす立場の逆転に、一瞬おどろいて泣き止んだ彼は、急に安心感を覚えたのかニコッと笑みさえ洩らしたではないか!そして
私の口や鼻をオモチャにしてすっかり機嫌を直してしまった。

 抱っこをすれば、泣いている赤ちゃんの殆どは泣き止んでくれる。大人と同じ目線の高さになったのがその原因のすべてとは言わないが、どこかに関連性があるように思えてならないが如何だろう。

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(日本語を縦書きに出来ないもどかしさがあります。やはり日本語は・・・縦書きですよね。
 文中の孫息子は昨年、結婚しました。光陰矢の如しです。
 次回はパート2ということで。ご拝読、有難うございました。)

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新しいスタイルで・・・


 最近、ブログアップを殆どしていません。

 理由は簡単、ネタがないからです。 91才という年を言い訳にしたくありません。出不精にはなりますけれど・・・これが身障者となると、近所をリハビリ散歩するだけで、あとは家に閉じこもっていますから、ネタのタネも見つかりません。

 そこで、過去形になりますけれど、新しいスタイルを見付けました。

 元来、文章を書くのが好きでした。いわゆる随筆の類です。怖いもの知らずは、区が主宰した文学賞に随筆部門で応募、何と第一席を頂いてしまいました。(大昔の話です)

 ところが、ブログには長い文章を書けません。

 大勢のブロ友さんとお知り合いになり、パソコンも生き延びているので、ブログ卒業はしたくないし・・・・

 そこで、次回からは書き溜めたエッセーをアップしようと思います。長いモノは、2・3回に分けて。

 お目を汚すかも知れませんが、お許しください。エッセーブログということで・・・。

 第一回目は「目線の高さ」を予定しています。ご笑読頂ければ幸せです。

  
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正座、出来ますか?


 先日、テレビで面白いことを報道していました。

 現代を描いた映画なのに、そこに時代劇のカットを入れようや、とチャンバラ場面を。これが意外と好評で人気を集めているとか。実物も放映していましたけれど、本当にチャンバラのみ、即ち、立ったままの姿しか映りませんでした。

 現在進行形で時代劇を制作しているという話は聞いたことがありません。

 ですから、私は時代劇専門チャンネルというのに加入したわけです。こちらは本格派、俳優さんたちも、お馴染みの人ばかり。年寄りは懐かしさも手伝って、録画までして悦に入っています。

 何を言いたいか?といえば、過去に制作された時代劇では、俳優さん全員が、キレイに正座をしている姿があまりに見事だからです。

 この正座という日本独特の座り方は、いつ頃、どの様にして生まれたものなのでしょう?

 海外で数回、聞かれたことがあります。「日本人は、どうしてあんなに窮屈な座り方をするの?」

 言われてみれば、東南アジア諸国、アフリカなど数か国を旅しても、正座姿を見かけたことはありません。椅子があれば問題ない、ない時はしゃがむとか、地面にじかにお尻をつけて脚を伸ばす、とかは
目にしたことがありますけれど。

 日本人はくつろいだ時、男はあぐら、女は横座りでした。

 もっとも、最近は椅子に座るのが当然の時代ですから、若い世代は「正座」という言葉自体を知らないかもしれません。

 小学生の頃、兄と2人で正座をして、両親の前で朝は「おはようございます」寝る前は「お休みなさい」と挨拶するのが当然という時代でした。 ・・・・笑われそうですね。

 膝のお皿を真っ二つに割って、身障者になった私は、あの時代だったらどうしていたでしょう、正座はいつ頃から日本独特の座り方になったのか???

 調べてみようと思いましたが、検索しても、小さな辞書でも教えてはくれません。

 ご存知のかた、教えて下さ~~い! 
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