今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、中村二朗・小川誠『賃上げ成長論の落とし穴』(日本経済新聞出版)は、賃上げ成長論についての疑問を明らかにしています。児美川孝一郎『新自由主義教育の40年』(青土社)は、中曽根内閣時の臨教審路線から40年を経た新自由主義的な教育を批判的に分析しています。井上智洋『AI失業』(SB新書)は、人工知能=AIの広範な利用に伴う雇用の喪失だけでなく、新たな産業の形や日本経済へのインパクトなどを幅広く論じています。近藤絢子『就職氷河期世代』(中公新書)は、バブル経済の崩壊に伴う就職氷河期世代の職業生活や家族形成、格差の広がりなどについてデータに基づいて議論しています。西山昭彦『立命館がすごい』(PHP新書)は、私の勤務校である立命館大学について、特に誇るべきポイントを整理しています。クリスティン・ペリン『白薔薇殺人事件』(創元推理文庫)は大叔母の子に際しての遺産遺贈を受けるために犯人解明を進めるミステリ作家志望の女性の活躍を描いています。日本文藝家協会[編]『夏のカレー』(文春文庫)は、特に統一的なテーマの設定はないのですが、著名作家による良質な短編を収録したアンソロジーです。
なお、今年の新刊書読書は1~10月に265冊を読んでレビューし、11月に入って先週までに21冊、本日に7冊をポストし、合わせて293冊となります。現時点で1か月余りを残して、文句なしに、年間300冊に達するペースかと思います。今後、Facebookやmixiでシェアする予定です。
まず、中村二朗・小川誠『賃上げ成長論の落とし穴』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、日本大学の教授を務めた研究者と厚生労働省の局長経験もある公務員OBです。タイトルからうかがえるように、賃上げ成長論についての疑問を呈しています。本書で着目する疑問は2点あって、日本で賃金が上昇していないという通説に対する反論を試みるとともに、加えて賃上げが必ずしも経済成長につながるわけではない、あるいは、不合理な賃上げの弊害や「持続的賃上げ」がインフレを悪化させるリスクがある点、などを指摘しています。私も授業で日本の賃上げを議論する際に引用するグラフがあって、それは「令和4年版 経済財政白書」(2022) p.101の第2-1-1図 主要先進国の実質GDPの推移 です。3枚のグラフが示されていて、いずれもバブル崩壊の1990年や1991年を100とした指数をプロットしたG5先進5カ国のグラフです。上2枚の実質GDPと1人当たり実質GDPはG5諸国の中で日本がドンジリもいいところで、ほぼほぼゼロ成長なのですが、一番下の労働時間当たり実質GDPは日本の数字は他の先進各国G5諸国と比べても遜色ありません。大雑把に、米英が日本より高成長な一方で、日本は仏独を上回る成長となっています。何を示しているかというと、労働者1人1時間当たりの付加価値額は先進諸国の中で決して小さくないのに、第1に、非正規雇用の比率、特にパートタームの比率が高くて、平均労働時間が短いために労働者1人当たりの付加価値が小さくなっています。そして、第2に、労働分配率が他の先進各国に比較して低くて資本分配率が高くなっている結果であろうと考えるべきですが、労働者が生み出した付加価値のうち労働者に分配される部分の比率が小さくなっています。マルクス主義経済学では搾取率が大きい、というのかもしれません。私はこのあたりは詳しくありません。しかし、本書はこの賃金や1人当たり実質GDPの伸び悩みを否定します。本書p.49の図1-3で、どのような計算をしたのかは明らかではありませんが、バブル崩壊時の1990年ころに、いわゆる内外価格差の議論を持ち出して、日本の賃金がほかの先進各国より高かったと主張し、伸び悩みの議論を賃金水準の議論に置き換えて、2008-09年のリーマン・ショック時くらいまでは日本の賃金は先進各国と比べても大きな差がなく、その後、日本の賃金が先進各国を下回るようになったと主張しています。繰り返しになりますが、賃金の伸び悩みの議論を賃金水準で置き換えて否定しようと試みています。そこに、1990年ころの内外価格差の議論を付加しているわけです。ちょっと、どうかという気がします。エコノミストの間で広範な合意が得られるかどうか疑問です。ただ、長期に渡って日本の賃金が伸び悩んだ原因のひとつが、決して階級闘争的でない、というか、戦闘的ではない労働組合にあり、コア労働者層である中年男性の正規雇用から組織された労働組合が、日本的雇用慣行のひとつである長期雇用を守るために、雇用の質的な面を代表する賃金を犠牲にして雇用の量的な確保を求めた、というのは、おそらく、同意するエコノミストが多そうな気がします。賃上げの弊害についても、同じような疑問があり、弊害としてインフレを考えるとしても、それは日本経済が本格的にデフレを脱却してから、という段取りを考えるエコノミストが多そうな気がしますし、一時的に生産性を上回る賃上げが実現されるとしても、ホントに一時的なのであれば分配率の変化でインフレにつながらないような経済運営は可能です。ここまで企業の利益剰余金が積み上がっているわけですから、生産性を上回る賃上げは短期間であれば十分可能だと私は考えます。ただ、最低賃金の今後の展望とも合わせて、本書ではほとんど議論されていない中小企業への一定の配慮は必要であると考えます。
次に、児美川孝一郎『新自由主義教育の40年』(青土社)を読みました。著者は、法政大学キャリアデザイン学部教授であり、ご専門はキャリア教育や教育政策だそうです。諸般の事情により、先週の段階で教育、特に新自由主義的な教育に対する批判を展開している2冊の新書、すなわち、髙田一宏『新自由主義と教育改革』(岩波新書)と鈴木大裕『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)を読んでレビューしたのですが、どうしても初等・中等教育に限定されていて、私が直接に関わっている大学という高等教育について取り上げられていないため、本書を図書館で借りて読んでみました。基本は、初等・中等教育とともに高等教育においても、新自由主義的な教育政策では「教育の市場化」が進められている、という点に関しては同じです。ただ、私自身は大学の学費問題とともに新自由主義的な教育の問題点を考えたかったので、学費に関する問題意識についてはまったく本書でも取り上げられていませんでした。今年、大学教育という私の所属する業界のもっとも大きな話題のひとつは東大の学費値上げでした。慶應義塾の塾長の主張も大きく報じられていたところです。学費の点に関しては本書と離れて、最後に言及するとして、本書では、1980年前後の英米における新自由主義的経済政策を掲げる政権、すなわち、1979年に成立した英国サッチャー内閣、1981年に就任した米国レーガン大統領の政策に呼応するような形で、日本でも中曽根内閣が発足し、いわゆる臨教審路線が始まったと指摘しています。はい、私はそのころにキャリアの国家公務員として社会人になっていますし、割合と身近にそういった新自由主義的な各種政策を見てきたつもりです。そして、本書では、大学レベルの教育における著者ご専門のキャリア教育こそが大学教育劣化のひとつの原因である可能性を指摘しています。およそ、就職を第1の目標とし経済学部や経営学部の学生でありながら、例えば、経済指標の動向などには大きな関心を示さず、社会とは企業社会であることを前提として、そういった環境に順応する教育がまかり通っていて、経済社会における格差や差別に対する疑問、あるいは、政府の政策への批判的な見方などはまったく影を潜めています。その上で、本書の用語を借りれば、「勝ち組のススメ」と「転落への脅し」を車の両輪として、格差を前提とした上で競争の結果を「自己責任」として受容させ、そして、そうした競争に参加することをもって「社会的包摂」に置き換える教育が進められています。最後は、デジタル機器の教育への導入によるGIGAスクール構想により、教育現場がハードウェアとソフトウェアの企業の売込み先となり、デジタル機器を有効に使える生徒・学生とそうでないグループの格差を固定してしまいかねない危うさがあります。私個人の観点ですが、本書では言及されていない学費の問題に関しては、新自由主義的な教育においては、真逆に見える2つの方向性が考えれます。ひとつは、無償化の方向です。典型的には大阪の維新の会による新自由主義教育の下で高校教育が無償化、というか、正確には私立高校の学費無償化が進められています。これは学校や教師に対する競争を促進・激化するとともに、府立高校のうちの不人気校=定員割れ高校の廃止を目論んでいます。大学=高等教育についても、大阪公立大学では学費無償化が進められ、同様の流れが示されつつあります。これは、違う見方をすれば、「金を出すから、口も出す」という政治の教育への介入を招く恐れもあると私は危惧しています。ただし、新自由主義的な教育政策としては、真逆に、大学については学費を値上げし、応益負担の方向が進められる可能性も十分あります。このあたりは、エコノミストの私は専門外ですので、今後の展望などの勉強を進めたいと思います。
次に、井上智洋『AI失業』(SB新書)を読みました。著者は、駒澤大学経済学部准教授であり、ご専門はマクロ経済学です。本書では、AIによる雇用の喪失とともに新たな産業革命や日本経済へのインパクト、人間とAIの共存、などなど、タイトル以外にも幅広いテーマを論じています。もちろん、新書という限定されたメディアですので、やや印象論に偏る嫌いはありますが、かなりまっとうな議論が展開されていると私は受け止めています。まず、当然ながら、現在のAI開発状況について概観されていて、ChatGPTをはじめとする文章生成AI、ミッドジャーニーやステーブル・ディフュージョンに代表される画像生成AIなど、各ジャンルで高機能のAI技術が続々と誕生している点については、改めて論じるまでもないことと思います。そのうえで、もう10年以上も昔の論文ながら、英国オックスフォード大学のフレイ-オズボーンによる論文 The Future of Employment も引きつつ、AIが雇用喪失につながるかどうかを議論しています。私は当然に新しい技術が導入されると雇用は失われると考えています。現在までの歴史がそれを実証していますし、本書でも織機の導入による手職工の失業を契機にラッダイト運動が生じた歴史を持ち出しています。AIの幅広い活用も含めて、機械化や自動化により雇用が失われることは明白なのですが、現在までの歴史では失なわれた雇用以上に新たな雇用が生み出されて、そのために技術的失業が必ずしもクローズアップされていないわけです。ただ、ネットで考えるのではなく、グロスで考えれば、AIにより雇用が失われるという事実は否定しようがないと私は考えています。その上で、新たな産業革命かどうか、国家の繁栄にどこまでAIが寄与するか、あるいは、そもそもAIが必要か、などを本書では議論しています。そのあたりは読んでいただくしかありません。そして、本書では最後に、人工知能(AI)と人間が共生可能かどうかを議論しています。この結論も本書を読んでいただくしかないのですが、ヒントはp.253の「脱労働社会」です。これに付け加えて私自身の考えを展開しておくと、現時点で人間と馬が共生しているような関係において共生可能である、としかいいようがありません。ただ、私は将来におけるポジションとして、いわゆるシンギュラリティ、あらゆる局面でAIの能力が人間を超えるとすれば、人間と馬の関係とはいえ、AIが現在の人間の位置を占め、人間が現在の馬の位置を占める可能性を排除できないと考えています。人間は、ひょっとしたら、AIの家畜化する可能性がないとはいえないと考えているわけです。別の視点からいうと、現在の資本主義、あるいは、かなり新自由主義的な色彩の強くなった資本主義では、生産性によって、あるいは、その生産性が何世代かに渡って蓄積された結果としての富によって、人間がランク付けされている部分があります。もちろん、「法の下における平等」は制度的に確保されているとしても、実際には格差や不平等が広がり、上位者に対して下位者、あるいは別の表現をすれば、「上級国民」に対して「一般ピープル」はなすすべがありません。その昔の『ドラゴン桜』に、「おまえら、しっかり勉強しないと東大出に搾取され放題になってしまうぞ」という趣旨の発言があったと記憶していますが、経済的な搾取だけではなく、ほかにもいろいろとやられ放題になる可能性があるわけです。すなわち、シンギュラリティを超えてAIが人間よりも高い、それもちょっとだけではなく大きく高い能力を身につけてしまうと、現在の「上級国民」のポジションをAIが占め、「一般ピープル」のポジションを人間が占める、ということになりかねません。現在は、生産性が低い、あるいは、富を持たない人間はそれほど尊くはない、という現実が広がっていて、しかも、それは自己責任である、という見方が受け入れられているような気がしてなりませんが、AIの技術進歩が進むにしたがって、基本的人権の理念の下に、「人間とは生きているだけで尊い」、という社会を目指す必要を痛感します。
次に、近藤絢子『就職氷河期世代』(中公新書)を読みました。著者は、東京大学社会科学研究所教授であり、ご専門は労働経済学です。はい、私も役所に勤務していたころに何度かお会いしたことがあります。本書では、1993年から2004年に高校・大学などの学校を卒業した世代を就職氷河期世代として定義し、雇用形態や所得などをデータから明らかにすることを目的としています。ただ、この著者のご専門である労働経済学の小難しい計量経済学的な数量分析は用いられておらず、グラフなどにより直感的に理解できるように工夫されています。ですので、学生やビジネスパーソンなどにも判りやすい内容となっています。そもそも、バブル経済崩壊後の経済停滞がこの世代の人生に与えたインパクトは大きくて、就職から始まる職業生活だけでなく、結婚・出産など家族形成への影響や、男女差、世代内の格差、地域間の移動、、さらに、将来的には高齢化に伴う問題などなど、さまざまな課題が想定されていて、これらについて分析を試みています。詳細は読んでいただくしかありませんが、ザッとテーマだけを取り上げておくと、まず、第1章では労働市場における就職氷河期世代の占めるポジションとして、正規・非正規の雇用形態、そしてそれらに伴う年収などの現状を分析し、第2章では、そういった経済基盤に起因する家族形成について論じています。すなわち、正規・非正規だけではなく所得などの格差から結婚や子育てを考え、通説とは少し異なる結論を提示しています。個人のミクロレベルで見ると、結婚せず、子どもを持たない確率は高いものの、世代を通して考えれば、若年期の雇用状況が悪かった就職氷河期世代ほど未婚率が高いとか、子供の数が少ない、というわけではない、との結論を得ています。同時に、就職氷河期世代から少子化が加速したというエビデンスはない、という分析結果です。女性雇用については、新卒時点では男性よりも女性の方に就職氷河期の影響が大きかったが、それでも就業率や正規雇用率で見た世代間格差は数年で解消していて、この要因としては、晩婚化や既婚女性の就業継続率の上昇により就職氷河期の影響を打ち消している部分がある、と指摘しています。ただ、就職氷河期以降では格差拡大は所得分布における下位層の所得がさらに低下することによってもたらされている点を指摘しています。米国などにおける所得格差拡大は、日本と逆であって、所得分布の上位層の所得がさらに増加することによってもたらされており、いわば、日本国内における国民全体の貧困化が浮き彫りにされた形です。地域間格差については、就職氷河期の影響は地域ごとに一様ではないのはもちろんですが、地域間の賃金格差は就職氷河期とともに拡大ペースが速まった点が強調されています。最後の政策的な対応策はやや物足りないといわざるをえず、一般的なセイフティネットの拡充にとどまっています。まあ、仕方ないのかもしれません。
次に、西山昭彦『立命館がすごい』(PHP新書)を読みました。著者は、ごく最近まで立命館大学の教員でした。大学生協の書店にいっぱい並んでいたので買ってみました。基本的に、立命館大学関係者以外から見れば、悪くいってタイトル通りの「提灯本」と考えられるかもしれません。本書冒頭に明記しているように、教員については論文や書籍、あるいは、ほかの意見表明機会があるだろうから割愛して、他の大学に関するステークホルダー、すなわち、学生・院生・卒業生、職員、学生の就職先や共同研究などの関係企業、さらに、学生を送り込む高校や塾・予備校などの関係者、といったところへのインタビューをコアな内容としています。副学長へのインタビューもありますが、学長はダメだったんでしょうか。まあ、それはいいとして、そいったインタビューの前置きとして、規模、すなわち、学生数で日大と早大につ次いで3番目とか、国家公務員総合職試験や公認会計士試験の合格者数、科研費採択件数、外部評価などを列挙しています。ということで、ほぼほぼすべてなのですが、まあ、何と申しましょうかで、ネトウヨの「日本スゴイ論」みたいで、どこまで信頼性があるのかは疑問ですが、結果的に立命館大学の宣伝になっている面は決して無視できないと考えます。私が再就職する前の世間一般の評判としては、関西の関関同立の中では同志社がやや抜きん出てトップ大学であり、次いで関学らしくて、やっぱり、東京六大学でいえば早大より慶大、明大や法大よりも立教が人気だという人もいて、関西でも「ミッション系の坊っちゃん嬢ちゃん大学が人気」だと聞かされてきましたが、私は各大学の内実をそれほどよく知っているわけではありません。少しだけ見知っているのは国家公務員への就職です。本書でも指摘されているように、国家公務員総合職試験で立命館大学はかなり上位に食い込んでいます。2024年度春試験に限定すれば、東大と京大についで3番目ということになります。でも、試験合格者がかなり多数に上るのは事実としても、実際に採用されるのは決してここまで多くはありません。実は、私もゼミの学生なんかに総合職の国家公務員、あるいは、公務員全般を勧めることはしていません。ここまで人口減少で人手不足が進めば、立命館大学卒業生はそこそこの就職先に恵まれますし、就職後の職場の働きやすさなんかを考慮すれば、公務員がトッププライオリティというわけでもないだろうと考えています。ただ、実際には学生の中にも公務員志望者は決して少なくなく、私自身が国家公務員試験の試験委員をしていた経験者だということもあって、一定数の公務員志望者が集まることも事実です。ついでながら、経済学部という固有の学部限定なのですが、大学院進学も決して勧めません。もちろん、理工学部とか、別学部であれば別の話ですが、立命館大学に限らず経済学部生が大学院に進む利点は現時点で日本では決して大きくないと考えています。ということながら、立命館大学の教員としては、それでもやっぱり誇らしい気分にさせてくれる記述が少なくなく、大学関係者の裾野も広いことから幅広い売上が期待されるのではないか、という気がします。
次に、クリスティン・ペリン『白薔薇殺人事件』(創元推理文庫)を読みました。著者は、米国出身で英国在住の作家です。日本ではまだ知名度が低いものの、英国ではそれなりの評価を得ているようです、ただし、本書は大人向けの最初の出版ということです。英語の原題は How to Solve Your Own Murder であり、2024年の出版です。ということで、小説の主人公は25歳のミステリ作家志望の女性であるアニーです。アニーの母親ローラはそれなりに有名な画家であり、個展を開いたりしています。アニーの祖父、すなわち、母親ローラの父親の妹に当たる大叔母フランシスから彼女の住むキャッスルノールに招待されて屋敷に到着すると、大叔母は図書室の床に倒れて死んでいました。大叔母は手から血を流したらしく、その手の近くには白薔薇がありました。邦訳タイトルの由来をなしているものと考えます。アニーがキャッスルノールに呼ばれたのは、大叔母の弁護士によれば最近遺言書を書き換えて、アニーへの遺贈が盛り込まれている可能性が高いからです。大叔母の亡くなったご亭主は貴族であるグレイヴズダウン家の当主で大金持ちでしたから、莫大な遺産が転がり込む可能性があるわけです。他方で、大叔母はそのグレイヴズダウン家に嫁ぐ前のミドルティーンのころ、すなわち、60年ほど前に占い師から、いつか殺されると予言された言葉を信じており、遺言状はグレイヴズダウン一族である医師のサクソンとアニーのどちらか、殺人犯を突き止めることが出来た方、ただし、1週間以内に殺人犯を解明した方に遺産を譲る、という内容でした。もしも、1週間以内に犯人解明が出来なかった場合、弁護士の孫が勤務する開発会社に地所をすべて売り飛ばして売却金は国庫に収納する、ということになります。アニーは、大叔母が占い師の「いつか殺される」という予言を信じて、さまざまな出来事を文書に残していたキャッスルノール・ファイルを読み漁って、60年前に何があったのか、それは現在にどのようにつながって大叔母の殺人という結果を引き起こしたのか、などなどの真実を突き止めようとします。冒頭何章かは1966年のキャッスルノールの出来事をかいたキャッスルノール・ファイルと現在の出来事が交互に記述されています。ある意味で、1966年のキャッスルノール・ファイルはフランシスらの青春物語ともいえます。フランシスとグレイヴズダウン家のフォードとの出会いはロマンス小説さながらです。もちろん、ミステリとしては本格的な whodunnit であり、犯人探しの王道ミステリといえます。ただし、1966年と約60年後の現在を行ったり来たりしますし、当然、若かりしころの人物と老人となった現時点でも生存している人物がいて、同じ人物で同じ名前ですので、それなりの読解力は必要です。繰り返しになりますが、大人向けの作品は初めてという作家ですし、これから先の作品が楽しみです。
次に、日本文藝家協会[編]『夏のカレー』(文春文庫)を読みました。著者は、江國香織をはじめとする11人の著名作家なのですが、特にテーマを設定していないアンソロジーだったりします。時代小説こそ含まれていないものの、シリアスな短編もあれば、コミカルなテイストの作品もあり、まあ、良くも悪くも各作家の特徴が出ているっぽくて、特にまとまりのないバラバラな短編集です。収録順にごく簡単にあらすじを追っておくと、まず、江國香織「下北沢の昼下り」は、中年男性が主人公であり、70歳過ぎの母親と高校生の娘とともに、タイトル通りに、下北沢のヴェトナム料理店で食事中です。妻は3度目の家出中で、いずれの回も主人公の浮気が原因らしいです。三浦しをん「夢見る家族」は、夜音次=ネジという名の少年で、両親と年子の兄である千夜太=チヨの4人家族です。兄弟の名に「夜」が入っているのは、毎朝夢の内容を母親に話す家族の習慣と関係しているのかもしれません。兄のチヨは母親が期待する内容の夢を語るのに対して、それができないネジと兄弟間で待遇が違ってきます。乙一「AI Detective 探偵をインストールしました」では、主人公はタイトル通りにAI探偵であり、妹を殺した犯人を捕まえるという依頼を受けます。人間に近いながらも人間ではないAIが一人称で語るミステリはめずらしいと思いますし、最後の大逆転のどんでん返しもなかなかのものです。澤西祐典「貝殻人間」はSFです。海から貝殻とともに上陸し、生きている人間とソックリで、本人の生活を乗っ取ってしまう貝殻人間が発生し、貝殻人間に人生を奪われた8人の男女が夜の海辺に集まり、それぞれの境遇を語り合うのですが、決して悲劇ばかりでなく、貝殻人間の保護活動の経験者がいたり、また、それまでの人生を捨てることにより、かえってよかったと感じる人もいたりします。山田詠美「ジョン&ジェーン」では、何度も死にたいと訴えるジョンを、バスタブに沈めて溺死させたジェーンが主人公です。ジェーンは良家の生まれなのに歌舞伎町のトー横で過ごすようになるのですが、ホストだったジョンとの出会い、そしてこういった結末に至る男女の刹那的な生き方に、『野菊の墓』などの文芸趣味をからませた語り口が印象的です。小川哲「猪田って誰?」は、高校を卒業して間もない若い男性が主人公で、「猪田の告別式、どうする?」というLINEが届いたのですが、猪田が誰なのかをサッパリ思い出せず、知り合いの間で連絡が回るばかり、という状況が、半ばコミカルに、半ばシリアスに語られます。中島京子「シスターフッドと鼠坂」は、夏休みに郷里である富山に帰省中の若い女性が主人公です。その帰省の機会に、祖母の澄江から母親である珠緒の出生の秘密を漏らされます。すなわち、母親の珠緒の実の母は祖母の澄江ではなく、東京に住む志桜里という女性であり、祖母の澄江と実の祖母である志桜里は学生時代からの親友であった、ということです。肉親、というか、家族の間の細やかな連帯や反目も含めた感情を見事に描き出しています。荻原浩「ああ美しき忖度の村」は、20年前に現在の村名となった忖度村の若手女性村議会議員の黒崎美鈴が主人公です。村名を決めた20年前と違って、悪い印象となったためイメージ向上委員会が構成されてメンバーとなります。ところが、ほかのメンバーが村の有力者の意向をうかがいながらの会議のために一向に進まないようすを、コミカルかつ軽快に風刺しています。タイトル作である原田ひ香「夏のカレー」は、葬儀から帰宅した主人公を待っていた冴子と主人公の半生の恋物語です。20歳で出会って、一度は結婚を約束しながら、また、何度も人生の節目で出会いと別れを繰り返しつつ、結局は結婚に至らなかった男女が60歳になった人生を振り返る切ないラブストーリーです。タイトル作になっているだけあって、収録短編の中でもっとも印象的な作品でした。宮島未奈「ガラケーレクイエム」は、20代後半の女性が主人公です。実家に帰省した折に、解約したつもりだったガラケーの契約がまだ続いていることを知り、充電したら受信メールがあり、その発信者である高校のころの同級生と会うことになります。最後に、武石勝義「煙景の彼方」は、両親が離婚したころに母方の祖父母の家で暮らすようになった小学生のころを回想する男性が主人公です。祖父が喫煙している時に煙草の煙の輪の中に見えるものがある、しかも、実態を伴っているという不思議な現象を主人公が結婚後に家族を持ってから体験します。繰り返しになりますが、統一したテーマのないアンソロジーです。でも、かなり著名な作者が並んでいますし、各短編作品はかなりいい出来です。特に、表題作の「夏のカレー」は読んでおいて損はないと思います。
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