母は老域を増すばかりで、だからこそわたしは、いつかの未来のためにも「介護以外にも生きた自分(中年期)」を作らなくてはいけないと思うのだけど、その一歩が分からない。
いや、一歩は踏んだのか?
今年になって新しいこと、いくつか始めたじゃないか。社会的ひきこもりだったわたしが、なんて積極的な!!の数々。(自傷的な思考ぐるぐるで気が狂いそうなあまり、未知の危険領域が足元にせまりくるのを感じ、“物理的に時間を埋めなくては”と最初の一歩を出したのがきっかけ)。それは予想もしなかった喜びをわたしに運び、まさに瓢箪から駒的な展開。
ただいつまでもビギナーズラック的な喜びばかりではないんだね。(特にお稽古は泣きたくなるほどの壁にぶつかっている)。
「今やってること」そこから見る世界だけじゃなく、まだまだ想像もしないものを見たり聞いたり触れたりしていいよ、の、どこかからの声。
(まだまだ知らないもの、無限にあるだろうに、具体的に思い浮かばない。それが今のわたしの狭さ)
*
周りを見渡して、「わたしはぽつん、と、孤独だ」としか思えない。社会的労働に従事していないから(気楽である分)固定の人間関係を強制されない。習い事でなじみの顔を見ることはできるけれど、「みなさんはこの習い事の他に仕事や家族など、どっしりとしたバックグラウンドをもったうえで、ここに来ている」と思うにつれ、自分の孤独の輪郭が浮き上がる。
毎日、脳内でおしゃべりするしか、わたしにはしゃべり相手がいない。「そんな世界」を用意したのは他ならぬ自分自身(半世紀以上の生き方)であり、それが分かっているからこそ、この先の人生で「ぽつん」を抜けた時間を作り出せるとは思わず、絶望するしかない。
8月中旬メモ
8月20日(日)
母は二泊三日
ショートステイへ。
色んな方面で
孤独落込み感
強まってるけど
生きてるしか
ない、ので
今日も生きる。
雨不足はなはだしく
地植えのタマリュウや
イワヒバなど枯々の姿。
時季があうとそれは
それは美しい姿になる
苔も茶色ビロード系に。
苔は根っこがないから
苔内の草を引っこ抜いた
だけで、パカっと大きく
苔ごとはがれてしまった。
⇒
⇒
(パズルのように元に戻すの巻!)
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眠る、洗濯しまくり
夕に少し庭しごと
日が暮れてから
コンビニへ。
本日の行動メモ。
(追記。いや飛び込み方を間違えていた、なんて、決めつけるのは、これまた一種の自傷になるね。撤回。
「相手の理解できる飛び込み方」をわたしが知らなかっただけで、その時々、わたしはわたしの目に見える選択を一生懸命にしてきただけだ。自分を責めるな。
この世界では通用しないらしい自己流を貫いただけだ。(通用しないと知らなかったから)(それほどまでにわたしは人間世界のとらえかたが未熟なのかもしれない)。
「水のないプール」に飛び込みまくり、全身打撲しまくり、生涯うなされそうな傷もできたけれど、わたしはわたしを責めなくていい。
人生の初チャレンジ(※)をよく頑張りました、と、むしろ褒めてあげましょう)
※人と対話をしてみたい。という欲をもち、それを実践してみようという試み
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久しぶりに『となりの雑談』聞きながら寝よう。まずは、人生設定「困難を乗り越える」にすると「困難を探しだしちゃう」の話から📻️
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「誰かのプールに飛び込むことではなくて、誰かが見ていてくれるからのびのび自分のプールで泳げるようなこと」、桜林直子さん=サクちゃんの言葉はわたしの解像度をあげてくれる。
わたしはサクちゃんの言うところの「水のないプール」に飛び込んでいたのだろうね。ゴッツン。ゴッツン。頭や全身を打ち付けて、何度も何度も、水のない某プールに飛びこみ続けた。
飛び込み方を間違えていたし、そもそも飛び込む場所を間違えていた。
水のないプールと知らなかったから。
〇この苦しみなくなるなら何でもするくらいの気持ち もちろんなんでもといってもそれをすることで魂めたくそになるまでのことはしないけど
〇あの時日記に記しておけば良かったこと(書きすぎだろうと自粛した)、あの時日記に吐き出しておけば良かったこと(あまりに恥ずかしくて自粛した)、その時々のタイミングで書いておけば良かったなぁ、と悔いる。(悔いる感情が、今朝起床すぐにワーーーーっと襲い掛かってきた)
〇二年前のわたしは自分の感情に恐れることなく自信をもっていて△△なことが起こっても変わらずわたしは君が好きなんだ、△△を目の前で目撃してもわたしの好きは変わらない、心のなかで想っていたけれど、実際は△△な展開未満で嫉妬のヘドロにとりつかれている
2023年8月19日未明~夜のメモ
(追記。人間の感情なんてアテにならん。の見本だね。感情は流れる、質量も熱量も過去と同一であり続けることはない。どんなに辛い精神状態になっても「これはいっときのこと」と自分に教えてあげる自分を殺さないこと!)
人と繋がりたくて、気が狂いそう
なんだな。
(繋がったプレイじゃなくて
安心感あるつながり)
8月18日深夜メモ
追記(8月26日)こんな自分が出てくるなんて、そしてそれを自分で「ただ受け止めて」あげられるなんて、(対処はできない、残念ながら、今の自分の能力では)、これは自分史上の進歩?
いわゆるコーピング(ストレスからのダメージを減らす。各人なりの工夫)上手になろうと、先月、ネットフリックスに入ったのだけど、うーん、これが、仕事をしてくれすぎ、なのだ。
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わたしには元々趣味といえるものがなく、今は本を読むのむずかしいカラダ、散歩するのも容易でない環境であり、「ひとりで出来るお楽しみ」乏しいなか、近年なんとか出来ているのは海外ドラマの鑑賞くらい。
が、最近はCSチャンネルで見たいものがなくなっており、「そういえば、韓国ドラマ『愛の不時着』が気になってたんだよな。流行ったのは三年前だけどネットフリックスでしか放送してないみたい」と思い出し、「生活のなかに楽しみの種をまきましょう(コーピング)」と、迷うことなく加入。
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このひと月余りで見たのは
『愛の不時着』(わたしには合わなかった。見ていてつらい)
『梨泰院クラス』(パクソジュン(パクセロイ役)最高だ)
『マニフェスト』(最終シーズン)
『エミリー、パリへ行く』(シーズン3まで完観)
『キングダム』(韓国のゾンビ時代劇。すぐにリタイア)
『YOU 君がすべて』(ざわざわメンタルやられる。シーズン1を我慢して視聴)
『仕立て屋』(トルコのドラマ。シーズン2まで視聴。男の友情が不可解)
でありました。
見るのは、お風呂に入ってあとは寝るだけのタイミングなんだけど、これが「仕事をしてくれる」。夜の時間を埋められる。考え事をしながら見ることも多く、正直「夢中になった」とか「面白くて見終わりたくない」ほどの情熱はまるでないのだが、一日中自分のアタマ中毒になっていた我には幾分かの気分転換になる。
が、だらだらと見てしまう、ことになるのだなー。意思が弱いというか、(お布団に入るのこわい病があるので、ドラマを見続けることで)「就寝する」行為をあとのばしにするというか。
CMが入らない設定にしてあるため、一話終わったらすぐに自動で次のエピソードが始まって、休憩するのも、「今日はここまでにしておこう」とキリをつけるのも、能動的なアクションが必要なのね。だからいっそう「見るのを止められなくなる」。そして毎晩眠るのが遅くなる。
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毎日思うのさ。「今日こそ、お酒は控えよう」「今日こそ、ドラマ鑑賞は短く、早くお布団に入ろう」と。
なのに毎晩、意思の弱い自分を選んでしまう。
そして体調のわるさを作り出す。
ネットフリックスの解約をしたほうがいいのかな。
8月19日(土)その二
昼頃本格起床。簡単な身支度だけ整えて、お湯を沸かす前にと、朝食の片づけをしていたところに、母がリビングへ。なにか飲みたそうにしていたので、珈琲ミルクを出すと(お昼ご飯には少し早いかなと最初は飲み物だけのつもりだったけど)、「パン」云々と言うので、おかずを作って昼食の支度して、母が食べているあいだ、前日干した洗濯物をたたみ仕舞い、ポータブルトイレの始末をし、漬け置きの洗濯物を洗い干して、などなど。ふぅぅぅ、起床一時間余りのち、やっと白湯を飲む。
生協の大根漬けを開封。とてもうまし。漬け汁(&混ざっていた細かい人参や菜っ葉も)をボールに移して、キャベツとカイワレ大根の和え物にする。あと、味付もずくと(味付けなし)もずくを合わせアボカドと混ぜる。そして牛肉を塩麹のせて冷凍しておいたのとエノキとミニトマトを一緒に煮て、夕飯の準備完了。(母にはプロセスチーズと納豆も)。デザートは桃だよ。
剪定する力なく、結局、あちこちに出没している笹を切ったり、草むしりして「今日のやった感」を吸う。
長年、どこから自分の息苦しさは来ているのだろう?と考えて、ときには自分が生まれる前のことまで(親のこと。自分の前世)考えて、それでも答えが出ないから、ある時点から考えることを止めたんだ。けれど最近、かつては「こんなことで?」とスルーしてきたことごとが、もしかしたら深く影響しているのかもなぁと思うようになっている。母のことあれこれ、父のことあれこれ、姉のことあれこれ、昨夜も歩きながらお風呂に入りながら考えた。そして、わたしはわたしの心を見そうになった。「わたしって、これまでの人生で、家族すら、好きって思ったことないんだな」と。
8月19日(土)その一
目覚めの床で、まず「きのうの帰宅後の苦しいこと」が頭のなかでくるくるくるくる回り、胸のあたりが悲鳴を上げているのに気づき、鎖骨の下を押してみる。右も左も。
そのあと、今日のやること(そろそろ庭木の剪定をして…)を思い浮かべようとしたら、「これか!」の考えが落ちてきた。
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「これか!」の正体は「今日やること」ではない。
常に自分を縛っている姿だ。
例えば「庭木の剪定」は・・・、今の自分があらゆる方向で凹んでおり(嫉妬。自己断罪。劣等感 etc )、自己肯定感マイナスの、とてもしんどい状態なので、せめて手を動かし目に見える成果の出やすい作業をして「わずかでも自分にYESと言わなければ」と、自分に強いてみただけだ。
本当はもしかしたら放り投げてもいいのかもしれないことを自分の仕事と思い込み(手放せない)
自己肯定感マイナスのときに「ならば自分を労わろう」とはならず、「肯定感を上げる作業しなければ」という発想になる
必要な許可(遊ぶとか楽しいことする。気持ちいいこと求める。欲しいものを求める)を与えられない状態に自分をおき続けている
そういう人生設定の癖のことである。
*
「たとばね、お金がない、収入が少ない、どうしよう、どうしよう、と考えていたら、そういう人生の設定を自分に作ってることになるんだよ」(ざっくり意訳)、さくちゃんのポットキャストの話が影響しているのだろうな。
これまで中々認められなかったけれど、わたしは「苦しい」設定を自分で作っているのだ。
今年の夏野菜
胡瓜(地這い)
ズッキーニ黄
ズッキーニ緑(丸型)
おくら(種から)
枝豆(種から)
ししとう
ピーマン
唐辛子
なす
トマト
ミニトマト
かぼちゃ
ウリ
西瓜
ゴーヤ
でした。
今回の「農業用水が出なくなった」ことから発生するさまざまな問題は、わたしの暮らしを見直すチャンスである。
農家ではないけれど、農家並みの広さの畑をやっていた親の手伝いから始めた畑しごと。やがて父は亡くなり、母は自由に歩くこともできなくなり、何年前からだろうなぁ、わたしの「ひとり農」もどきは。(農業というのはおこがましい。枝ののばし方も分からず、間引きは大の不得意で、肥料もやりそびれ、収穫時期を逃したり、などなど、水やり以外はほとんど放置だから、農業的な知識はないのだ)。
やりたいからではなく、惰性でやってきた。わたしがこの土地で不自由なく生きていることへの感謝の気持ちもあったし、両親が好きなだけ使わせてもらった畑を今になり親族(母の実家。関東より移住してきた叔母一人だけこの地に残る)に返しても、返された方が困るのは分かるから、わたしが世話しなきゃいけないの呪縛もある。(みなさん、土地をもっていれば持っているだけ困っている。そんな時代だ)。
正直、畑はつらい。ベランダ栽培とか庭先のミニ畑なら楽しいのかもしれないが、そんな広さじゃないし、家から通うには多少の距離がある。体だけじゃなく、農業用具など色々運ばねばならんし。車を運転できない自分にはたいへんな負担。かつ相手が植物だから、こちらの心身の調子など関係なく、シーズン中は時間も体力もひねりだすことになる。(そして経済的なことをいえば、苗代や肥料代かけても、食べられる量はたかがしれている。人件費を考えれば大損なのである)。それでも畑を止められないできたわたし。
これからどうするんだろ。
「因果応報」という言葉は好きじゃない。
「風が吹けば桶屋が儲かる」は有る! と思っているけど。
すべてはバランスで、人間の理解しうる「因果応報」で語れるほどの単純なものではないのだ。たぶん。
*
先月の大雨で家に帰れなくなったことにつき、「これも生き方を間違っているサインなのかなぁ」と独り言のようにつぶやいたとき、「そんなことないですよ。なにかをしたから罰が当たっているなんてことはない」とある人に言われた。
うん、そうそう。わたしも、「あれをああしたからこういう罰があたる」みたいな考え方をしているわけではなくて、うーん、なんと説明すればいいのだろうか、身の回りの世界がうまくまわっていないときは「なにかのサイン」と、状況に応じては感じてしまうときがある、という話なの。
とても分かりやすい例をあげれば、一昨年の大病発覚は、わたし自身の生き方を見直すサインだった、のような。
農業用水「復旧の目途は三年」とのこと。まわりの皆さん(主に70~80代)は朝の早い時間とか夕遅くに家から水を運んで(軽トラックに載せる大容量の水タンクがあるのですね。あちこちで見かける。モーター利用して水汲み&水の排出できるらしい)(あるいは車に乗らない人は台車に水の樽を載せてよちよち歩いている)ほんとーに頑張っていらっしゃる。わたしのようにほぼ全面的に畑をあきらめたところは見かけない。なので(早々に夏畑を諦めたことへの)自責はゼロでないけれど、仕方ない、体調のせいだけでなく、もともと作物を育てることへの愛情がわたしには乏しかったのだ。
こうなると、秋の仕事、(ニンニクやタマネギなど来年収穫の野菜。カブラ等々の冬野菜。その種や苗を植える)、いさぎよく諦めていいのかなぁ???
朝7時に起きたときから二度寝をする朝8時半まで、ごおごおと音がする。うちの井戸から知り合いの畑へ運ばれる水の音だ。昨昼いくらか雨が降ったらしいので「そんなに水が必要?」とは思うのだけど、元々地域の畑では「里芋」や「苺苗」など水を多く必要とする作物には夜中じゅう水を出しっぱなしにしている人たちも珍しくはないので、まあ、水は要るのだろう。
この音が聞こえるのは洗面所にいるときなのだけど、わたしが朝活している前と後の時間帯も水が撒かれているとすると、いったい毎日、バスタブ何十杯分の水が使用されているのかと思うと、おそろしくなる。
「井戸が枯れないか」心配にするようになり、数週間が経った。
井戸水はうちの生活用水だから、これがダメになれば、たちまち自宅で暮らせなくなる。(家の横まで水道菅が引かれているそうなので、どれだけの日数かかるか分からないけど工事をすれば暮らしは再開できるだろう)。
*
・こんな大量の水を使われるとは思わなかった
・こんな雨の少ない酷暑になると思わなかった
⇒つまりはわたしが甘かった
「水の心配」をしつつ具体的な対処をできない日々に、自分の生き癖をみる。
(〈自分からアクション起こし、他者に関わり、問題を解決しよう〉という正しい道に進めないでいるところがね)。
入浴や家事で使う水を節約し、庭の水撒きも水量を気にしながらの生活を送りつつ、他方「井戸水が枯れないための有益な対策」として「知人への水の開放」を止めたいと言い出せない。「うちの井戸から出ていく水」の音に心臓きゅうきゅう言わせながらも。
事情を話せば、判ってくれる、と思う。
ただわたしに勇気がないだけだ。
(この提供を断れば、相手がとても困るのが分かるので、言い出せない)
単に「気が弱い」ともいえる。
昔から、形を変えて、本意でない事態を一人で負担する(大損となる)パターンは少なくなかった。(とーとつだが、自分の著作物の盗用に気づいたときも、出版社に相談もしなかった。話が長くなるので以下略)。
今回は「勇気がない」と表現してみたが、過去を振り返ると、「前言撤回は恰好わるい」「自分が我慢すればいいだけ」「器の大きい人でいなければ(恰好つけ)」の思いに自分が支配されていたんだな。……その底には「人に嫌われたくない」「揉め事を起こしたくない」気持ちが自覚なくへばりついているのだろう)
*
自分を大事にできていない、ダメダメさん。
よく言うよね。「自分を大事にできない人は、他者も大事にできない」「自分に優しくないと、人にも優しくできない」みたいなことを。
自分がどんな状態であろうとも、他者を大事にしたり優しくすることは不可能じゃない、と、わたしは思っているのだけど、そのかげで自分の中の自分がしくしく泣いていたら、それは幸せな世界とはいえないよね。