たとえば人の評価。それから孫格差。
今週の、テレビ、ラジオ、ネットで、心に留まったこと。
(途中道草を食ってしまったので、話が、長ーいです)
◆ラジオ、津田大介さんの番組◆
いつからこんな失言に寛容になったのでしょう
と、津田さん
(ちゃんと聴いていなかったから定かではないが
「日教組」ヤジの話を指しているのかな)。
安倍政権は、根本的な何かをハズしてしまっているのは確か
と返す、あずまん(東浩紀さん)。
「根本的な何かをハズし」とは、ストンと胸に落ちる表現だなー
と思った。
◆テレビ、林修さんの番組◆
スティーブジョブズは「褒められたい」と思わない人だったそうだ。
人に褒めてもらうことよりも、自分で自分にOKを出せる
(自分に納得できる)ことに価値をおくタイプだったらしい。
おそれ多いが
わたしもそうだ。
「他人からの評価」よりも「自分の評価」がはるかに大事。
(しだいに本題とは外れた話に突入するので、あしからず)
わたしの場合、褒められることをキライとまでは断言しないけど
褒められることが必ずしもウレシイわけではない。
他人の評価なんて当てにならないことが多々あるし
他人の都合次第でいくらでも評価の天地はひっくり変える。
(こんなことを書くと、とても猜疑心の強い人間のようだが
え~っと、そんなことはないと、自分では思っています)
常に、人は、その人の都合で心のジャッジをしているんだもん。
たとえば、ありがちな、ソーシャルネットやブログでの
やりとりというものをみてみると
(読み手の)勘違いの解釈というのは、とても多いと思うし
・・・わたしも、人さまのブログに感想を書き込んだあと
「書き手の意図と違う方向を見ていた」のだと、薄っすら、気づき
恥ずかしくなったことも、もちろんある・・・
(読み手の)そのときの凸心が、ネットの向こうの凹文章に
響いたからと(読み手が)感じ、過剰に評価してしまうこともある。
・・・癒された、孤独感が薄れた、勇気が出たなどの体験を通し
誰だって実に自分に都合よく相手を過剰に評価してしまう・・・
しかし、実際は、凸と凹じゃなくて
凸と◇で、ぜんぜん、かみ合っていない、なんてこともあるのだろう。
(ま、凸と◇の、それぞれが気持ちよければ、それでいいのだが。
必ずしも凸と凹がかみ合う必要はない、というわけですな)
わたしの場合、うれしいのは、互いの意見や気持ちが
深いところで共振していると感じられるときかな。
そのためには、褒められる必要など全然ないのだな。
ときに、意見の食い違う所があってもいいのだ。
(その人とつながれたことがうれしいのだから)。
この共振はわたし自身が感じるものだけど、そういうときは
相手も感じてくれているのではないかと、勝手に思っている。
(あっ、台東区のあなたへのラブレターのようになってしまった)
◆ネット、ちきりんさんのツイッター◆
“11歳くらいから 1万円くらいを好きに使ってみると、お金の使い方を早くから学べてすごくいいと思う” “とか書いてるとまた「お年玉がそんなにもらえない子供のコトも考えろ!」とか言う うへぇな人が集まってくるので、この辺で終わりにします”。
ちきりんさんの2月26日のツイッターより引用
https://twitter.com/InsideCHIKIRIN
この話はだいぶ前にも読んだ記憶があるので
この考え方が特別に心に留まったのではなく
このつぶやきを読んだ翌日、わたしの頭には「孫格差」という言葉が
ぼやや~んと浮かんでいて・・・。「いやいや、テレビの番組表をチェックしていて
この新単語に触れたのだっけ?」との思いもあり はたして
テレビの番組表で知ったのか、それとも、ちきりん影響で
わたしのなかに生まれた言葉なのか?
それが判らず、なんか、もやもや。
余談ながら、孫格差について思うこと。
(「孫をもつ人間と、孫をもたない人間」の格差を指す言葉なの?
まあ、「孫としての立場」からみた格差だろう、ととらえておこう・・・)
格差、あるよね。あり、あり。
祖父母から海外旅行を気軽にプレゼントしてもらう孫もいれば
お小遣いをはじめとした金銭援助をまったくしてもらえない孫も
いる、孫としての経済格差もあろう。
愛情の格差もあろう、祖父母からの学びの格差もあろう。
そもそも、祖父母が4人いる子もいれば
祖父母が一人もいない子もいるだろう。
(いても、会ったこと、連絡をとりあったことがない、という子もいるかも)
格差は、あるのだよ。誰にだって。生まれたときから。
そして、どんな格差であっても、意味がある。
冷たいようだが、ただ、そう思う。
◆テレビ、東京では放映しない、関西発の全国番組◆
核のゴミを、日本の科学者は
いつか安全な処理方が発見されたときに
掘り起こせるよう、暫定的な埋め方をしよう
と考え
スウェーデンでは
将来の人類がどんなことをするか未知であり
兵器として再利用しないとも限らないから
絶対に掘り出せないように
核のゴミを埋める場所をつくった。
どちらも正しい選択なのだろう。
白とも黒とも言えない究極の選択を
迫られることの多い現代のような気がする。
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(途中道草を食ってしまったので、話が、長ーいです)
◆ラジオ、津田大介さんの番組◆
いつからこんな失言に寛容になったのでしょう
と、津田さん
(ちゃんと聴いていなかったから定かではないが
「日教組」ヤジの話を指しているのかな)。
安倍政権は、根本的な何かをハズしてしまっているのは確か
と返す、あずまん(東浩紀さん)。
「根本的な何かをハズし」とは、ストンと胸に落ちる表現だなー
と思った。
◆テレビ、林修さんの番組◆
スティーブジョブズは「褒められたい」と思わない人だったそうだ。
人に褒めてもらうことよりも、自分で自分にOKを出せる
(自分に納得できる)ことに価値をおくタイプだったらしい。
おそれ多いが
わたしもそうだ。
「他人からの評価」よりも「自分の評価」がはるかに大事。
(しだいに本題とは外れた話に突入するので、あしからず)
わたしの場合、褒められることをキライとまでは断言しないけど
褒められることが必ずしもウレシイわけではない。
他人の評価なんて当てにならないことが多々あるし
他人の都合次第でいくらでも評価の天地はひっくり変える。
(こんなことを書くと、とても猜疑心の強い人間のようだが
え~っと、そんなことはないと、自分では思っています)
常に、人は、その人の都合で心のジャッジをしているんだもん。
たとえば、ありがちな、ソーシャルネットやブログでの
やりとりというものをみてみると
(読み手の)勘違いの解釈というのは、とても多いと思うし
・・・わたしも、人さまのブログに感想を書き込んだあと
「書き手の意図と違う方向を見ていた」のだと、薄っすら、気づき
恥ずかしくなったことも、もちろんある・・・
(読み手の)そのときの凸心が、ネットの向こうの凹文章に
響いたからと(読み手が)感じ、過剰に評価してしまうこともある。
・・・癒された、孤独感が薄れた、勇気が出たなどの体験を通し
誰だって実に自分に都合よく相手を過剰に評価してしまう・・・
しかし、実際は、凸と凹じゃなくて
凸と◇で、ぜんぜん、かみ合っていない、なんてこともあるのだろう。
(ま、凸と◇の、それぞれが気持ちよければ、それでいいのだが。
必ずしも凸と凹がかみ合う必要はない、というわけですな)
わたしの場合、うれしいのは、互いの意見や気持ちが
深いところで共振していると感じられるときかな。
そのためには、褒められる必要など全然ないのだな。
ときに、意見の食い違う所があってもいいのだ。
(その人とつながれたことがうれしいのだから)。
この共振はわたし自身が感じるものだけど、そういうときは
相手も感じてくれているのではないかと、勝手に思っている。
(あっ、台東区のあなたへのラブレターのようになってしまった)
◆ネット、ちきりんさんのツイッター◆
“11歳くらいから 1万円くらいを好きに使ってみると、お金の使い方を早くから学べてすごくいいと思う” “とか書いてるとまた「お年玉がそんなにもらえない子供のコトも考えろ!」とか言う うへぇな人が集まってくるので、この辺で終わりにします”。
ちきりんさんの2月26日のツイッターより引用
https://twitter.com/InsideCHIKIRIN
この話はだいぶ前にも読んだ記憶があるので
この考え方が特別に心に留まったのではなく
このつぶやきを読んだ翌日、わたしの頭には「孫格差」という言葉が
ぼやや~んと浮かんでいて・・・。「いやいや、テレビの番組表をチェックしていて
この新単語に触れたのだっけ?」との思いもあり はたして
テレビの番組表で知ったのか、それとも、ちきりん影響で
わたしのなかに生まれた言葉なのか?
それが判らず、なんか、もやもや。
余談ながら、孫格差について思うこと。
(「孫をもつ人間と、孫をもたない人間」の格差を指す言葉なの?
まあ、「孫としての立場」からみた格差だろう、ととらえておこう・・・)
格差、あるよね。あり、あり。
祖父母から海外旅行を気軽にプレゼントしてもらう孫もいれば
お小遣いをはじめとした金銭援助をまったくしてもらえない孫も
いる、孫としての経済格差もあろう。
愛情の格差もあろう、祖父母からの学びの格差もあろう。
そもそも、祖父母が4人いる子もいれば
祖父母が一人もいない子もいるだろう。
(いても、会ったこと、連絡をとりあったことがない、という子もいるかも)
格差は、あるのだよ。誰にだって。生まれたときから。
そして、どんな格差であっても、意味がある。
冷たいようだが、ただ、そう思う。
◆テレビ、東京では放映しない、関西発の全国番組◆
核のゴミを、日本の科学者は
いつか安全な処理方が発見されたときに
掘り起こせるよう、暫定的な埋め方をしよう
と考え
スウェーデンでは
将来の人類がどんなことをするか未知であり
兵器として再利用しないとも限らないから
絶対に掘り出せないように
核のゴミを埋める場所をつくった。
どちらも正しい選択なのだろう。
白とも黒とも言えない究極の選択を
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