びっくりするほど“現実化可能な箱”というのがあって、
「1つ、あんたも入れていいよ」と云われたら
「人にやさしい自分」とか「おだやかな自分」とか
そういうこと書いて入れると思う。
お金も欲しい。
気持ちのいい部屋にも住みたい。
いっぱいの愛情にも触れたい。
などなど
そういう具体的な欲望ももちろんわたしにあるのだけれど
「人にやさしい自分」や「おだやかな自分」でいられるということは
すでに、そういった条件が満たされているに違いない!!!
と思う、浅い自分がいるんだよね。
言い方を変えれば
たとえば仕事があって、お金を稼げて、好きな部屋に住めて
(最低限の条件が整ってはじめて)
こころの平穏も訪れるのだろう
またそうなれば、素直に人の愛情も受け入れられる
(ついで話。人に会うのが平気どころか
人とのコミュニケーションに幸せを感じられるほどの
こころの余裕(豊かさ)があってこそ
生きる楽しみを信じられる)
というのが、今の自分にはあるのだ。
(今の自分は。・・・と書いたのは
「上に書いたような環境的な充実が、本来の絶対の条件ではない」
とも思うからだ。ただ、まだまだ勉強の足りないわたしは
そういったわかりやすいエサ(?)を求めているという・・・)
つまり、わたしにとって
「人にやさしい自分」とか「おだやかな自分」であるということは
少なくとも
生きがいや、お金や、住まいなどが、それなりに満たされてこそ
との思いがあるのだ。
(もう一度書くが、これは未熟な思考であるよのぉ)。
好きな仕事をして、お金も住まいも満足していて
それでも、人には理解されがたい苦しみのなかにいる人はいっぱいいると思う。
大きなトラブルもなく、容姿も端麗、才能いっぱい
生きる全ての道が整っているようにみえても
誰にも話すことのできない悩みをもっている人もいるのだろうな。
その人、その人が、そのときの自分をがんばっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追記 酔っぱらって書いていたらしい。(↑)
「条件が整えば、楽になる。幸せに近づく」なんて
(今のわたしのもっている)思考は、ホント、おろかだと思う。
「条件整わずとも、今の、この自分で満たされる、幸せになる」
覚悟をもった瞬間に、望むべく道は生まれるのだろう。
「1つ、あんたも入れていいよ」と云われたら
「人にやさしい自分」とか「おだやかな自分」とか
そういうこと書いて入れると思う。
お金も欲しい。
気持ちのいい部屋にも住みたい。
いっぱいの愛情にも触れたい。
などなど
そういう具体的な欲望ももちろんわたしにあるのだけれど
「人にやさしい自分」や「おだやかな自分」でいられるということは
すでに、そういった条件が満たされているに違いない!!!
と思う、浅い自分がいるんだよね。
言い方を変えれば
たとえば仕事があって、お金を稼げて、好きな部屋に住めて
(最低限の条件が整ってはじめて)
こころの平穏も訪れるのだろう
またそうなれば、素直に人の愛情も受け入れられる
(ついで話。人に会うのが平気どころか
人とのコミュニケーションに幸せを感じられるほどの
こころの余裕(豊かさ)があってこそ
生きる楽しみを信じられる)
というのが、今の自分にはあるのだ。
(今の自分は。・・・と書いたのは
「上に書いたような環境的な充実が、本来の絶対の条件ではない」
とも思うからだ。ただ、まだまだ勉強の足りないわたしは
そういったわかりやすいエサ(?)を求めているという・・・)
つまり、わたしにとって
「人にやさしい自分」とか「おだやかな自分」であるということは
少なくとも
生きがいや、お金や、住まいなどが、それなりに満たされてこそ
との思いがあるのだ。
(もう一度書くが、これは未熟な思考であるよのぉ)。
好きな仕事をして、お金も住まいも満足していて
それでも、人には理解されがたい苦しみのなかにいる人はいっぱいいると思う。
大きなトラブルもなく、容姿も端麗、才能いっぱい
生きる全ての道が整っているようにみえても
誰にも話すことのできない悩みをもっている人もいるのだろうな。
その人、その人が、そのときの自分をがんばっている。
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追記 酔っぱらって書いていたらしい。(↑)
「条件が整えば、楽になる。幸せに近づく」なんて
(今のわたしのもっている)思考は、ホント、おろかだと思う。
「条件整わずとも、今の、この自分で満たされる、幸せになる」
覚悟をもった瞬間に、望むべく道は生まれるのだろう。